そのページを破らないように
『ねえ。。このままでいいと思う?
わたしはもう、あなたの元には帰れないんだよ。あなたは固い職業もってるし、わたしが言うのもなんだけどカッコイイし、この後の事は何も心配してないよ。すぐにいい人が見つかると思う。だから……』
これは彼女から一か月前に届いたメールだ。
僕は、細く日焼けした指でマウスを握り、タバコのヤニで変色したマックの画面の中の彼女のメッセージを見つめ直していた。
部屋は大体片付けている。冷蔵庫、テレビといった大型の家電製品以外の小物は段ボールに納め、後はふたをするだけだった。梱包作業の途中で、ガムテープが切れた。ビニール紐もいる。すぐに買いに行きたかったが、また思い出して彼女のメッセージを見返していた。
ダイニングキッチンと六畳の二部屋は、料理もしないこれからの僕にとっては広すぎる。一部屋はダブルベッドが置いてあるだけの寝室だが、もうあのベッドは処分することにする。今度は布団が一つあればいい。
もう一つの六畳のこの部屋には、パソコンとテレビと電話が置いてあるだけだ。作業途中の引っ越し用段ボールは、全て広いダイニングキッチンに置いてある。壁や、冷蔵庫に張ってあった、彼女の字のいろんなメモや彼女の好きだったポスターも破って捨てた。次の部屋は、もっとシンプルで、ゆっくり寝ることが出来ればそれでいいよ。
「さて、ガムテープ買いにいくか」
僕はひとりごとを言って、部屋を出た。そういえば、ひとりごとが極端に増えたようにも思う。これは彼女も同様らしく、いつか来たメールに書いてあったのを思いだした。
真夜中のコンビニのガラス戸を押しあけると、中から震えが来るほどの冷気が飛び出し、僕を包みこむ。
冷房を効かせすぎた明るい店内に、他に客はいなかった。レジカウンターの中に、五十代半ばくらいの、派手なアロハシャツ着たおっちゃんがいるだけだった。
僕は足早に、迷う事なく、陳列棚の中からビニール紐とガムテープだけを手に取り、それをレジカウンターに持って行き、ドサっと投げるように置いた。カウンターの中のデプッとした、白髪を短く刈り込んだおっちゃんは、それを一つずつ両手で持ち、しげしげと商品を眺めた後、僕の顔を見て静かに言った。
「引っ越しするのかい?」
目線を外し、ただ頷いてみせると、おっちゃんは少し悲しそうに微笑みながら、かなり大きなよく通る声で、すぐ目の前にいる僕に問いかけた。
「いつ引っ越しするんだい?」
「明後日です」
「土曜日かい?」
僕はおっちゃんの後ろにあるカレンダーを指差しながら、無表情に答える。
「今、金曜日になったんで、十六日の日曜日です。その日に引っ越します」
僕の返事におっちゃんは、目尻にシワを寄せ、「そうか」と言いながら本当に寂しそうな顔を見せた。
そして、「どのくらい住んでいたかな?」と訪ねてきた。
僕はこのコンビニの上に住んでいる。
このコンビニは、十一階建てのマンションの一階にあって、どうもこのマンションのオーナーというのが、この白髪のおっちゃんらしい。
昼間は若い寡黙な店員が交代でいるけど、夜中はこのおっちゃんだけが店にいる。他のマンションからここに引っ越して四年になるけど、毎日のように覗くこのコンビニの、この話し好きのおっちゃんの事はどうしても好きになれず、興味など持っていなかった。
おっちゃんが店の店長らしいことには、最初から気付いていたけれど、このマンションのオーナーである事を知ったのはつい最近だ。おっちゃんの胸の名札にある「宝山」という景気の良さそうな名字と、家主の名前が同じである事を契約書を見返していて、やっと気付いた。
「あんたが五階の一号室の福原さんだ。 そうかい、引っ越すのかい。さみしくなるな」
「はは」
僕は軽く愛想笑いしながら、お金を払い商品を受け取って、出口のほうを見た。おっちゃんと長話をする気はまったくない。これ以上話しかけるなよ――と思い、わざと下を向きながら店を小走りに出た。
高校生くらいの若いカップルとドアのところですれ違い、おっちゃんの「いらっしゃい」という威勢のいい声が、閑散としたコンビニに響いた。店を出て振り向くと、今度はそのカップルに話しかけているのがガラス戸の向こうに見えた。
まるで、魚屋か八百屋のオヤジのようなおっちゃんだった。
あのおっちゃんは、いつもそうだ。来る客来る客、友達のように全てに話しかける。僕みたいにろくに話をしようとしないものにまで話しかける。僕は人と話をするのはそんなに好きじゃないから、うっとおしくて堪らない。話しかけるなって顔をしていてもおかまい無しだ。僕はこの三年間、ろくに返事をしなかったし、まともに答えたのは今日が始めてだったかもしれない。
僕はそれから、コンビニの横にあるマンションの入り口からエレベータに乗り、部屋に帰った。
ひとりぼっちの、僕以外がいない部屋は、やたら広く感じる。
