羽のある生活 4
作者: トーラ   2008年12月05日(金) 16時52分37秒公開   ID:Ar11ir4Sh.c
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 幸人たちの前にいる女性は、夜乃の母親としての詩縫ではなく、天使としての詩縫だった。
「はい。間違いありません」晴が静かに言った。
「そう。だったら、生きて帰ってこられただけでも良しとしましょう」
「ですが、夜乃様が……」
 詩縫の処置に異議を唱えたのは幸人だった。
「タウミエルと一緒にいるのならとりあえずは大丈夫。あの人の考えることは何となく分かるわ」
 タウミエルという堕天使の名を知らぬ者は少ない。堕天する前は詩縫と同じ最上位の天使だったが、第一次集団堕天の際に神に敵対した魔王と最も近しい者の一人で、実力は詩縫と同等かそれ以上である。
「過ぎてしまったことは仕方がないわ。今回は御苦労さま。あとは私に任せてちょうだい」
 詩縫の笑顔が逆に恐ろしく感じる。できることならば詩縫を動かしたくはなかった。何事にいても、詩縫一人いれば事足りる。幸人、晴、陽の三人が集まっても詩縫には及ばない。詩縫が動けば自分たちは役立たずだ。存在価値すら奪われる。そんな状況を作らないためにも、詩縫の手を煩わせる真似はしたくなかったのだが、自分たちえ対処できない問題が起こったのなら詩縫に頼らざるをえない。情けない話だ。
「どこにいるかも分かっているのだし、いつでも迎えに行けるわね」
 詩縫の声が元に戻る。遊びに出かけた夜乃を迎に行くかのような気軽な反応だった。
「……今からではないのですか」
「ファレグ!」
 陽の鋭い声が部屋に響く。予想外の罵声に幸人は身を震わせた。
 陽の罵声の意味を知り、自身の過ちに気付く。
「幸人君、いえ、ファレグ」
 目を細め、すべてを飲み込むような笑顔で詩縫が続ける。
「私に任せてちょうだい」
 大きな声ではなかった。だが、声量と声に乗せられた感情は比例しない。何気ない一言だとしても、その通りに受け取ってはいけない。
「……申し訳ございません!」
 背筋が凍った。心臓を直に握られたような居心地の悪さに小さな吐き気すら覚える。
 詩縫は自分に任せろと言った。その意味を幸人は理解していなかった。詩縫の行動に反論など許されない。
「夜乃ちゃんがいつ帰ってきてもいいように、夕食の用意でもしておこうかしらね。あなたたちはゆっくりお休みなさい」
 それは労いの言葉ではなく、命令だった。



 時計塔の中に人が住んでいるとは思わなかった。想像したことはあったが、実際に誰かが寝泊まりしていると知った時はそれなりの驚きがある。
 夜乃は優と隆由に連れ去られ、時計塔の最上階の部屋に通された。不安と恐怖はもちろん抱えているが、知らない場所に連れてこられた時の緊張と似たようなものだった。震える程恐ろしいとは思わなかった。
 優にも、隆由にも夜乃を簡単に殺せるだけの力があるのは分かっているが、彼らから敵意を感じられなかった。隆由の、危害を加えるつもりはないという言葉は信じても良いと思っている。
 命を賭けて守ろうとしてくれた双子には申し訳ないが、夜乃は隆由を信用できる人物と認識していた。
 楽観的すぎるのだろうか。だが、自分の気持ちを誤魔化し嘘をついても意味がない。落ち着かないが、今自分にできることは流れに身を任せることだけだ。
 今は優と二人きりだった。隆由が何処にいるのか夜乃は知らない。
 皺一つないシーツの敷かれたキングサイズのベッドに座らされ、じっとしていた。優は夜乃の目の前の丸いテーブルに腰かけ、ガラス張りの壁から外を見ていた。幸人との戦いでぼろぼろになっていた衣服を脱ぎ捨て、何故か白いブラウスにフリルで装飾された黒いフレアスカートに着替えていた。似合っているのだが、夜乃は女装というものに抵抗がなく、どうしても優の格好が奇妙に思えてならなかった。
「幸人君、大丈夫かな」
「こんな時までお友達の心配をするんだね」
 可笑しなものを見たかのように優が笑った。笑われただけなのに身構えてしまう。質問などしても良かったのだろうかと口にしてから考えた。黙ってじっとしていれば問題ないだろうが、それ以外の行動を取った場合の反応を考えていなかった。その笑みは威嚇なのか、他愛のないものなのか。
