逆転−HERO− (4)
作者: 紫阿   URL: http://island.geocities.jp/hoshi3594/index.html   2009年05月04日(月) 16時31分00秒公開   ID:2spcMHdxeYs
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 ランカスト氏の声が微かに震えているのが分かる。しかしながら、その背に負った感情は他人が計り知れるほど単純なものではなかった。

「――それが悪夢の始まりだった。Daddyはあいつを家にまで連れてきて『これからノエルはこの家で私たちと一緒に暮らす』とまで言い出した。
 その言葉を聞いた時のMommyの反応は、今でもはっきり覚えている。あいつの顔を穴の開くほど見つめていたかと思うと、真っ青な顔になって震え始めて……『どうして、何で……?!』って、うわ言みたいな呟きを洩らしながら後退りするんだ。
 次の日、ボクを連れて祖国(イギリス)へ帰ると言い出したMommyを、Daddyは、止めなかった」

 ランカスト氏は傍の机から取り出したものを私に差し出し、言った。

「Mommyは一年前に他界したけど、遺品を整理していたらこれを見付けてね」
「Diary――日記、ですか」
 何の気なしに受け取ったものの開いてみる訳にもいかず、何となく持て余してしまう。
「読み終わったら声を掛けて」
 彼が空のカップとポットを持って奥へ引っ込もうとするのを、私は慌てて呼び止める。
「これはその、私が読んでよいものでは……」
「ボクの口からは話せない。Mommyの魂を傷付けるようなことはね」
「……」
 ランカスト氏の姿が視界から消え、私の手には古い日記が残される。
 他人の秘密に触れることに多少の後ろめたさを覚えながらもページを繰ると――そこには嫉妬に駆られた女性の想いが、激しく狂おしく綴られていた。

 ランカスト氏の母親――キャサリン=ランカスト女史は、イギリスの大学で知り合った留学生の赤間神之助氏に好意を抱いた。しかし、彼もまたクレア=キャロルという名の女性に好意を抱いていた。クレア女史はフランスからの留学生で、キャサリン女史の友人だった。
 そのことが、余計にキャサリン女史を苦しめたようだ。彼女はクレア女史を友人としては見られなくなっていった。日記には書かれていないが、クレア女史も彼女の気持ちに気付いていたのだろう。彼女は卒業を前にして、赤間氏の前から姿を消した。
 傷心の赤間氏をキャサリン女史はひたむきに愛し、やがて二人は一緒になった。こうして女性二人の無言の戦いには一応の決着が付いた。――少なくとも、表面上は。
 しかし。こういうことに関する女性の勘の鋭さとでも言おうか、赤間氏の心がクレア女史にあることを、キャサリン女史はしっかり見抜いていた。
 だが、その事実を認める訳にはいかなかった。それを認めることは、彼女にとって“敗北”を意味した。赤間氏の妻として、女性として。堪え難い“敗北”を。
 彼女は現実から目を逸らし続けた。それが唯一、理性を保つための方法だったから。――そして、運命の日。赤間氏が『知り合いが事故で亡くなったんだ。この子はその人の息子でノエルというんだが……我が家の子どもとして迎えたい』と、連れて来た少年の顔に宿る面影は、紛れもなくクレア女史のものだった。
 その瞬間、キャサリン女史の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。彼女は信じていたのだろう。赤間氏の心は今は別の方を向いているかもしれないが、いつか必ず自分だけを見てくれる日が来る、と。
 だが、その一途な想いはノエル少年の存在によって無残にも打ち砕かれた……。

 狂おしいまでの愛憎が乱れた文字を通して伝わり、私はそっと日記を閉じる。これより先の領域は、他人が踏み込んでよい場所ではあるまい。

「――あいつは生粋のフランス人だからDaddyの血は入ってない。そんなことはMommyもボクも解ってる……けど、ボクたちが許せなかったのはあいつの存在そのものなんだ」

 顔を上げると、私を見下ろすように立っていたランカスト氏と目が合った。

「Daddyの愛情も、Mommyの笑顔も、あの庭も……あいつはボクから全てを奪った」

 私が返した日記を手に向かいの椅子に腰掛けた彼は、溜息と一緒に言葉を吐き出す。

「だから、ボクは学園内にあるあいつの痕跡を――Daddyがあいつを想いながら植えたスズランの花を、全部排除(デリート)してしまいたかった……。
 この庭だって、物理的にこじ開けるのは簡単だったよ。重機の一台でも入れればあんなレンガの壁くらい一瞬で壊せるし、錠前の合鍵(スペアキー)を作ることだって大した手間じゃない」