テープが切れたから慌てて買いに行ったけど、がらんとした部屋を見ているうちに、なんとなく続きをやる気が失せてきた。買ったばかりのテープを段ボールの上に放り投げると、ガムテープだけが跳ね返って落ち、コロコロと転がって冷蔵庫に当たって止まる。テープをそのままに、その冷蔵庫を開けてペットボトルのコーヒーを取り出した。そういえば、もうこんな大きな冷蔵庫もいらない。
ペットボトルからコーヒーをコップに移し、お気に入りのジッポーでタバコに火をつけてから、僕はパソコンの前に寝転がった。
僕はパソコンを畳の上に直においている。その前で寝転がって、右手だけでキーボードを打つ。
いつもの、腰を悪くしそうな、ちょっと苦しい体勢で今日も彼女にメールを送ってみる。
『僕は明後日の日曜日に引っ越しを決めたよ。離婚届は、サインと印鑑押して下の郵便受けに入れておくから、昼にでもそれとって市役所に提出しておいてね』
どうせ返事は昼以降にならなきゃ来やしない。明日来るかどうかも分からない。
この半年間いつもそうだ。
それでも僕はブラウザを開き、お気に入りのサイトを見ながらも、メールソフトを立ち上げたままで、一晩中何度も受信ボタンを押し続けている。無意識の内に、彼女からの返信をいつも待ち続けている。
「あれ?」僕は一人の静かな部屋で、つい声を出してしまった。
送信して五分もしないうちに受信箱に何か入っているのだ。それは彼女からの返事のようだった。
『タッちゃん。。いよいよなんだね。。了解しました。明日、あなたが仕事に行ってる間に、離婚届とっときます』
僕はかなり驚いた。
彼女は、一度も僕のメールの返事をこんなに早く返信したことなんかなかったからだ。彼女は今パソコンの前にいるんだ――僕は慌てて返事を返した。
『どうしたんだ? 珍しいね。今夜は家にいるんだね。頼んだよ、離婚届』
僕は、今時携帯電話も持ってないし、興味もない人間だ。必要もない。半年前まで、パソコンもそうだった。今でも正しいキーボードの打ち方なんて知らない。だからいつも右手の人さし指と親指だけを使ってキーボードを打つけど、それで充分だと思う。だって目の前のマックは、たどたどしくてもメールさえ打てればいいんだから。
『了解。。ねえ、タッちゃん。どこに引っ越すの?』
チャットとやらの存在は知ってはいるけど、やった事はない。今、こうやってすぐにメールが返ってくる状態っていうのは、そのチャットに似ているのだろうな。僕はリアルタイムで半年ぶりに彼女と話をしているんだ――そう思うと、楽しくて、そして少しだけ悲しかった。
『教えないよ。君だって教えてくれなかったじゃないか。君が教えてくれれば教えてやるよ』
『だって。教えたら見張られそうな気がするもーん。。』
『見張らないよ。まあいいよ。教えてくれなくても。僕も教えないし。ところで、今は一人で住んでるのかい?』
今度はなかなか返事がこなかった。僕はタバコに火をつけて、灰皿でもみ消し、またタバコに火をつけた。そうしてそれを繰り返す間、何度も受信ボタンを押し続けた。
『うん』
二文字だけの返事が届いたのは、三本目のタバコが無くなりかけた時だった。
『ねえ、話変えよう。君は電話も教えてくれないし、こうやって話っていうのも変だけど、話するのも久々だよね』
今度はすぐに返事が届いた。
『ねえ。。わたし、楽しかった事ばかり浮かんでくるよ頭の中。楽しかったな、大分の遊園地。なんてとこだったっけ? フリーフォールでタッちゃん悲鳴上げたよね。あれ、おしっこチビってたでしょ。わたし、タッちゃんのズボンの前が少し濡れてたの知ってたけど、黙ってたんだよ』
『何で今頃、そんな四年も前の事を言う。ちびってないよ。あれは、その前に手を洗った時に付いたんだよ。それいうなら、君だって別府で道ばたでションベンしたじゃんか。僕に見張らせといて。人が来たら慌てて走って逃げたじゃんか。あれ、ちゃんと拭いてなかったから、パンツ濡れてたんじゃないのか? え? 違うのか?』
『うるさい』
僕はパソコンの前で少し笑った。言われてみたら、その通りだ。楽しい事しか浮かんでこない。よく行った旅行のこととか、日常でも笑わせる事はいくらでもあった。無口な僕とおしゃべりな彼女の組み合わせは、今思えば絶妙だったと思う。内気な僕を常にリードしてくれていたし。
『ねえ。。』
次の返事もすぐに来たけれど、その後がなかなかこなかった。『ねえ。。』の後に何か入って来るはずだと、僕はまたイライラして受信ボタンを押し続けた。
パソコンの画面を凝視しながら、右手でタバコを探ってみると、タバコは一本も無い。よく見ると、九百ミリリットル入りの微糖のコーヒーも、ほとんどない。
「しまったなあ……」
時計を見ながら、ついひとりごとを言った。午前零時四十分だ。仕事は昼からだから、起きているのはいいんだけど、タバコもコーヒーもない。ここいらで売ってるとこといえば、下のコンビニだけだ。特に、あのコーヒーだけは、なぜか他のコンビニには売ってない。缶コーヒーだと甘すぎて気分が悪くなるし、ブラックだとタバコを吸ってるうちに胃が痛くなるし。
