空夜にふたり


 窓の外は闇と、そこに点々と浮かぶ灯り以外、何も見えなかった。電車に乗って十分。空疎の漂う心を、友哉は窓の外の夜に預けていた。高校三年生の冬、友哉の心は勉学にも将来にも向かずにただ一点、窓の外を流れる夜の中に点在する家の灯りに向かっていた。
 電車は目的の駅に着き、友哉はコインロッカーへと向かう。友哉は隣の駅の有名な予備校に通っている。学校が終わってから部活の用具や学校の荷物をコインロッカーに入れておくのだ。
 憂鬱。そればかりが友哉の内にひしめいている。部活の疲れ、勉強の疲れ、学校の人間関係、――そしてもう一つ。
 それらは睡眠も息抜きも受け付けずに友哉の中に居座り続ける。冬の夜、年明けの世界は銀に彩れるのを待つかのように日々気温を落としていった。しかし、冷え切った精神は身を切る寒さをさほど受け付けはしないのだった。
 溜息は内に潜む毒素を元気付けるのだと分かっていても、口から零れる。白く具現した自分の息を、友哉は抜け出す自分の生気に思う。そして抜け落ちる活力を取り戻す場所を、友哉は持たない。
 家に帰っても誰もいない。母親は出て行った。父親の何が問題を起こしたのか友哉は教えられなかったが、恐らく、外に女性をつくったのだ。そして父親は日付が変わるまで仕事で家に帰らない。それが仕事なのか、それ以外なのか、友哉は翌日の父の表情で分かるようになっていた。あの家は友哉が灯りを点けなければいけないのだ。友哉以外、あの家を望む者はいないから。
 クリスマス、年明けの瞬間、そして昨日の冬休み最後の日、その全てを友哉は一人で過ごした。その三日の全て、父親は仕事らしかった。
 もう高校生だ。家族が大事、などと強く思うわけではなかったがしかし、友哉の心には重い憂鬱が確かに淀んでいるのだった。平穏な、暖かい日常の大切さ。それは失うと意外にこたえるものだった。学校に拠り所を求めたこともある。しかし、常に勉強に目を血走らせる級友たちの周りに柔らかい居場所はなく、ましてや胸の内の毒を吐き出す場所になってくれることはありえなかった。
 友哉にはあの家しかない。他の場所に住む力も勇気も無い。高校三年の冬、それは受験へのカウントダウンの後半に入っている。二度目の溜息、内の毒が喚き出す。
 ロッカーに鍵を差し、捻る。それだけの動きすら緩慢なものだった。さっさと帰ろう。思った途端に友哉の腹は静かに轟いた。
 苦笑する。ロッカーの中には荷物と一緒にコンビニ弁当が入っている。それがつまり、友哉の今日の夕飯だった。母親が出て行ってから、友哉はそれが腹以外を満たさないと知った。
 友哉はロッカーの異変に気付かなかった、ロッカーの中の深淵の暗闇に友哉は無防備に手を入れる。中は外気よりも温度が低い。その肌寒さに気付き、友哉は思考の中に散らばった意識を眼前に向ける。おかしい。気付いた時にはもう、それは友哉の触覚を刺激していた。
 細い指だ。それは伸ばした友哉の手を下から握りしめる。子供のものであろうそれはあまりに小さく、友哉の指二本を包んで限界だった。思わず友哉は声を出す。しかしそれは恐怖の絶叫ではなく心底からの驚きの発見だった。
 温かい。思わず握り返しそうなほど。そして友哉の指を掴むその小さな手は震えていた。
 一瞬戸惑い、友哉は恐る恐るその手を二本指で包み返してみた。小さな手はぴくりと反応し、やがて震えが収まる。友哉自身もその手の温もりに僅か心が緩み、そっと笑んだ。ゆっくりと手を引く。その小さな手を握ったまま。



「遅かったみたいですね」
 昼の駅で、やけに目立つ長身の青年。青年はコインロッカーをこつこつと小突く。
「消えたか、もしくは憑いたか。どう思います、一輝さん」
 一輝と呼ばれた中年の男は黙ってロッカーを見ている。がたいの大きい、大木のような男。
「消えはしないだろうさ。亮、追えるか?」