 彼の手は、自然とテーブルの上の写真ケースに伸びていた。

「……でも、ボクにはできなかった」

 閉じたままのそれに視線を落とし、独り言のように呟く。

「その後、あいつがフランスに帰ったらしいことを知った。……Daddyが出張だとか療養だとかでこの国を離れるのは、あいつに会いに行くためさ。今回だって、きっとそうだ。
 ――まさか、このボクに後のことを全て押し付けていくとは思わなかったけどね」
 と、例によって口元に皮肉な笑いを張り付かせ、
「だから、ボクは知らないんだ。あの庭の中が今どうなっているのか。……だけど」 
 写真ケースを私に差し出しながら、彼は意外なことを言った。
「これの持ち主なら、何か知っているかもね」
「え……?これは赤間氏のものでは?」
「いや。これを拾ったのは、二週間くらい前のことだよ。……庭がどうなっているかずっと気になっていたんだけど、なかなか心の整理がつかなくてね。
 壁の前でぼんやり立ってたら、角の向こうからひょっこり人が現れたんだ。先客がいるなんて思わなかったからずいぶん驚いたけど、相手はもっと驚いたみたいでね。ボクの横を凄い速さですり抜けて、あっという間にいなくったよ。
 多分その子が落とし主なんじゃないかと思うんだ。もっとも、その人がなんでこの写真を持っているのかは分からないけど……」
 彼の話を聞きながら、私は先ほどあの場所で見たニット帽にフリース姿の女性を思い出す。彼女は一心不乱に何かを探していたが、それがこの写真ケースだったという訳か。
「分かりました。探してみます」
 私は写真ケースを受け取り、ポケットにしまって立ち上がる。

 ランカスト氏がレースのカーテンを開け放つと、黄昏が部屋全体に満ちていった。
 一日の終わりが近付いている。だが、不思議と焦りは感じない。
 全ての負の感情が、穏やかで何処かもの哀しくもあるオレンジ色の光に包まれ、()けていく……どこか、懐かしい感覚。

「……きれいだな。この町には忌まわしい想い出しかないけれど、Daddyが一度だけ連れて来てくれたこの部屋の窓から差し込む夕日がとてもきれいだったことを覚えてる」

(この辺りが引き上げ時か――)

 私が立ち上がるのと同時に、ランカスト氏がゆっくりと振り向いた。
 鮮烈な逆光が彼の姿を闇の中に覆い隠す。オレンジ色から切り抜かれたような人影が私の網膜に焼き付いた次の瞬間、頭の中に閃光が奔った。

(あ……?!)

 私は、前にもこんな光景を見ている。しかし、一瞬の感覚が形になることはなかった。

幸運を(グッド・ラック)

 ランカスト氏の影が言った。それに応える代わりに、私はずっと気になっていたことを訊いてみた。

「……ランカストさん、どうして私にその話を?」

 全てを聞いてしまった今になってみれば、間の抜けた問いかもしれないが。
 彼はもちろん知らないことだが、彼のさいころ錠は何というか……ひとりでに割れた。
 今まで心の奥深く封印していた秘密を、想いを、愛憎の念を、どうして初対面の私などに曝け出そうと思ったのか――

「バラと紅茶が引き逢わせた縁さ。それでいいじゃないか」

 日が落ちるのに併せて彼を覆う影も薄れ、露になった口元は穏やかな笑みを湛えていた。

「キミにはまた会いたいな。今度はシビアな話抜きで、優雅なティータイムといこうよ」

 棘は。花や実に仇なすものを寄せ付けないために、鋭く硬く、尖って生える。だが、敵を傷付けた分だけ自分も傷付き、ぽろぽろと剥がれ落ちていくのだ。
 彼の心に生じた棘がすっかり削げ落ちてしまうまでには、まだ少し時間が掛かるだろう。
 私は追究するのを止めて、その申し出を快く受けることにした。