『ちょっと、タバコとコーヒー買ってくる』
そう送信して、急いで部屋を飛び出した。
「いらっしゃーい。また来たね、福原さん!」
コンビニのガラス戸を手で押し開くと、また誰も客がいない店内に、おっちゃんの声が響いた。
僕は足早に飲みものコーナーから例のコーヒーをとると、思いっきりの無表情を作って、下を向きながらコーヒーをカウンターに置き、おっちゃんの横のクリアケースを指差した。タバコは、カウンターの中にあるから、話したくなくてもしょうがない。
「セブンスターを四箱ください」
おっちゃんは、白い無精髭を生やした口を大きく開け、またどでかい声で返事をする。
「はい、まいどぉ! セブンスターお買い上げ!」
うるさいよ――僕は、わざと顔を歪めて嫌悪感を表してみたけど、おっちゃんはおかまいなしだった。
「ねえ、福原さん。どこに引っ越すんだね? 」
これだよ。これだから、僕はこのおっちゃんが好きになれないんだ。友達でもないのに、人のプライバシーをずけずけと覗こうとする。話し好きなら、コンビニなんてやらなきゃいいんだ。コンビニに会話を求めて来る客なんかいるものかよ。
「ねえ福原さん。奥さんは一緒にいないんだろ? 何があったんだい?」
うるさい! ――声にこそ出さなかったけど、僕は思いっきり態度に表した。金を、投げるようにカウンターに放って、タバコとコーヒーをおっちゃんの手からむしり取って、大きな足音を立てながら、そこを出てやった。出てから、マンションの入り口とコンビニの入り口との間の壁を、思いっきり蹴飛ばしたら、スリッパの乾いた音が静かな夜の街に響いた。
おっちゃんはどんな顔をしてるだろう? 少し、大人げなかったか、とも思ったが、もう引っ越すんだし、顔を合わせる事もないからどうでもいい。
空を見上げると、たくさんの星が光っている。僕はそれをじっくり見る事もせずに、熱くてむぁっとする空気を避けながら、また急いで冷房の効いた自分の部屋に帰った。
部屋に帰って、何度も受信ボタンを押したけど、返信はなかった。
僕は、買ってきたばかりのコーヒーの蓋を回し、こぽこぽとコップに注いで、がばっと飲んだ。
そして、大きなため息をつきながら、過去に受信したメールと、その返事の僕のメールを開いてみた。
一人で暮らし始めて、毎日必ず見てきた受信メールと送信メール。半年前に買った僕のパソコンの中には、彼女とのやりとりしか入っていない……
彼女とのメールのやり取りは、最初の頃こんな内容だった。
『ねえ。。タッちゃんはカオリちゃんの事好きだったでしょ。性格の良く似た私を通して、カオリちゃんの事を見てたんでしょ? 本当は知ってたんだ。。タッちゃんがカオリちゃんの事好きだったって。プロポーズも私からだったもんね』
『うーん。確かに好きだったかも知れないけど、今は違うよ。正直に言えば、結婚する前はそれほどでもなかったかも知れない。でも、今は違うんだよ。この四年間、一緒に過ごしてきて、本当にかけがえのない人だと思ってる。だから……また帰ってほしい。元気なその笑顔をまた見せてほしい。僕はいつまでも君を待っている』
『ねえ。。タッちゃんは一度もわたしを名前で呼んでくれなかったよね。どうして? わたしを一度も疑う事はなかったよね。どうして? タッちゃんは、いつだって自分の事しか考えてなくて、わたしの事考えてくれなかったよね』
『名前を呼ばなかったのは、僕が照れ屋だからだよ。それに君の事を考えていなかった訳じゃない。僕は、夫婦でも踏み入ってはいけない領域があるって思ってる。だから、君の事は信じてた。好きな事をお互いにやればいいって言ってきた。なのに、なんで? 好きな事をやるって言っても夫婦にはルールがあるはずだろ? 僕は今、とても苦しい。そして寂しい。あんなことがあってから、こうやって離れて暮らして、僕は他の事が手に付かなくなった。君のことしか頭の中にない。本当に大好きになってしまった君のことしか考えられなくなった。君の全てを教えてほしい。僕が知らなかった君の全てを知りたくてたまらない』
『ねえ。。わたしはタッちゃんを裏切ったんだよ。わたしはタッちゃんの優しさに甘えて、タッちゃんを裏切ったんだよ。タッちゃんに嘘ばっかりついてきたんだよ。本当の事を全部いったら、必ずタッちゃんはわたしの事を嫌いになる。だから言えない』
『約束が違うだろう? こうやって離れて暮らそうって言い出したのは、君の方だろう。口では言えない事をメールで話し合おうって言い出したのは君の方じゃないか。だから、僕はマックを買ったし、君だってノートパソコン買ったんじゃんか。今、君がどこに住んでいるのかも僕は知らないし、ほとぼりがさめるまで会わないようにしようって言い出したのは君の方じゃないか。僕は今、何も手に付かない。君の事を考えて何も手に付かない。君に会いたい。君の全てを受け止めてやりたい。だから君の全てを教えてほしい。いつから僕に嘘をついていた? いつから? 教えてほしい』
