赤ペン丸子
卒業してから数年たった母校に舞い戻ってみても、なんの感慨もわかないから不思議である。
あの頃は生徒として、今は先生予備軍――研修生としてここの門をくぐる。まあ、実際はくぐるというほど立派な門でもないので、すり抜けるという感じか。
「――であるからに、我が学校のモットーは『生徒と教師との距離の縮小』であります」
ぜんぜん見覚えの欠片もない母校の校長を前に、私は欠伸をする。実につまらない。まあ、あっちも面白さを求めて話している訳でもない。どちらも正直、なんの思いいれもない。ただ必要事項だからこなしているのだ。
「――という訳でして――なのでここの生徒は――」
眠い。それを察知したのは、見たこともない校長のお話とやらが、十分ほど過ぎたときである。我ながら忍耐力のなさに呆れ果てたが、眠たいのは仕方がない。
さて、どうして眠ってやろうか、と思った時、ふと、校長が日記について話し始めた。
ついつい意識は眠りからそちらへ向かってしまい、私は顔を上げた。
「――毎日日記、という形で生徒にその日一日の出来事を記入させ、次の日提出させます。それを教員が見て、その生徒の心情や性格、はたまた人間関係を把握した上で、その日記へのコメントを記入するというものです」
この日記制度は、私がこの中学に在籍したときから存在する。噂では設立以来ずっと続いていると聞く。
日記と聞くと必ず思い出すのが、赤ペン丸子とあだ名された、ちょっと変な教員のことである。
丁度よいことに校長も、この話に入っていた。
**
赤ペン丸子の名は、生徒たちから、その教員へ送る侮蔑の言葉だった。赤ペン丸子――正直、本名は忘れた――の名前の由来は、その日記へのコメントによるものだ。
まず、必ず安売りの赤ペンでコメントを記入し、その字があまりにも丸々していて女の子の文字みたいなのである。この変な教員はぱっと見、体格がとてもよく、その丸々とした字へのギャップが、印象的だった。
「こらぁ!! そこの男子、ズボンを上げんかズボンをぉ!」
「やっべ、赤ペン丸子だ!」
「逃げろ逃げろ!」
赤ペン丸子は意外にも学年主任で、取り分け生活態度には厳しかった。中学生特有の反抗期の生徒には、取り分け厳しかった。赤ペン丸子に捕まると反省文を書かされるうえ、掃除までプラスされるので、大変生徒からは毛嫌いされていた。
「あ、てめぇ、飯田ぁあ!」
当時の私は、かなり不良だった。煙草は平気で吸ったし、服装違反なんて日常茶飯事。学校行事の九割に参加しない、いわゆる学年のがん細胞だった。
そんなわけで、私と赤ペン丸子は大変、毎日関わりあわなければならなかったのである。
「いいか、飯田。煙草なんてのは、一種の薬物なんだぞ」
「で?」
「しかもな、お前の吐く息には、なんとか煙って言って、お前が吸う煙の倍近いニコチンが含まれているんだ」
「それが?」
「だから、止めろ」
「意味わかんねぇー」
赤ペン丸子の説得は、お世辞にも上手じゃない。
私は怒られるといつも屁理屈をいい、どこ吹く風を決め込んでいた。
「オレはな、お前の将来が心配なんだよ。青春なんて一度きりしかないのに、お前はずっとそんなんだ」
「ていうか、お前に関係ないだろ。俺の人生なんだから、俺がどうやって生きようと勝手だ。他の奴がどうなろうと知ったことじゃない」
「微妙に正論を言うやつだ」
「不良の意見に納得すんなよ、ばぁか」
そして何故か、赤ペン丸子と私の意見は、変なところで合致していたのである。
不良であった私と意見が合致してしまう辺り、赤ペン丸子は教師としての才能はない、と見た。
私が中学三年生のとき、最悪なことに担任が赤ペン丸子になってしまった。大変、最悪だった。
「いいか、飯田。これからはオレががつがつ見てやる」
「だからなんだ」
当時髪の毛が赤かった私は、大変、赤ペン丸子に会いたくなかった。それなのに、担任になるとはどういうことだ。
