羽のある生活 4 | |
作者:
トーラ
2008年12月05日(金) 16時52分37秒公開
ID:Ar11ir4Sh.c
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「やはり反応したか」 「――やっぱりって?」 「この翼は元々はお前の物だからな。記憶がなくとも身体は知っている筈だ。これで少しでも力に目覚めればよいのだが」 身体が熱を帯びていた。何となく、感覚的に隆由の言葉を理解できそうだった。翼から何かを受け取っている。逆に、何かを求めているのかも知れない。夜乃には何かを言葉にすることができなかった。 ただ、身体が熱くて、だけども、苦しくはない。心地良いとも、悪いとも判断のつかない高揚した感情。 「空を見てみろ」 声に従い、翼から目を離した。 「……何、これ」 そこには別世界が広がっていた。先刻まで見ていた赤みがかった空が一枚のスライドだったかのように、まったく違うスライドに差し替えられたように、異世界が見えた。 夜乃の立つ時計塔のように大きく、太い白と黒の触手のようなものが世界に張り巡らされている。 白い触手は地に向かって、黒い触手は天に向かってそれぞれ伸び、白と黒が重なり、縺れ合っていた。 触手は何もかもを飲み込んでいる。空も、大地も、建物もすべてを。 「見えたか。案外上手くいくものだな」 「な、何なの? 何でこんなものが」 「これがセフィロトの根だ。天使たちの命の源であり、ヒトの支配の象徴、とでも言えばいいか」 根、という情報を踏まえて再度触手を見ると、確かに表面は樹の皮のようにも見えた。だが夜乃の答えにはなっていない。目の前に見えるものが巨大な樹の根だったから何だというのだ。 「本来、天使は下界では生きられなかった。ヒトを支配するために、下界で生きるためにこの根がある。俺は、この景色が目障りでならない」 白と黒の根に飲み込まれる世界を眺めていると感覚が麻痺してくる。これが、本来の、当たり前の世界なのだと認識しようとしていた。 隆由の声も耳に入ってこない。それだけ、終末すら感じさせるこの景色には力があった。 漆黒の翼。異世界の光景。自分の正体について何も意識してこなかった。 自身について何も知らないことに、強い違和感を覚えた。 「兄さん。いつまでお話してるつもり? 僕の相手もしてくれないと怒っちゃうよ」 第三者の声。首だけで振り向くとスカート姿の優が立っていた。別れる前と同じ格好だった。 「話し込んでしまったな。戻るか。ここは冷える」 夜乃を腕に抱えたまま醜い空に背を向け、隆由が言った。無理やりにではなく、自然と足が動かせるくらいの力で身体を移動させられた。 隆由の翼が一度だけ大きく羽ばたき、羽の雨を降らせた。そして翼が背に寄生するかのように潜り込み、姿を隠した。隆由のスーツには背に二つの穴ができていた。 「悪かった。幾らでも相手をしてやるさ」 隆由の新しい表情を知った。夜乃の持つ知識内で例えるなら、肉親に見せるような敵意のない笑顔だった。夜乃には見せることはないであろう表情だった。 優に歩み寄った時、腰に回していた腕はすでになくなっていた。 4―5 焼きたてのハンバーグに叶がラップをかける。昇るのを妨げられた湯気がラップを白く染めた。食される時まで外気から遮断される。 「上手にできたわねー。夜乃ちゃん、喜んでくれるかしら」 「大丈夫ですよ、詩縫。美味しかったです。味は私が保障します」 日も暮れ始め、蛍光灯の明りがなければ部屋の中が薄暗く感じる時間帯だったが、部屋に明かりは灯されていない。勢いの弱まった日差しが照らすだけだった。 「ありがとう。それじゃあ、そろそろ迎えに行きましょうか」 「私もご一緒しましょうか?」 「大丈夫。貴女はお留守番していて」 詩縫が笑顔で答えた。いつも絶やすことのない永遠を思わせる笑みだ。叶は彼女の表情に絶対に信頼を持っていた。 「分かりました。お待ちしてますね。お気をつけて」 だから、叶は詩縫を笑顔で送り出すことができる。詩縫は絶対に夜乃を連れて帰ってくる。言葉どおり、彼女は迎えにいくだけなのだ。詩縫と同等の力を持つ堕天使に囚われているとしても、そんなものは詩縫の笑顔の前には関係がない。 叶には不安も何もない。