『大好きなタッちゃん。わたしは、優しいタッちゃんの事が好きだった。でも、あれから急に変わったよね。裏切ったのに、許してやるって言ってくれたけど。。ずっと死ぬまで一緒に暮らそうって言ってくれたけど。。いつもわたしの事を見て、わたしの事を見張って調べて。いつだってジーッと見られてるようで、わたしは息がつまった。だからわたしは逃げ出したんだよ。わたしは卑怯者なんだ。苦しんでるタッちゃんの視線に耐えられなくなって逃げ出したんだ。だからほとぼりがさめるまで離れて暮らそうって言ったんだ。お互いがもう一度自然に会えるように』
時が解決してくれると――この頃の僕も、彼女と同じように考えていた。
僕は彼女のメールを見ると、いつも胸が熱くなる。
心臓を何かに鷲掴みにされたように、苦しくてたまらなくなる。
彼女は几帳面に日記を付けていた。僕は、それを見る気はなかったし、事実それまではチェックする事もなかったけど、閉じ忘れた日記を偶然見てしまった事から、彼女の裏切りを知った。
何かが頭の中を暴れ回った。そして怒るというより、力が抜けた。頭の中はそれ以外は何も考えられなくて熱く燃え上がったけれど、身体に力が入らなくなった。
そして時間が経過するにしたがって、妻の裏切りに対する怒りと、何も知らなかった孤独と、その寂しさから気付かされた愛情が入り交じった、複雑な悲しみが沸き上がってくる。
その原因はどこから来た? 干渉しないってことを、関心を持っていない事と思い違いをしたのだろうか? そんな事はない。そんな事はないんだよ。僕たちは、空気のようにお互いが必要だったはずだろ?
僕は彼女の夫で、彼女と死ぬまで一緒に生きて行こうと誓い合った。だから、その時僕の選択肢には離婚の文字はなかった。彼女の全てを知り、それを受け入れてやる。そうする事が、僕の義務だと思っていた。
その頃の僕は、かなり精神的にも不安定で、彼女の行動をチェックしたり、問いつめたりして信じきれずにいた。だから彼女は出て行った。別居は彼女の提案だ。僕もそれに同意した。
――いつか必ず帰ってくるから。ごめんね。御飯はちゃんと食べないとだめだよ――
僕が仕事から帰ると、彼女の置き手紙があった。メールアドレスを添えて。
彼女がいなくなった夜だ。僕は泣きながら急ぎながら、にじむ目で説明書を見ながら、この時初めて買ったばかりのマックをネットに接続したのだ。
僕は気が狂いそうになる毎日を過ごしながら、メールを何度も何度も見続けてきた。
『ねえ。。タッちゃんはわたしの事嫌いになった? 何も教えないわたしの事嫌いになった? わたしはタッちゃんの事が好きだよ。大好きだよ。わたしはタッちゃんのところにいつか帰りたい』
『僕は君を待っているよ。君が帰りたいと思う間は、ずっと待ってる。僕からは別れを言い出す事は絶対にないから……だから、帰りたい時に帰っておいで』
『タッちゃん。。大好きなタッちゃん。わたし、タッちゃんにひどい事一杯一杯したね。ごめんね。どうして、あんなことしたのかって聞かれるけど、わたしにも分からない。本当にごめんね。わたしはあなたの事を愛してる。それは今までも、きっとこれからも変わらない。タッちゃんはわたしの事を必要だって書いてくれたよね。とても嬉しかった。でも、今はあなたの元に帰れない。今帰ったら、同じ事の繰り返しになる。だから、本当にわたしの事が必要なのか、わたしたちが本当に一緒に暮らさなければならないのかをもっとよく考えて。寂しいだけじゃダメだとおもうの』
『ねえ、タッちゃん。。わたしの言葉はもうストレートにあなたには届かないのよ。あなたは一生わたしの言葉を疑いながら暮らして行くのよ。それに耐えられるの?』
いつからか、彼女のメールには、別れの匂いが漂い始めていた。
『ねえ、結婚ってなんなんだろうね。わたしたちのように、子供を作らなかった夫婦に結婚なんて必要なのかな? 結婚って。ただ一緒に住んでるだけで深い意味ないよね。一緒に暮らすだけなら同棲でいいじゃん。どう思う?』
『僕は、君のお父さんとお母さんから、君をもらったんだ。君の将来を託されたんだよ。君の両親は、いくら君の事を心配していても、君が死ぬまで守ってやれないんだ。だから僕が君をこれからずっと守ってやらなきゃいけないんだ。それが結婚ってことなんだよ。例え子供のいない夫婦でもね。それが僕の義務だと思っているよ』
このメールの後、二日ほど返事はこなかった。やっときたメールには一言、
『義務なの?』とだけ書かれていたんだ。
気が狂いそうな日々だった。
待っていながら、どこかで別れを願っている。自分を裏切ったものに対する怒りと、それ以上の愛情が頭の中でまぜ合わさっている。彼女が僕を必要だと思ってくれているのなら、僕は彼女を待ち続けなければならない。彼女がこんな僕ともう一度暮らしたいと言うのならば……僕から彼女を突き放す事は出来ない。ただ待つ。それが僕の結論だったはずだ。
『ねえ。。このままでいいと思う?