「大丈夫だと思うよ。幸人君は強い人だから。戦ったけれど特に怪我とかしてなかったし」
 昨日の夕食のメニューを思い出すかのように優が話す。ついさっきまで命の奪い合いをしていた者の言葉には聞こえづらい。
「……よかった」
 心に刺さる棘が一つ取り除かれた。棘が抜けた瞬間、驚くほど気持ちが安らいだ。
 自分に関わって危険な目に会った者たち全員が無事だ。本当によかった。
「幸人君のことがそんなに大切?」
「私のために危ない目に遭ってるんだもの。気にするよ」
「そう言ってもさ、それが幸人君のお仕事じゃないの? 夜乃ちゃんのために死ねるのが天使ってものでしょ」
 ひどく冷たい言い草だったが、ほぼ正論だった。
「そういう言い方、やめてよ……」
 自身の生まれで最も呪わしい事柄を、断りもなく肌に触れるみたいに、何の気遣いもなしに指摘する。
 優の心ない一言に嫌悪感を隠そうとは思わなかった。嫌だと、これ以上現実を語るなと告げたくて、自分の気持ちを態度で表わそうと必死だった。
 まるで外敵から身を守り相手を威嚇するみたいに。
 いっそのことこのまま優の怒りに触れて殺されてしまうのも良いかも知れない。今なら、仕方がないと思えるではないか。
「そんなに怒らないでよ。怖いなぁ。意外と夜乃ちゃんって根暗なんだね」
「自分でも明るいだなんて思ってないから」
 嫌われないように話をするのはやめた。投げつけるような返事でも何も気にしない。意味などないかも知れないが、まだ意志表現をやめる気はない。
「ごめんね。そんなに怒らないで。……まだ兄さんは寝てるのかな。お話がしたいって自分で言ってた癖に」
 予想に反して優が折れる形になった。無理やり連れてこられたというのに、まったくもって緊張感がない。二人の目的は一体何なのだろうか。優の言葉どおり、本当に話がしたいだけなのか。
「悪いけど、起こしに行ってくれないかな? その方がさ、早く帰れると思うよ。屋上にいると思うから」
 優が外に続く階段を指さした。命令ではなく、勧める程度のものだった。最後の判断は夜乃に任せている。
 ずっと優の傍にいても何も好転しないだろう。
 少しの間悩み、夜乃は黙って腰を上げた。



 風が強かった。髪が意思を持ったかのように暴れ、顔に纏わりつき鬱陶しいことこの上ない。
 遮る物が何もない、ただ広さを感じられる場所だった。まるで、街と空の境界線に立っているみたいだ。
 空はまだ青いが、火を水で薄めたような淡い赤が空の端から現れていた。
 広いけれど、足場のある面積は空に比べれば微々たるものだ。限られた場所だけを見渡して隆由の姿を探したが、探すまでもなかった。
 隆由の後ろ姿だろう人影が、屋上と空との境界の近くで佇んでいるのが見えた。一歩踏み出せば重力に身体をさらわれ、地面に激突するだろう。
 隆由に警戒しながらも、一歩ずつ彼に近づく。
 隆由は夜乃の知識の外に存在している。実際には見たことのない猛獣のようなものだ。普通の人のように接するのは間違いのような気がして、隆由に気付かれないように足音を殺していた。
 隆由程の人物なら、夜乃がいかに気配を消そうと意識したところで存在に気付けない筈がない。彼の後ろ姿にまったく変化がないのは、あえて気付いていないふりをしているだけなのか。
 どちらにせよ、遠くから背後を見つめているだけではただ時間を浪費するだけだ。
 少しずつ距離が縮まる。あと少し時間が過ぎれば手が届く距離まで近づける。
「あの、何で私をここに連れてきたんですか? 話がしたいんじゃなかったんですか?」
 隆由の後ろ姿に向けて言った。もしかしたら声ごと風に飛ばされ、彼に届いていないのかも知れない。
 だから、返事が返ってこないのか。
「――サンダルフォン、か」
 もう一度声をかけようとする前に、隆由が反応を見せた。呟くような声が聞こえた。
「少し眠っていた。すまないな」
 素直に謝られ、夜乃は大いに戸惑った。まるで、自分を対等に扱っているように感じたからだ。
 夜乃は優の言葉を思い出していた。隆由を起こしてきてくれ、と優は言った。まさか本当に眠っていたとは。
「ヒトの身体を得るということは、同時に耐え難い誘惑に襲われるということだ。眠気だけはどうしても、抑え込むことができなくてな」
