アリバイのパラドックス
作者: 異議あ麟太郎   2009年08月16日(日) 15時34分58秒公開   ID:MUDP.QjGps6
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 三月――厳しい寒さもようやく幾分薄らぎ、暖かき季節の訪れを予感させる時期である。市内にある病院の一つM総合病院。捜査一課の西本葉月(さいもとはづき)は腰まで長く伸ばした黒髪をなびかせながら、窓から差し込む陽光に照らされたM病院第6病棟の廊下をハイヒールでリノリウムの床を甲高い音を響かせながら闊歩していた。
 身長はざっと百六十センチちょっとで小柄な顔にぱっちりと開いた目、小さめの鼻、整った眉、顔の均一が取れていて誰がどう見ても美人の分類に入る容姿である。歩き方も背筋をシャンと伸ばし気品に溢れている。一見するとモデル、あるいは、やり手の美人OL、女優といっても通じそうである。とてもではないが刑事だなんてダディーな仕事をしているようには見えない。
 美人刑事は視線の注意を病室番号に払う。目指す病室の番号は六一五号室――彼女の友人が入院している病室である。
 まったく、いつも人に心配かけさせるんだから――そんなことを心のなかで呟き、溜息をつきながら葉月は三週間前のことを思い出す。

 彼――九本九音(くもとくおん)が急性散在性脳脊髄炎にかかり入院したことを知らされたのは今から三週間前の二月の半ばだった。幼馴染でお互いの両親が友人ということもあって西本家と九本家は小さい頃から家族ぐるみの付き合いをしていた。
 そんなわけで、九音が病に倒れると彼の両親から葉月のもとへすぐに連絡がいった。
 九音は推理作家で年がら年中締め切り破りを犯しているせいか今度ばかりは締め切りを破れないとばかりに二月の頭から自宅にこもって原稿と格闘していた。そのためあとわずかで脱稿できるというところで、高熱がでても病院にいかず発熱から三日目ようやく原稿を完成させ、その足で病院に行ったのだがただの風邪にしては堰も鼻水もでないのはおかしいというので検査入院することになったのだが、ここからが大変だった。
 入院から次の日、記憶の錯乱がおきて朝食を摂ったのに摂っていないなどと言い始め、脳炎と判断し、自分の手には負えないので専門医がいるもっと大きなM病院に転院させることにした。
 九音が救急車で搬送された後、家族が病院に呼び出され、医者は「このままの状態なら二週間程度で退院できるでしょうが、この病気は中には病状が酷くなると自力による呼吸が困難になる人もいるので、最悪の場合を考えてICU(集中治療室)に入れておきましょう」と言い、九音は医者の提案どおりICUに入れられたが、かくして医者の言う「最悪の場合」が起ってしまった。
 ICUに入ってから三日目に自力による呼吸ができなくなり人工呼吸器をつけることになってしまった。
 それから二週間九音は生死を彷徨った末に、人工呼吸器もはずれ危機的状況から抜け出したものの、さらにそこからが新たな地獄の始まりだった。
周りの人間が自分に襲い掛かってくるような感覚や聞こえるはずのない子供の声など、幻覚幻聴の症状が如実に現れICUから一般病棟に移ってからも二、三日幻覚に苦しんだ。現実と非現実の間を彷徨したすえその呪縛から解放されたのは発熱から約三週間後のことだった。