思考停止していると言われればそれまでだが、今の感覚はとても穏やかで、むしろ好ましいくらいだった。 「行ってらっしゃい」 「行ってきます」 こうして、ささやかに儀式が終わる。 薄闇の空に白銀の翼が飛び立ち、黒いカーテンに白い軌跡を描く。 詩縫の翼は実体を持つ。光の翼のように自身の姿を隠すことはできない。闇夜を裂く光に気付く者もいるだろう。 詩縫の持つ翼と、幸人たちが持つ翼はまったく別の物だ。最も高位な天使が持つことのできる、限られた翼であり、力の象徴である。 何もできず眺めることしかできない自分に苛立ちを覚えながら、幸人は詩縫の出陣を黙って見送った。 「行っちゃったねぇ、詩縫様」 ぼんやりと陽が言った。晴も陽の傍にいる。厳密には幸人の両側に二人がいる形だが。 部屋の外の玄関の前で廊下に三人が並んでいる。幸人は胸程の高さまである壁に肘を置き、双子はそこに腰を下ろしている。 「やっぱり詩縫様はお綺麗よねー」 幸人には理解できない程、晴と陽の二人は落ち着いていた。苛立つ自分に対する当てつけのようにも感じられる。 「もう、幸人君もいつまでもしょげないの」 「晴様も陽様も、よく冷静でいられますね」 「それは嫌味? だってさ、過ぎたことは仕方無いじゃない」 陽が答えた。もちろん二人に対する嫌味である。真実を言い当てられても気まずさなどは抱かなかった。 「仕方が無いで済まされるようなことですか」 「幸人君が詩縫様についていっても邪魔なだけよ。巻き添えで死ぬのが落ちね。それはそれは笑えなくてくだらない落ちだと思うわ」 続けて晴が正論を口にする。反論のしようのない程、穴のない意見だった。幸人の苛立ちが更に増していく。勢い余って壁を崩してしまいそうになるのを、拳を握って耐える。 「なんていうか、やる気があるのは良いことだけど、もうちょっと身の程を知らないとね。まだまだ若いから難しいかも知れないけれど。まぁ、それは私たちにも言えることね。私が本気で悔しくないと思ってる? 私は幸人君みたいに若くないから、感情を表に出すのが下手になっただけよ」 「まぁまぁ晴ちゃん、そのくらいにしておきなよ。……そろそろ僕たちも行こうか」 微笑を浮かべたまま厳しく反論する晴を陽が制する。晴の声が止まってから、全面的に自分に非があることを幸人は認めた。 「どちらに行かれるのですか?」 「詩縫様の応援に。要は邪魔さえしなければいいんだよ。邪魔にならないところで待機したって、誰にも迷惑はかからないんじゃない? 僕たちにできるのはそのくらいだからさ。あれ? 幸人君、ついてきたそうな顔してるけど」 二度目の図星を突かれる。今回は少々恥ずかしく感じる部分もあった。 「……もちろん、俺も同行させてもらいますよ」 自己満足程度のことでも、行動できることが素直に嬉しかった。自分を慰めるだけだとしても、何もしないよりはましだ。 完全に日は沈み、大地に灯が付き始めていた。空を見ても星は見えないが、地面を見れば人工的な星が輝いているようにも見えた。もう、白と黒の根は見えなかった。 隆由と一緒に部屋に戻ってからはこれといった会話もなく、時折優が夜乃に声をかける程度だった。 迎えがそろそろ来る筈だ、と隆由に屋上に連れだされたのが十数分前である。 風が少し痛く感じる。肌寒いが、そう主張したところでどうにもならないのは分かっている。我慢できない寒さでもない。 寒さなどは気に留めるに値しない些細なことだ。 隆由の翼を見てから夜乃の身体に起こった異変は、治まりかけてはいるが完全に消えることはなく、空気を送り込めば赤く熱を発する火種のように、夜乃の中で確かに熱を作り出していた。 鼓動はとても緩やかなのに、自分は別の命なのだと主張するように、胸を叩く音が全身に響いている。 自分が何かの境界線の上に立っているかのような不安定さ。一歩踏み出した先に何があるかも分からないのに、何かを期待するように心臓は動き続ける。不安かも知れないし、期待かも知れない。どちらとも分からない程に、自身が見えない。 「……分かっていると思うが、お前が天使の力に目覚めれば神にも匹敵する力を持つことになる。その力があれば、目障りな根も、樹すら消し去ることができるだろう」 自身の異変を把握することに集中していた夜乃の意識が隆由に傾く。 