当時の私は、これでもかというほど神を憎んだ。だから学校に行きたくなかった。
「黒く染めろ、飯田」
「嫌だね。なんで髪の毛は黒じゃないといけないんですかぁー?」
「日本人は茶色が似合わないからだ。したがって、お前も似合わない」
「ってめ、マジ殺すぞ」
一度、気に入っていた髪の毛を馬鹿にされた。確かに日本人が髪の毛を染めると、色が汚くなる。生え際が黒くなって、変な動物みたいになる。だが、あの時は、あれがもっともカッコいい姿だった。
私は悔しくって、殺意がわいて、思い切り赤ペン丸子を殴りつけた覚えがある。
「お前は顔が整っているんだから、変に着飾る事はない。ありのままのお前でも十分にカッコいい」
「はぁ、てめぇにそんなこと判るのかよ」
「さあな」
赤ペン丸子と私の喧嘩は日に日にエスカレートしていき、そしてそれに終止符を打つ事になったのが、日記である。
それは、ある時、本当に突然やってきたのだ。
「飯田、お前、一回でいいから日記を出せ」
「あ? んだそれ」
「日記だよ、日記」
そこでようやく私は、この学校特有の日記の事を思い出した。
「もう六月も半ばに入るが、一回もお前の日記を見た事がない」
「別にいぃだろうが、日記なんか。鬱陶しい」
「鬱陶しいとはなんだ。いいか、とにかく日記を出しなさい」
それから会うたびに服装と日記の事を言われるので、少し嫌気が差した。登校拒否になってやってもよかったが、それだと家に押しかけられて、友人関係にまでとやかく言いそうだから、それはしない。
かと言って、日記を素直に書くのは、癪に障った。
そこで私が考えたのは、何も書かずに日記を提出する事だった。
「ほれ」
「え、飯田君?」
「うるせぇよ!」
私が日記を出したことで戸惑う女子に、思い切り一括したのを覚えている。むしろお前が五月蝿いよ、と言われそうだったが、それは気にしない。
実はこの時私には考えがあって、もし赤ペン丸子が「なんで白紙なんだ!」と怒鳴ってきたら「日記出せとは言ったけど、書けとは言ってないじゃん」と切り返すつもりだった。名案だった。
「――だくんが日記だしたって」
「やっぱ丸子のお陰かなぁ」
遠巻きから噂をする級友たちを鼻で笑いながら、私はこの名案が実行されるのを、只管待つことにした。
だが、名案を実行することはなかった。それは、赤ペン丸子がなにも言ってこなかったからである。
それだけではなく、赤ペン丸子は、どこか上機嫌に、私の隣をすり抜けていくようになった。茶髪を注意されなくなった。煙草を吸っても何も言われなかった。
「お、飯田、おはよーさん」
「んあ?」
こうやって挨拶をされてすり抜けられたときは、流石に度肝を抜かれた。赤ペン丸子が壊れた、と真剣に思った。
だが実際、他の生徒への対応は一切変わっておらず、相変らず生徒からは尊敬と脅威の目で見られていた。
私はとても腹立たしかった。積み木が上手く組み立てられない子供みたいに、無性に腹が立って、意地になって、白紙の日記を提出し続けた。もう、あの名案以外、私に道はなかった。
「ああ、飯田、気をつけて帰れよ」
「……」
しかし赤ペン丸子の私への対応は変わらず、私は結局訳が判らぬまま、新年を迎えてしまったのである。
新年明け、教室へかったるそうに座っている私たちの前に、赤ペン丸子は現れなかった。
現れたのは見たこともない教員で、どこか余所余所しく私たちの前に立って、新年の挨拶をした。
「――先生は体調が宜しくないということで、しばらく入院をされます。卒業式までには戻ってくる予定です。それまでは――」
生徒たちはざわつき、私は唖然とした。
よりにもよって、体調不良になんてなるなよ、と心底思った。どこか期待を込めて登校して来た身としては、大変腹立たしかった。