わたしはもう、あなたの元には帰れない。あなたは固い職業もってるし、わたしが言うのもなんだけどカッコイイし、この後の事は何も心配してないよ。すぐにいい人が見つかると思う。だから、もうお互い別の道を歩んだ方がいいと思うんだ。わたしたちは、離れて暮らす事でバランスがとれてしまった気がするの。もうどうやっても一緒に暮らしていた頃に戻れないんだよ』
これが一月前のメールだ。
そしてこれこそが、本当は僕の待ち望んだメールだったのかもしれない。
彼女への深い愛情を持ちながら、信じきれずにいる自分。戻りたいといいながら、疑われる事に耐えられない彼女。このままいけば、僕たち二人の前には闇が広がっているだけだったのかもしれないから。
だけど、このメールを返信する時は、涙がこぼれた。世の中に自分一人しかいなくなるような強烈な孤独感が、僕のキーボードを打つ手を振るわせていた。
『分かった。君が戻れないって言うんなら、終わりにしよう。いいかい。僕は夫婦が別れるって言うのは特別な意味があるって思うんだ。血のつながりもないのに家族になるって言うのは、血の代わりに魂で繋がっていると思うんだ。その魂が途切れる事を離婚っていうんだと思う。僕たちは、これから魂のつながりを断ち切るんだよ。だから僕は君の事を忘れようと思う。君との思い出全てを忘れようと思う。町で見かけても、もうただの他人だ。それでいいね』
僕はあのころの気持ちを思い出しながら、震える手で真新しいタバコの封を開けた。それからタバコを吸おうとした時、ライターが無くなっている事に気付いた。
「あれ? どこやったっけ?」
ひとりごとを言いながら、部屋の中をうろうろ歩いてみる。
あらかた片付いた部屋を見渡す事は容易だった。だけど、見つからない――どこに落としたんだろう?
履いているジーパンのポケットもまさぐってみたけど、みつからない。そういえば、僕は時々無意識に、ポケットの中にライターを入れる事がある。だとしたら、落としたのは外だ。財布を取り出した時に……?
「まずい……コンビニの中かも知れん……」
僕はジッポーを探しに、またコンビニにいかなくてはならなくなった。どっちにしても、ライターがないのは辛い。見つからなくても、ライターを買わなくちゃならない。
『もう、一時過ぎたけど、まだいいかい? もうちょっと話をしよう。返事待ってるよ』
彼女はまだパソコンの前にいるんだろうか? 僕は返事のこないまま送信して、また走って部屋を飛び出した。
「たびたびいらっしゃーい、福原達也さん。まいどありがとう!」
コンビニに入ると、また馬鹿でかい声で、今度はフルネームで言いやがった。
店の中には、三人くらい客がいる。その全ての視線が僕に集中した。僕は気恥ずかしくもあり、考え込んでいる振りをして下を向きながら、さっき通ったところを歩いて回った。
ライターは落ちてない。限定発売の純銀製ジッポー――小さなサファイアが埋め込まれ、ナンバーが刻み込まれた、世界で百個しか売られていない逸品だ。
「ない……ない……」
小さな声で呟きながら、同じコースを三回まわってみた。
「どうしたね? 福原さん。落とし物かね」
おっちゃんは、僕がレジの近くを通った時に、そういって僕の足元を乗り出して見た。
「いや、なんでもないです」
僕はなるべく無表情を崩さないよう、焦っていることを悟られないよう、ジーパンのポケットに手を突っ込んでゆっくりと歩き、百円ライターが置いてある棚の前に立った。
「ライターかね。いいよ、持って行きな。餞別代わりだよ。ただし、一つだけだよ」
おっちゃんが歯をむき出して笑った。酒焼けしたような赤ら顔が、しわくちゃになって笑っている。邪気のない笑い顔だ。僕は、その顔を見て少しだけつられて笑い、他の客も見ていたので、多少は軽快に返事を返した。
「いいんすか? 本当に貰って行っちゃいますよ」
「ああ、いいとも。そのかわり、引っ越してもまたウチに顔出しなよ」
「……」
しばらくおっちゃんと無言で顔を合わせた後、やっぱり金を払う事にして、レジにライターを持って行った。おっちゃんは、また寂しそうな笑みを見せる。そして、僕から渋々お金を受け取った。
『ねえ。。本当にもう、わたしたち会う事ないのかな?』
部屋に帰ると、彼女からのメールがやっと届いていた。
百円ライターでタバコに火をつけて、思いっきり煙を吸い込むと、ちょっと煙の吸い込む場所を間違えたようで、げほげほと咳き込んで涙目になってしまった。