 隆由が振り返り、一人で話し始める。それは一人言なのか、自分に向けられたものなのか。沈黙を守り隆由の反応を見る。
「シヌイは、ヒトとしての生活を楽しんでいそうだが」
「……お母さんを知ってるんですか?」
「古い友人だ。俺も、あいつも昔は天使だったからな」
 最もよく知る人物の名前を聞き、ほぼ反射的に質問したが、律儀に隆由は答えてくれた。意思の疎通は可能なのかも知れない。恐怖はずっとこびり付いているけれど、何とかなるだろうか。
「あいつも、よくここまで育ててきたものだ」
 隆由の表情が軟化し驚く程穏やかな笑顔を見せる。天使だとか堕天使だとかはもう気にならなくて、一人の年上の男性として夜乃の目に映った。一瞬だけ、張りつめていた感情が緩んだ。
「恐がらなくていい、何もしない。もう少し傍に来てくれた方が話しやすいんだが」
 夜乃は隆由との間の距離を確認した。確かに会話をする距離ではなかった。
 疑うだけでは何も進まない。少しは危険を冒さなければどうにもならない。観念して夜乃は隆由の隣まで近づいた。
 腕が届く程度の距離間には何か不思議な力があるような気がした。隆由の気配か何かが、身体を撫でられるみたいに感じられた。あまり心地の良いものではなかった。
 不意に隆由の腕が伸び、夜乃の腰に巻き付く。驚きすぎて声もでなかった。考えるよりも早く腕を解こうと暴れたが、どうしようもない程に絡め取られていた。
「暴れるな。落ちるぞ。もしもがあってはいかんのでな、支えただけだ。まだ翼も操れるのだろう」
 足下を見ると簡単に落ち着けた。逆に冷え過ぎるくらいだった。高い場所が苦手ではないが、苦手云々の問題外な高所に立っていることに気付く。
「いらぬ世話だったか?」
「――そんなこと、ないです」
 異性に腰を抱かれた経験など殆どないせいだが、この程度のことで恥ずかしがる自分が情けなかった。
 深い意味もなく、ただ身体を支えられているだけだというのに。
「しかし、醜い光景だな」
 隆由の言葉はいつも唐突に発せられるような気がする。夜乃は何の準備もできていない。前ぶれもなく話しかけられたところで返事など用意できる訳もない。
「え、と」
 隆由が何を指して醜いと言うのかをまず考えた。夜乃の目に映るもので醜く見えるものは何ひとつなく、隆由の言葉は夜乃を悩ませた。
「見えないのか」
「……どういうことですか?」
 自分に話しかけていないのかも知れない、と夜乃は思った。だから、こんな理解に苦しむことばかり並べるのだ。
「セフィロトの根が見えるのは限られた者だけだ。サンダルフォンを宿すお前が見えない筈はないのだが」
「私にも分かるように話してくれませんか。……後、私には夜乃って名前があります」
 こんな意見をする辺り、自分はかなりの油断をしたのではないのかと気付く。最初は恐怖を抱えていたことも忘れ、下手をすれば殺されるかも知れない危険を冒してまで意見するようなことだっただろうか。黙って頷いていればよかったのではないか。
 危険を危険と認識せず、思い立ったことをただ口にしたが、自分の立場を思い出すのが遅すぎた。
「……分かった。少し待っていろ」
 隆由の声の後に風が澱んだ。時の流れさえ歪められたかのような気味の悪さに襲われる。
 暫くすると異常な空間もなくなり、数秒前と同じように風が夜乃の身体を撫でていた。
 数秒前と違うものが一つ。それは風と共に流れていく。
 視界に幾つもの黒羽が舞っていた。
 何処から飛んできたのか。そんな夜乃の疑問は一瞬で解決される。隆由の背に漆黒の翼が出現していた。
 夜乃が今までに見たことのなる、実体のない、光でできた翼ではなく、黒曜石のような艶やかさを持った一対の鳥の羽が隆由の背に見える。
 その漆黒の翼から視線を逸らすことができなかった。珍しいからだとか、そんな単純なものではない。
 自分でも意識できない感情の奥深くがささやかに騒ぎ始めている。
 何を、訴えようとしているのだろう。
 何故、懐かしさを感じているのだろう。
 隆由の翼を眺め続けていれば、何か一つは疑問が解決されるかも知れない。だが、心の騒ぎが大きくなっていくだけだった。それ以外の感情も、答えも思い浮かばない。

⇒To Be Continued...

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