だが、この赤ペン丸子の長期欠席は、生徒たちには大きな損害だった。
「あの――先生って、鬱陶しいね」
「あー、居なくなるとあの馬鹿でかい声が懐かしい――」
どうやらあの変な教師、妙に生徒たちから人気があったらしく、居なくなったことで、若干寂しさが襲ったらしい。また、あれほどダイレクトに、かつ必要以上にしつこく注意してくる教師は、赤ペン丸子くらいだった。
「おい、飯田。その髪の毛と服を何とかしなさい……」
「ぁあ? 何、服装整えるとどうかなんの?」
「教師に向かってそういう口調を取るのは止めなさい」
どの教師も、若干おっかなびっくり、私を注意したのを覚えている。私は教師というものは、赤ペン丸子のように、堂々と、訳の判らない注意をしてくるものだと思っていた。
赤ペン丸子が居ない以上、私はまた日記を出さなくなり、以前貰ったとき、乱暴に日記を机に押し込んだまま、出すことはなかった。私はいつも、日記が帰って来るとき、なんだか日記を出したのが気恥ずかしくて――乱暴に机の中に押し込んでいたのだ。
日記を出して、赤ペン丸子にぐうの音もいえないような反論をすることだけを、楽しみに学校へ来ていた私は――周りの教師たちの反応や扱いに、正直落胆していた。
「あー、面白くない」
どっかの生徒が零した愚痴に、私は心の中で賛成意見を出しておいた。
赤ペン丸子は、結局、卒業式になって、かなりやせ細った状態で帰ってきた。何があったのか、と生徒たちが問い詰めるなか、赤ペン丸子は「病気だよ」と返事をした。
私はようやく、あの白紙の日記が出せた。
だが、赤ペン丸子はやはり、なにも言ってこない。私にはその理由がさっぱり判らない。
わざわざ髪の毛まで黒くしてきてやったのに――それは他の教師が五月蝿かったからだが――何も言ってこない。
結局私は、この不愉快を抱えたまま、卒業してしまったのである。
そして、高校生になって半年ほど過ぎたとき、赤ペン丸子の死を知った。
赤ペン丸子は、あの無駄にいい体格の癖に、ガンになったらしい。
何の皮肉だろうか。
学年のガンだった自分はピンピンしていて、ガンを更生させようとした奴が、ガンで死んだ。
相変らず不良だった私は、あのイライラが蘇って、思わず葬式をサボってしまったのである。
「ちょっと隆義!なんで――先生のお葬式に参加しなかったの」
「うるせぇ!」
私は母の必要以上の責め苦が腹立たしくて、乱暴にドアを閉めた。相変らず黒い髪の毛を書き上げて、鞄を乱暴に机に投げつけた。
そして、ふと、日記を思い出したのだ。実際は毎日、あの日記の事を考えていたのだが、それを行動に移す勇気がなかった。
そしてその日も結局、行動に移せぬまま、ふて寝したのを記憶している。
赤ペン丸子の葬式から数週間くらいだっただろうか。それくらいに、代理の担任をしていた教師から、私に電話が入った。どうやら毎日電話を入れていたらしいが、私は毎日どこかをほっつき歩いていたので、連絡がつかなかったらしい。
『飯田、元気にしてるか?』
「あぁ、うっせーな。なんだよ。俺は忙しいんだ」
『お前は日記を見たか?』
「はぁ?」
『日記だよ、中学生のとき書いていた』
「見てるわけねぇだろうが」
白紙なんだから、見てどうする。
そう続けようとしたとき、念入りに、その代理教師が、日記を読めといった。
『いいか、今すぐ見るんだ』
そう言われて、一方的に電話は切られた。
私はかなりの違和感と、どこか引っかかっていた想いが、急に首を上げた感覚を覚えている。だけれども意地でも、急いで見に行ったりなんてしなかった。
そして机の上で埋もれている、あの日記の見つけた。無理やり机に押し込むを繰り返していたので、ずいぶんボロボロだったが。
「んで名前が書いてあるんだよ」
そこでようやく私は、この日記帳に赤ペン丸子の字で、名前が書かれているのに気がついた。