『ああ。こうやってメールを送るのも、今日で最後にするよ。僕は、君と離れて暮らすようになって初めて気付いたんだ。僕はだれかがそばに居てくれないとやっていけない人間なんだって気付いたんだ。君と別れた後、きっとまた誰かと暮らさないと生きて行けない。そして、その新しい人の為に、僕は君の事を忘れないといけない。君を覚えておく事は、新しい人に対して失礼な事だと思うから。だから、僕は君の事を、記憶から消すよ』
僕は一生懸命右手を動かして打ち込んだ。
寝転がらず正座したまま、火のついたタバコをくわえて、煙で涙目になりながら打ち込んだ。送信すると、すぐに返事が帰ってきた。
『タッちゃん。わたしはねえ。友達に言われたから、離婚話持ち出したんだ。このままずるずると離れて暮らしていても、もうあの頃には戻れないだろうって。義務感で苦しんでるタッちゃんを解放してあげなさいって。あなたから離婚を言い出す事は絶対にしなかったろうから。でも、こうやってメールしてて本当に良かったと思うよ。わたしは、あなたの本音を聞けたもの。あなたがわたしの事を好きって言ってくれたもの。思い出して。一緒に暮らしてる時、あなたは一度も好きって言ってくれなかったんだよ。名前も呼んでくれなかったし(笑)いくら照れ屋って言ってもねぇ。。ねえ、タッちゃん。タッちゃんはわたしの事忘れるって言ったよね。寂しいけど、しかたないよね。わたしが全部悪いんだもの。でもね。わたしは、タッちゃんの事忘れないよ。わたしはもう結婚しないと思うけど、タッちゃんと暮らした楽しかった日々を絶対に忘れないよ』
僕はそのメールを何度も読み返した。
何度も読み返しているうちに、なんか熱いものが込み上げてきて、ひとりごとも言えなくなった。
『ねえ。。最後にお願いがあるんだ』
また新しいメールを受信した。
『なんだい?』
『最後に声を聞かせて。今から電話するから。最後に「愛してたよ」ってタッちゃんの言葉で聞かせて。それだけで生きて行けそうな気がするから』
『だめだ』
『どうして?』
『今、声を聞くと、また迷ってしまう。君の事を忘れようとしているのに、また分からなくなってしまう。それに』
……今、普通に喋る自信がない。
僕は何度も鼻水をすすり上げながらメールを打っているのだ。泣きながら震える手でメールを打ているのだ。喋れるはずがないじゃないか。『それに』から先の文章を何度も打っては消して送信するのをためらっていた。
そんな時。ピンポンと玄関のベルが突然鳴り響いた。
まさか――僕の心臓が弾けそうになった。
今は夜中の二時過ぎだ。人が訪ねて来るはずがない。新聞や訪問販売のはずはなかった。では、だれが来た? まさか彼女が。ノートパソコン引っさげて、歩きながらメールを打ってきたのか!
僕は、ドアを開けた。外を確認せずにいきなりドアを開けた。会いたい――会いたくない――複雑な気持ちのまま、心臓の活動を高めながらドアを押し開けた。
「福原達也さん。まいど。探し物はこれだったんじゃないのかね?」
僕の視界は、毛の薄い太い指につままれ、突き出されたシルバージッポーで一杯になった。
「おっちゃん……」
ジッポーの向こうにアロハシャツを着たおっちゃんの笑顔があった。シルバージッポーを手もとに戻し、しげしげと眺め、それから僕の顔を見て本当に嬉しそうに笑う。予想をかすりもしないあまりの珍客に、僕は気が抜けて思いっきりため息をついた。
「いやー。良いライターだね。大事なものだったんだろう?」
「どこに、落ちて、いたの、ですか?」
鼻声を誤魔化すために、下を向きながらゆっくり言った。
「店の外さ。壁の近くに落ちていたよ」
ああ、あの時だ。思いっきり壁を蹴飛ばした時だ。このおせっかいな店長は、赤の他人の僕の為に、わざわざ見つけてきてくれたのだ。なにはともあれ大切なライターだ。僕は素直に感謝した。
「ありがとうございます。ところで……」
「ん?」
「店は放っといていいのですか?」
おっちゃんは、思いっきり口を開け、思い出したように「ああ、いけない!」と言って、僕にライターを手渡し歩き出そうとした。
だが、三歩歩いたところで、急に立ち止まった。僕も一瞬身体に電流が走って、口が開いたまんまになった。
おっちゃんが振り向いて、僕の身体越しに部屋の奥を見る。僕も少し遅れて振り向いた。
電話だ。
電話が鳴っているのだ!