探していた病室は左側の廊下の一番奥の個室だった。とにかく、偏屈な人間だから「絶対に個室でなければ嫌だ」とか言って個室を取っただろうと踏んでいたのだが予想どおりである。葉月はお見舞いに持ってきた花を持ち直すと深呼吸をする。なにせ相手はつい最近まで死の危険性まであったのである。第一声を何て声を掛けていいものか思案する。
――考えても仕方がないか。葉月はそう心の中で呟くとドアを軽くノックして扉を開ける。
「ハロー、どう、九死に一生を得た気分は?」
 第一声は変に気づかうようなマネはせず、むしろおどけた感じで接することにする。
「仏にも閻魔にも嫌われた哀れな人間っていう気分かな?」
 シニカルな口調で答えた青年はベッドの背を起こし、それに寄りかかりながらベッドテーブルに手を乗せ、分厚い紙の束を読んでいた。
「入院中も仕事? 少し休んだらどうなの。編集の人だって入院中まで仕事の催促をしないでしょ」
 九音が読んでいた分厚い紙の束はゲラ――本になる前の状態の原稿のことだ――だった。
「編集から後で取りに行くから、頼むからゲラ読みだけでもしてくれって言われてな。まあ、普段締め切り破りしてるから断れなくて……」
 葉月「はぁ」と溜息を付く。普段真面目にやっていないから入院中まで仕事をやるはめになるのよ。そう言ってやろうかと思ったが、わざわざお見舞いに来てまでそんなことを言うのは気がひけたので、喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「突っ立ってないで座れよ」
 九音が窓際の壁に立てかけてあるパイプ椅子を指差す。
 葉月「うん」と返事をしてパイプ椅子をとろうとすると窓から六百メートルほど先に高架線が目に入った。
「毎日電車が通るのを窓越しに見てると、自分が入院して外に出られないという自覚が増してくるよ」
 葉月の視線が高架線にいったのを悟ったのか九音がそんなことを言う。
「外に出られないという意味では病院も拘置所も紙一重なのかも……」
 九音の悲観的な台詞に半ば冗談めいた口調で答えながら椅子に腰掛ける。
「かもな、ところで今日はどんな事件の相談を持ち込みに来たんだ?」
「あ、やっぱりばれた? 入院生活が退屈だろうからアームチェアディテクティブでもやらせてあげようと思って」
「よく言うよ」 
 葉月は仕事上の問題にぶつかったときによく九音に相談した。それは彼が推理作家でありながらエラリークイーン顔負けの探偵としての才能を持っているからである。ちなみにアームチェアディテクティブとはミステリの用語で日本語に訳すと安楽椅子探偵――正確には肘掛椅子探偵になるはずなのになぜか安楽椅子探偵と呼ばれている――で文字通り事件現場に出向かず椅子に座り事件の内容を聞いただけで真相に至る探偵、もしくは推理小説の形式をさす。
「どう、聞いてくれる?」
 葉月は半ば懇願するように言う。   
「まあ、いいさ。どうせ暇な入院生活だし。話してみろよ」

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「事件が起きたのは一週間前ちょうど九音が一般病棟に移った頃ね」
「ああ、そのころは多分幻覚がピークの時だな。あの時の辛さは二度と経験したくねえよ」
 九音は苦笑する。その時のこと思い出しているのだろう。そんな探偵の様子も気にせず葉月は話を進める。
「殺されたのは木下孝史(きのしたたかし)さん。年齢は四十歳で職業は画家」
 葉月はそう言うとトートバックの中から雑誌を取り出しあるページを開いて九音に見せる。見るとそれは美術雑誌のようで、見出しに「美術界を引っ張る鬼才に迫る」と書かれ、一人の男性の立ち姿が映っていた。肩まで伸ばした長髪に筋の通った鼻、細い目からは鋭い眼光が放たれているようだった。足が不自由なのか、右手に杖を持っている。
「四十にしちゃ若作りじゃないか」
 九音は見た第一印象そのままを述べる。カメラ目線でわずかに口元に微笑みを浮かべているその表情からは若さが滲み出ていて、四十という年齢はうかがい知ることはできない。
「その雑誌の記事を読めばわかると思うけど、その方面ではかなり有名だったみたいね。もともと両親はかなりの資産家で働かなくても食うに困らない生活を送っていて、絵は興味半分で始めたみたい」
「なるほど、貧乏ながらも必死に努力して画家を目指してる人間には憎たらしいことこの上ないだろうな」
「まったくね。で、事件は彼の自宅にあるアトリエで起ったの」
 そう言って葉月は事件当日のことを詳しく語り始めた。