「ええ、是非」 

「……その時は魅せて欲しいね」

 襟元に、ちくりと突き刺さる視線。

Triple(トリプル) frill(フリル)の黄金比」


同日 某時刻 リストランテ 『HERO』


 聖ミカエル学園を後にして、マンション近くのレストランへ向かう。
 そこで、面会を終えた真宵くんと待ち合わせることになっていた。
 彼女は既に着いていてメニューとにらめっこをしていたが、私が向かいに座ったのに気付くと勢い込んで言った。
「ねぇねぇ、御剣さん。本当に何を食べてもいいの?」
「うム。今日はキミに色々と苦労をかけた。その礼をしたい」
「やだなぁ、あたしは今は御剣さんの助手だよ。このくらいは当たり前だって。
 あ〜、でも。御剣さんがそこまでいうなら――この『魅惑の七光りサラダ』……って、サラダじゃお腹一杯にならないよねぇ。じゃ、こっちだ。『ドキ☆毛ガニだらけのクリームパスタ』」
 私と話している間も、真宵くんの視線は油断なくメニューに注がれている。
「まてまて、せっかくの機会なんだからここはどーんと『本日の肉料理』……って、いやいや冒険し過ぎすぎだよ!よ〜し、ここはいっちょデザートに異議を申し立ててみるか?」
 ……いかん。真宵くんが空腹のあまり錯乱し始めた。
「真宵くん、しっかりしたまえ。こういう時は発想を逆転するのだ。ひとつに決められないのならば、キミの食べたいものが全部食べられるコースで頼むという選択肢もある」
「……スゴイや、御剣さん。なるほどくんだったら口が裂けても言わないようなことをさらっと……!じゃあ、お言葉に甘えて〜……オーダー!『海と大地の冒険コース』っ!」
 私の提案はさっそく採用され、彼女は満足そうにメニューを閉じた。
 
「あ〜、そうそう。御剣さん……じゃないや、“成歩堂さん”にまみちゃんから伝言だよ。『今日は本当にありがとうございました』って」
 前菜からメインデッシュまでを息も吐かせぬ早業で平らげ、店の人間が慌ててデザートを用意しに行った段階で、思い出したように真宵くんが言った。
「そうか。彼女は変わりないだろうか?」
「大丈夫、元気だよ。あ〜、でも御剣さんの話をしてる時は顔が――ホラ、このくらい真っ赤になっちゃってるんだけどね。御剣さん、今度一人で会いに行ってあげたら?」
 ようやく運ばれてきたデザートのイチゴをつつきながら、無邪気に笑う。
「う、うム。時間があれば……」と、私は曖昧に答えておいた。
 こう言っては何だが愛美さんには多少、妄想癖があるようだ。私と真宵くんの間柄もいろいろと誤解しているようだし、この件が片付いたら一度キッチリと弁明しておかねば。
「……だがまあ、今日は本当に運が良かった。彼女のスカートの裾があのような形状でなかったら、明日に繋げることは難しかったかもしれない」
 さりげなく話題を変えると、真宵くんはさして気にした風もなく(……というか、彼女の意識の大半はデザートにいっている)、
「ああ、それ。実はさ、あのスカートの裾ね、最初は普通にヒラヒラしてたらしいよ。だけど公開前日、最後の通し稽古が終わった後にセットから飛び出していた釘にスカートの後ろを引っ掛けちゃって、縦に大きく裂けたんだって。
 メイドの衣装はもう一着予備を作ってある筈だからってんで探したんだけど見付からなかったらしくって、まみちゃん大慌てで破れ目を縫い合わせたの。とんだ災難だよね〜」
 気の毒そうに言う割に、デザートの皿はすっかり空なのだが……。
「だけど、急いで繕ったもんだから縫い目がどうしても目立っちゃってね。それで、思い切ってスカートをああいう形にしたんだって」
「と、言うと……?」
「だってさ、ホラ。裾を絞るとスカート全体にたくさんシワが出来るでしょ?縫い目はそのシワに紛れて目立たなくなっちゃうってわけ」
「成る程」
 私は法廷で見た衣装の形状を思い出しながら頷く。確かにあの時、後ろにそんな縫い目があるとは気付かなかった。とっさに機転を利かしたことが二度も幸いした訳か。
 一人で納得していると、向かいからの熱い視線に気付いた。その先には、手付かず状態のデザート皿……無論、私の分である。
「――ところで、例の件は?」
 私が皿をそっと押しやると、真宵くんは再び満面の笑顔になってフォークを構えた。
「まみちゃんが聖ミカエル学園にいたとき、生徒が温室に自由に出入りできたかってことでしょ?大丈夫、バッチリ聞いてきたよ!あのね……」
「それを食べてからで構わないが」
「あ、そう?じゃ、お言葉に甘えて〜♪」

 真宵くんが二つ目のデザートと格闘している間に、私は今日一日で考えたことをもう一度、反芻してみる。

⇒To Be Continued...

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