隆由は自分の知らない部分を知っている。意味が掴めない言葉の端に、もしかしたら自分を安心させられる物があるかも知れない。聞き流すには惜しい。 「夜乃。俺はな、お前の力に期待している。すべてを無に帰することのできるその力を何に使うのか。願うのなら、一早いこの世の終末だろうか」 「そんなこと言われても……。私は……普通にしていたいだけ。天使とか堕天使とか、そんなのも全部なくなればいいのに」 「それがお前の願いなら叶える力になり得るかも知れんな」 隆由が紡ぐものの意味を見つけることもできないまま、夜乃は真意を見失った。やはり、何も捕まえられなかった。 夜乃の身体に風が吹きつけられた。目も開けられない程の突風だった。 ゆっくりと目を開くと、白く輝く、三対の白銀の翼を持つ女性が空に浮かんでいた。 正に、天使を思わせる姿だった。その人物が自分の母親だということに、一瞬だが気付けず、ただ見惚れていた。 「あんまりうちの子に変なことを吹き込まないでくれるかしら」 聞き慣れた声だった。緊張感の欠片もない、柔らか過ぎて形すらないような緩やかな声音。 本当に来てくれた。今、自分を包む感情は喜びなのだと分かる。 隆由の言葉の意味を深く考える必要がなくなった。母の声を聞くだけで、心細さも何もかもが解消される。 久方ぶりの笑顔が浮かびかけた瞬間に、隆由が強引に夜乃の身体を抱き抱えた。彼の腕に絡め取られ、胸板に抑え込まれる。危険を感じた身体が硬直する。 隆由の翼が現れる。勢いよく背から飛びだし、羽を闇夜に溶かした。隆由の翼も詩縫と同じく三対だった。 「遅かったな。お前の娘もずっと寂しがっていたぞ」 「夕食の用意をしてたら遅くなっちゃったのよ。ごめんね、夜乃ちゃん」 この場にまったく似合わない笑顔で詩縫が言った。そんな間の抜けた母の態度に呆れる余裕は夜乃にはなかった。水槽を九〇度傾けたみたいに、夜乃の感情の位置が大きく変わる。一時の安心は感情の波に飲み込まれていた。 黒の翼がうねり、空を激しく叩きつけ、隆由の身体が舞うように浮かぶ。まるで夜乃を包み込むように翼が羽ばたく。 自分に翼が生えたかのような錯覚が不安定だった夜乃の内面を揺さぶった。 「夜乃ちゃんをどうするつもり?」 「ただで返す訳がないだろう。力ずくで奪い返せば問題なかろう」 挑戦的な口調で隆由が声を張る。暗闇を走り、確実に詩縫に届く声量だった。 二人が翼に込める力が変わったような、空気の色が変わったような感覚に襲われる。黒の翼からも、白の翼からも、自身に何かを訴えかける意思がある。初めて隆由の翼を見た時の比ではなかった。 また夜乃には見え始めていた。白と黒の根が絡まりあう別世界の光景が。空の明るさに関係なく白と黒がはっきりと見える。 仮に自身の目に映る光景が異世界ならば、異世界を見る自分はもはや自分ではなく、異世界の住民なのかも知れない。 自分を見失う。自分が何処かに歩いて行ってしまう。追いかけることもできずに後ろ姿を眺める。 分からないことが増え始める。混乱が頂点に達し、何もかもが分からなくなった。 その時に、ある場面が思い浮かんだ。真白になった頭の中にぽつりと浮かんできた。 何もない空間に跪く二人の人物。白い翼と黒い翼 ――お母さんと……隆由さん? 背中に激痛が走る。ずっと内にこもり続けていた熱が突如暴れ出す。 体験したことのない未知の痛みに耐えかね、夜乃は絶叫した。この世に生まれ堕ちた赤子が己の生を呪って喚くように。 夜乃の絶叫は暴風に姿を変え、世界に波紋を描いた。波紋が通り過ぎる際、波に流されないように詩縫は全力で身体を支えなければならなかった。それだけ凄まじい衝撃だった。 衝撃で電線が切れ、街の一部が光を失っていた。 爆発の中心部にいた隆由はほぼ無傷だった。外見では目立った傷は見つけられない。流石だと詩縫は感心する。 夜乃は隆由の腕から逃れ時計塔の屋上に蹲っていた。世界を傾けるほどの咆哮の後はこれといった行動を示さなかった。 だが、今は彼女に近づいてはいけない。本能が告げている。詩縫は夜乃を恐れている。夜乃の内に眠る力が制御不能にあることが明らかだった。 ⇒To Be Continued... |
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