僕はドアを開けたまま、電話の方を見て固まっていた。
彼女からのものに間違いはないと思った。出るべきか――出ざるべきか――彼女の声を聞くべきか――さよならを今、口で言えるのだろうか――
僕はおっちゃんを見た。なぜおっちゃんを見たのか分からない。おっちゃんが僕たちの事を知ってるはずないのに、僕はおっちゃんを見た。自分で判断出来ない。誰かに――誰でもいいから――僕は背中を後押ししてほしかったんだ。
おっちゃんは、そんな僕の顔を見て、やさしい顔をして、ただにっこり頷いた。
そして、その笑顔に促されて、僕は反射的に受話器をつかんでいた。
「……タッちゃん? ……」
暗闇のような場所が見えるような気がする。受話器の向こうは、やたら静かで海の底を連想させる。そこから小さな小さな彼女の声が、聞こえてきた。消え入りそうな声で僕を呼んでいた。
半年ぶりに聞く彼女の声は弱々しく、あの頃の元気さを感じさせてくれなかった。
「ああ……り……り、里穂か? ……」
僕はどもりながら、少し顔を熱くして言った。初めて呼ぶ名前だった。今までは、手招きだけとか「ちょっと」とか、「ねえねえ」とかばっかりだったような気がする。初めて呼ぶ彼女の名は、新鮮な響きを感じさせてくれ、僕の頭から、これから別れるんだという気持ちを、一瞬だが忘れさせてくれた。それがいい事か悪い事かも判断は出来なかったけど……
「うふふふ」
彼女が小さく笑った。
「……何がおかしいんだよ」
「ねえ。最後に言って。タッちゃんの口で。メールじゃなくて。タッちゃんの言葉で」
「僕は……」
言葉につまった。言いたくないんじゃなくて、言えなくなった。嗚咽が喉元まで上がってきていたんだ。これ以上喋ると、きっと嗚咽ではなくなる。外に出て爆発して、それこそ言葉を話せなくなる。
うんこ座りになっている震える僕の肩に、大きな暖かい手が置かれた。それはおっちゃんの手だった。いつのまにか、人の部屋に勝手に上がり込んでいる。
そして、不思議な事に、おっちゃんも泣いていた。
「僕は……君を……あいじていだよ……お……ぉ」
もうダメだった。僕は泣いた。泣き崩れた。そして泣きながら、聞き取れないであろう、意味不明の言葉を何度も何度も繰り返した。彼女は受話器の向こうでどんな顔をしているのだろう? 彼女のすすり泣く声が小さく聞こえている。一緒に暮らしていた頃のあの泣き顔と同じなんだろうか。
「……ありがとう……タッちゃん……わたしもタッちゃんの事大好きだったよ。わたしは、タッちゃんの事、絶対に忘れないから……さようなら……」
「僕は……僕は……君の事を……忘れ……」
もう喋れなかった。ただただ、泣いた。泣いているうちに、受話器の向こうの彼女の声も、すすり泣きがすすり泣きじゃなくなっていた。そして、どちらからともなく電話を切った。
おっちゃんはなぜか僕の横で泣いている。
僕も声を出して、その夜泣き続けた。大人になって初めて、人前で声を出して泣いたけど、それは恥ずかしいものではないということを、おっちゃんの泣き顔を見ていて思い、また大声で泣いた。
引っ越しの日曜日がやってきた。快晴で暑くなりそうな日だった。
僕は準備を全て終え、引っ越し業者のトラックが来るのだけを、朝から外に出て待っていた。
のどが乾いたのでコーラを買おうとコンビニに入ると、客のない店内のレジカウンターに、いつも朝にはいないはずのおっちゃんが立っていた。
僕の顔を見ると、寂しそうではあるけど、にっと歯をむき出して笑う。この間、泣き合った仲だ。おっちゃんに対して、不思議と以前の不快感は感じなかった。
コーラをカウンターに置いて照れ笑いすると、おっちゃんも同じように笑った。
「ねえ、福原さん。奥さんはわしの事、なんか言ってなかったかい?」
「え?」と僕は状況を飲み込めないまま、おっちゃんの目を凝視した。
「里穂ちゃんは、よくここでわしと話をしてくれてたんだよ。あんたの事を心配してたんだよ。ちゃんと飯食ってるんだろうか、とか、栄養ありそうな弁当買ってったかとか」
驚いた。
僕がいない時、彼女はそれでも僕の事を心配してくれて様子を聞いていたのか。
彼女は確かに話し好きだった。僕と違って誰とでも仲良くなれるタイプだった。それでおっちゃんは僕の事を知っていたのか。知っていながら知らん振りをしていたのか。
「何があったかまでは言わなかったけどさ。里穂ちゃんは、あんたの事をきっと今でも好きなんだと思うよ。別れたくなかったんだと思う」
「じゃあ、なぜ?」
思わず口をついて出た。おっちゃんに言ったんじゃない。ひとりごとだ。彼女に向かって言うひとりごとだ。
じゃあ、なぜ僕を裏切った? なぜ全てを教えてくれない? なぜ離婚しようと言い出した?