 一輝の言葉に亮は無言で頷く。ロッカーに手を当て、目を閉じる。 電車が音を立てて駅に入る。人を吐き出し、人を飲み込む。それが起こす騒音の中、亮は時間が止まったように動かない。やがて電車が飲み込んだ人間を別の所へ吐き出すために走り出す。ざわめきの失せた駅には、青ざめた表情でうずくまる亮がいた。
「ひどい」
 一輝は亮の肩に手を置き、余った片方の手でその背を二、三度撫でた。大きく早い呼吸が亮の背中から一輝の手の平に伝わる。
「恨みとか、無念とか、それ以前のもっと原始的な感情ですよ。生きたいって思いがそのまま存在する原動力になってる」
 亮は青い顔を左右に振りながら呟いた。
「今までのと違いますよ。なんだか」
 一輝は頷いてみせる。亮は幾分血色を取り戻した顔に無理に笑みを浮かべた。
「こりゃあ、大変だ」
「今まで通りだろ。お前が捜して俺が仕留める」
 立てるか、と一輝に言われ、亮は勢い良く立ち上がって見せる。苦笑をしながら一輝は亮に霊の行き先を尋ねた。
「たぶんこの町にいます。電車に乗って遠くには行っていない。嫌な感じがずっと続いていますから」
 亮の目には見えていた。黒い痕跡が尾をひくように駅の外に続いている。こんなにはっきりと見えたのは初めてだった。
「こりゃあ、大変だ」
 一輝には聞こえない大きさで亮は呟いた。



 夜の中を走る電車。その窓に映る暗闇。見慣れたそれに友哉はしかし、笑んでいる。
 冬の寒さは身を刺し、闇は不安と灯の無い家を暗示する。それでも友哉に孤独は無い。自分の肩に手を置く。そうすると手は柔らかい何かに被さり仄かな温もりを友哉に伝える。
 この少女は悲しみを持っている。孤独、それは彼女の短すぎる生涯の全てに存在し、少女はそれ以外を知らない。少女の手から友哉の中へ、その記憶と感情は伝染する。
 だが、友哉はそれを拒まない。共感と共に少女を受け入れた。寒い、暗い、怖い。その全てに友哉は経験と理解を持っている。同じ傷が友哉には刻まれているのだ。
 そしてその傷は二人でなら癒せる。その痛みは一緒にいれば感じない。友哉の心は安らかだった。
 少女の存在について、友哉に恐怖は無い。初めて会った時、あのロッカーで手を掴まれた時から恐怖は無かったのだ。同じだ、と瞬時に感じ取り、温かい共感が内に満ちた。それは肉体の有無を問題にしなかった。
 電車が駅に着く。友哉は急ぎ足で改札口に向かった。この場所は少女が嫌がるのだ。その嫌悪は直接友哉の神経に伝わる。だから友哉は返信する、大丈夫、と。
 もう寒い思いも怖い思いもしない。お互いに。
 怖い。
 神経に伝わる少女の恐怖。それを包むように優しい意思を友哉は送り出す。落ち着いて、と何度も語りかけ、友哉は少女の心を静めようとする。
 駅から出て、夜の街に移動すると、少女は恐怖を失くす。あちこちに興味を振り撒き視線をあちこちに飛ばす。昨日の夜も見せたのに。思って友哉は苦笑する。何度見ても飽きない、と少女が返信してきた。
 見る事ができなかったから。少女の意思が悲しみを帯びる。慌てて友哉は優しさを少女に送った。
「これからはいつでも見れる。今日みたいに学校も、塾も、知らないことも知りたいことも全部」
 必死だった。少女が悲しむことが友哉は耐えられない。少女はすでに命を失っているのだ。これ以上の苦しみを味わう必要がどこにあるだろう。これからは楽しさを手に入れるべきだ。そのために少女はこの世界に残ったのだ、きっと。
 光だ。綺麗だ。空に星がある。
 流れてくる少女の意識はしだいに興味に振り回されはじめ、それを感知した友哉を安心させる。最初の内、昨日の夜の少女は何も知らなかったといっていい。そこに友哉の知識が流れ込み、少女は物の名前を瞬時に覚えていった。友哉と少女の意識は繋がっているのだ。少女の感情の全てが友哉に伝わり、友哉は言葉や情報を少女に送ることができる。データ通信のようなものだ。
 少女の姿を友哉は見ることができない。いつも肩に乗っている、その重みだけが存在を示すのだった。
 しあわせだ。