 事件が起こったのは正確には三月六日――この日は被害者である木下孝史の誕生日で岐阜の山奥にある彼の自宅では彼の美術仲間を集めて誕生パーティーが開かれていた。
 参加したメンバーは全部で六人。画家の古部豊(ふるべゆたか)、瀬川美穂(せがわみほ)、渡辺翔(わたなべしょう)、
彫刻家の七瀬雪絵(ななせゆきえ)、基樹圭介(もときけいすけ)、そして美術評論家の江藤雄作(えとうゆうさく)である。このとき木下邸にいたのはこの六人と木下孝史自身それから彼の妻である沙良(さら)の八人である。
 パーティーは午後八時に開かれた。
「やあ、みんなさん。集まってくれてありがとう。四十という節目誕生日に親愛なる美術仲間が集まってくれて本当にうれしい。今日は存分に料理とワインを肴に今後の美術界について話そうじゃないか」
 全員が集まると孝史はそう言って、自身の人生最後の誕生パーティーの開幕を宣言した。
 パーティーはしばらく穏やかな歓談とともに進んだが、二時間もした頃だろうか、評論家の江藤が何の前触れもなしに木下に向かってある疑問を投げかけた。
「ところで、木下先生。最近作風が変わりましたね。以前と比べて作品のモチーフが明るいものになったというか」
 木下はそれを聞くとやや訝しげな表情をしたがすぐに
「なに、この年になって新しいことに挑戦したくなったのさ」
 こともなげに言うと、シガレットケースから煙草を取り出し、ジッポライターで火をつけようとする。 
「む、オイル切れか。沙良台所にマッチがあっただろ。あれを持ってきてれ」
「わかったわ」 
木下の妻は夫の命(めい)を受けると、席から立ち上がりマッチを取りに行く。
「江藤君。君は私の作風が変わったというが、君の方こそどうなんだね?」
 木下は先ほどの質問に対して不快感を抱いたのか、言葉にやや棘がある。
「それはどういうことですか?」
「昔の君はもっと辛辣でありながらも的確な評論をしていた。だが今はどうだね、大御所の作品は無条件で褒めるもそれは的外れ。新人に対しては徹底的に扱き下ろすもこれもまた的はずれ。昔の核心を突くようなものはまったく見られないじゃないか」
 挑発的に肩を竦めて見せる。
「ま、まあ、誰でも年月とともに変化が見られるってことじゃないですか」
 木下と江藤の間に漂う不穏な空気を感じ取ったのか、瀬川が仲裁に入る。
「そうね。新人の時は天才だなんて騒がれても、三年も経てば凡人になる人もいるしね」
 嘲るかのように七瀬が言う。
「それって私のことですか」
 瀬川は七瀬のほうを憤怒がこもった視線で睨みつける。
「別に……あなたのことだなんて言ってないわよ」
「ちょ、喧嘩はやめましょうよ。せっかくの木下先生の誕生パーティーなんですから」
 基樹が自分の隣に座っている瀬川にそう言いながら、彼女のグラスにワインを注ぐ。
「そうそう。つまらねえ喧嘩でパーティーの雰囲気を台無しにするのはもったいないぜ。なあ、古部さん」
 渡辺が基樹に相槌を打つと、古部に同意を求める。
「確かに。……そうだ、夕食の後にみんなでポーカーでもしませんか」
 古部がそう言ったとき、ちょうど沙良がマッチ箱を片手に戻って来た。
「奥さん。確かトランプがありましたよね」
「ええ、ありますよ」
 沙良は木下にマッチ箱を渡しながら答える。
「む、一本しか残ってないのか……」
 マッチ箱の中身を確かめると木下は不満なのか口をへの字に曲げる。
「ごめんなさい。マッチなんてしばらく使ってなかったから」
 沙良がそう言うと、木下はしかたがないというと煙草に火をつける。
「どうです。みなさん食事の後に一と勝負。金を掛けて……」
 古部は勝つ自信があるのかわずかに口元を緩める。
「いいだろう。どうせやることなんかないんだし。今日は逆に古部君を身ぐるみ剥がしてやろうじゃないか。なあ、みんな」
 木下は紫煙を吐くと、賛同を求めるように全員の顔を見回す。全員それはいいと笑いあうと、一時期不穏な空気だったパーティーは再び和やかさを取り戻した。この時、時刻は午後九時二分。

「そろそろ私は失礼しようかな」
 ゲームが始まって一時間ほど経った頃木下はゲームの退場を表明した。
「おや、もうお休みになるんですか?」
 古部は時計を見る。時刻は午後十時三十分、寝るには少々早い時間である。
「いや、仕事をしようと思ってね。それに古部君にこれ以上儲けさせるのもなんだしな」
「それはひどいな」
 今宵のゲームで勝ち越している古部は木下が負け越しているのは自分のせいではないのにと言いたげな表情を浮かべる。  
「はっはっは。とにかく私はこれで失礼するよ。後は皆で適当にやってくれ。沙良アトリエの掃除はやっといてくれただろ?」
 木下のアトリエはこの母屋から三十メートルほど離れた場所にある。
「ええ、綺麗にしておきましたよ。あっ、あなたそういえばまた灰皿が吸殻で溢れかえっていましたよ。あれほど吸う量をひかえてくださいと言ったのに。全部棄てておきましたが、今度もあの量だったら煙草を禁止しますよ」

⇒To Be Continued...

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