……その全ての思いが詰まった、なぜ? だった。
「里穂ちゃんに別れろって言ったのはわしだよ。詳しい事は知らないけど、苦しみながら一緒にいるくらいなら、別れなさいって」
思い出した。彼女のメールにあった『友達に言われたから、離婚話持ち出したんだ』っていう一節。『このままずるずると離れて暮らしていても、もうあの頃には戻れないだろうって。義務感で苦しんでるタッちゃんを解放してあげなさいって』って言葉。
僕は、引っ越しするにあたって、パソコンを初期化した。
彼女の言葉は、彼女の記憶を全て消し去りたいと願っている、僕の頭の中にしか残っていない。皮肉な事だが。
友達っていうのは、おっちゃんの事だったのか――僕は、おっちゃんをじっと見た。恨んでいいものやら、感謝していいものやら、複雑だった。
「あんたは里穂ちゃんの事、好きだったかい?」
「ああ、好きだったですよ。結婚しようってくらいです。好きでないはずないでしょう」
僕は口を尖らせて、ぶっきらぼうに答えた。こんな照れくさいセリフは、ぶきらぼうに言うしかない。
「なら、言葉にしないと駄目じゃないか。あの電話の時のように、言わないと伝わらないんだよ。一緒に住んでる時に言って欲しかったんだよ」
そういって、僕の頭に手をやり、子供にやるように撫で始めた。元々ぼさぼさの髪が、さらにぼさぼさになった。だけど逆らわなかったし、悪い気もしなかった。おっちゃんの目が少し潤んでるからだ。僕もつられて涙ぐんでしまった。
おっちゃんは詳しい事は知らないって言ってるけど、本当は全て知ってるなと、この時思った。
「……あの。僕たちは別れるしか選択肢なかったんでしょうか?」
「それはわしにも分からんけど。わしは自分の経験から、もうあんたらは一緒に暮らさない方がいいと思ったんだよ。好きであればあるほど、疑いがうまれた時の反動はひどいもんだ。ほら」
そういっておっちゃんは、付けていた腕時計をはずし、左の手首を僕の目の前に突き出した。
僕はうっと息を止めて、それに見入ってしまった。
おっちゃんの白い手首の内側に、一筋の古い傷があったのだ。相当昔に切った跡だ。相当深く切った跡だ。
「あんたは若い頃のわしに似ててね。無口でナイーブなとこが。あっはっは。放っとけなかったんだよ」
おっちゃんは照れながら笑っているように見えた。
何があったのだろう? 僕は聞く事もためらわれ、ただいろんな想像をしながら、その傷跡から目をそらし、おっちゃんの顔を見ていた。しばらく無言だったけど、おっちゃんが突然声を上げ、その古傷のある左手でガラス戸の向こうを指差した。
「あ、福原さん。あれじゃないのかね? 引っ越しトラック」
僕はおっちゃんに軽く礼をして、コンビニを出ていこうとした。
「ちょっと」
僕がガラス戸のところに手をやったところで、おっちゃんは僕を呼び止めた。僕はビクッとして動きが止まり、おっちゃんに振り向く事になった。
「福原達也くん。あんたは、里穂ちゃんのことを記憶から消すとか言ってるらしいけど、忘れちゃだめだ。覚えていてやりなさい」
厳しい目で、それでもどこかに優しさを感じさせる目で僕を見ている。僕はその目から視線を外せなくなった。
「これからあんたは、新しい子と恋をしてまた結婚する事になるのかもしれんけど。その新しい子の為に里穂ちゃんの事を覚えていてあげなさい。いままで生きてきた様々な経験を力に変えなさい。その思い出があってこそ、福原達也なんだよ」
僕はおっちゃんの方を向き、直立していた。おっちゃんの目が光っている。きっと、僕たちのことが自分の経験とオーバーラップしているのだろう。どんな経験か想像でしかないけれど、そう思えた。そう思えたからこそ、よく聞く月並みな説教だけど、素直に聞く気になれたのだろう。
「はい」
僕はそのまま大きな声で言い礼をして、そのままガラス戸を押し開けて外に出た。
すぐそこに、僕の荷物を次の住居へと運ぶトラックが止まっている。
トラックのドアが開き、二人の作業員が降りてくる。
僕は彼等に話しかけながら、もう一度コンビニの中を振り向いて見た。
おっちゃんが口を開けてこっちを見ている。おっちゃんが手にコーラを持って、何か言っているのがいるのが見え、「あっ、しまった」と大きな声で言ってしまった。
コーラを買いに入ったのに、コーラを忘れてきてしまったのだ。コーラを高く掲げ手招きをしている。取りにこいと言っているのだ。
「おっちゃーん。また明日にでも取りに行くから、預かっといてくれませんかー!」
ガラス戸の向こうに向けて叫ぶと、聞こえたのかどうか分からないけど、おっちゃんは古傷のある方の手の親指を、グッと突き出して笑いはじめた――
あとがき
うーん、初の恋愛モノ……でしょうか。
よろしくお願いします。
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