この時、もしかして、という気持ちが、全身を駆け抜けた。
私はさきほどの見栄をどこかへ飛ばして、破れんばかりの勢いでノートを開けた。
そこには真っ白なはずが、ページが真っ赤になっていた。
「赤ペン丸子だ……」
ここには赤ペン丸子の独り言が、只管書かれていた。初めから、赤ペン丸子が入院するまで、ずっと。
『今日は初めて日記を出したが、真っ白じゃないか―――』
『お前、髪の毛を黒くしろ。いいか、黒く―――』
『―――今日は規定の服装できたけど―――』
『最近元気がないけど大丈夫か――ー』
ある時はずっと説教の文面が並んでおり、ある時は、気まぐれで揃えたトイレのスリッパのことが書いてあったりした。
そして、一番最後の――卒業式のページを私は見た。
『――髪の毛が黒くなってるじゃないか!』
そこには私の髪の毛が黒くなっていることを、ひたすらに褒めちぎる文面と、苦労が報われたことへの喜びが書かれていた。相変らず、字は丸っこい。
そして最後の一行には。
『最後の最後までお前らしくてよろしい』
となっていた。
ここでようやく私は、長年の疑問が解けた。
赤ペン丸子は、私を注意してこなかったのではない。私の名案に乗らなかったわけでもない。
赤ペン丸子は、ずっと、私に話しかけ続けていたのである。それも日記という、見なければ判らない形で。
「字、丸々してるな」
赤ペン丸子がいつも機嫌がよかったのは、私が毎日、白紙の日記を出し続けたからである。それも、判った。赤ペン丸子らしかった。
私は独り言が書かれた日記を見ながら、赤ペン丸子という人間が、どれだけ変わっているか、馬鹿馬鹿しいかを、初めて知った。
**
「――その生徒がいま、どうしているのかわかりませんが。きっとその日記を見て改心したに違いありません。深崎先生とその生徒との間には、深い信頼関係がなりたった―――」
校長の話は終盤に差し掛かっており、私の記憶も、終わりに差し掛かっていた。丁度よかった。
よくよく考えるに、当時、全ての人間が私を腫れ物扱いするなか、赤ペン丸子は一般の生徒と同じく接していた。そして、最後の最後まで、変わった教員であった。
「おや、飯田さん、どうかなさいましたか」
「いえ、何も……」
私は全てを分かった今でも、赤ペン丸子の墓参りに行っていない。意地である。赤ペン丸子も、そんな私を「お前らしい」と笑っているに違いない。
そして今の私を見て、きっと、度肝を抜いているに違いない。
「それでは、今後のスケジュールについて――」
私が教員になったところで、赤ペン丸子の真意を解くことは判らない。私の白紙の日記を見て、赤ペン丸子がどう思っていたのかは、知る余地もない。
だが、なんとなく、赤ペン丸子と同じ立場になってみたいと思っただけだ。まあ、元不良の私がここまで辿り着くのは、簡単ではなかったが。
こんな私でも、たった一つだけ、展望のようなものがあると言ったら笑われるだろうか。いや、笑われるだろう。
校長の話はどんどんと、眠気を誘ってくる。ああ、もう瞼が下りていく。
私は赤ペン丸子の怒鳴り声を思い出しながら、なんとか眠気を振り払う。だが、奮闘空しく、私はそろそろ居眠りをしてしまいそうだった。
私が母校に舞い戻って始めての居眠りをする前に、赤ペン丸子に思い伝えておきたいことがあった。
赤ペン丸子よ、お前にだけは私の展望を教えてやろう。
私の展望は、お前みたいな教師にだけはならないって事なんだぜ。
眠りの境地にて赤ペン丸子が呆れている姿が見える。私は小さく苦笑して、意識を手放した。
懐かしい、あの声が聞こえる。
あとがき
ずいぶん小説を書いていなかったため、かなり至らない部分が沢山あると思います。
どうかよろしくお願いいたします
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