 少女が送ってきたその感情を読み取り、友哉は不安に思う。少女が感じたこの「しあわせ」は友哉の知識のものだ。少女に授けたそれが正しい幸せかどうか、友哉には自信がない。さて、幸せを知っているだろうかと、友哉は自問する。答えは見つからなかった。
 生きたかった。
 その感情が「しあわせ」の中に交じっていることに、友哉は気付く。そう、生きてこの世界を見たかったのだ。友哉は少女のその憂いに何も送らないことにした。送る感情も優しさも少女のその部分へは無意味だ。これからの時間においてのみ、友哉は少女を幸せにできると信じていた。
 家の前に着いたのはもう十一時を回ったところだった。これから夕飯を食べて風呂に入って、さらに明日の予習。全てをこなしてからでなければ就寝はできない。溜息を一つ吐き友哉は家のドアを開ける。しかし、溜息はもう友哉の力を奪ったりはしなかった。
 外と変わらない温度の室内。リビングに入って友哉は電気をつけ、ストーブをつける。明るくなった部屋、しかし友哉はその部屋に温かみをまるで感じなかった。ひどく乾いた人間味の薄い世界。友哉にとって自宅とはそんな場所になってしまった。
 肩に置かれる温もり。それを感じて友哉は笑む。心配してくれるのだ。幼く純粋なその思考は一途で心地いい。
 夕飯を終え、風呂に入ろうと友哉がリビングを出た時、電話が鳴った。驚きが少女から友哉に伝わり、友哉が電話という情報を少女に伝えながら受話器を取る。
「友哉?」
 もしもしと言う間もなく電話の相手は友哉の名を呼んだ。すぐに友哉は察する。出て行った母だ。
「うん」
 そこからしばらく母親からの返事はなかった。そう感じただけなのかもしれない。どちらにしてもこの瞬間、友哉は重苦しく高鳴っていく鼓動を感じていた。
「元気?」
 逆にこちらがそう問いたいほど、母親の声はか細く弱々しい。
「まぁ、うん」
 そう、と微かに電話の向こうが元気付く。
 それから余所余所しい会話をしばらく続け、どちらともなく「じゃあ」を言って電話は切れた。友哉は早足で階段を上り、二階の自室に飛び込んだ。ベットに腰掛け、荒い息を立て直す。ひどく喉が渇いていた。
 息苦しかった。母がまるで他人のようで重苦しい。この家の崩壊が目に見えた気がして、友哉の心が重くなる。
 大丈夫か。少女にそう聞かれた。正直答えられるほどの余力は友哉に残ってなく、そう伝えると少女はそれきり何も聞いてこなくなった。しばらくの呆然、その中で友哉は少しずつ立ち直りかけている自身に気付いた。徐々に過度の重力から開放されていく。心が身軽さを取り戻していく。
 少女の存在が友哉に強さを与えている。この家がどうなろうと、両親と自分の関係が重苦しいものになろうとも、この少女は自分についている。それがもたらす安堵、自信。
 少女を救うつもりだった。悲しい宿命のこの少女を、友哉は少しでも癒してやりたかった。だが実際、少女の無知ゆえの純粋や共感に助けられているのは、友哉自身かもしれなかった。



 友哉は眠れずに朝を迎えた。体の無い少女も寝ることはできない。延々と続く夜を二人は会話で終わらせた。父親は結局、家に帰ってこなかった。少女の好奇は失せる事無く友哉に知識を迫り、少女の望む情報のできるかぎりを友哉は伝えた。
 眠いか、と少女は聞く。昨日、学校の授業中におしえた知識だ。大丈夫、と友哉は返す。実際、友哉の頭は覚めていた。体も寝不足の不調を訴えずに軽い。何より、今日は眠いなどとは言っていられない。それは勿体なさ過ぎる。
 早々に身なりを整え、友哉は家を出る。制服は、と少女は友哉に問う。今日はいいのだと友哉は伝えた。高校は休みではない。なら鞄は、と少女はなおも問う。笑みを堪えながら友哉は再び、いいのだ、と伝えた。
 白いコートを着込み、財布だけを持って友哉は歩き出す。最近、日に日に寒さが増す。朝となれば尚更で、友哉はコートのポケットに両手を突っ込む。寒いの、とすかさず少女は言ってくる。寒さを感じない少女だが、このその感覚だけは生前に知っているのだ。
「今日は街中歩いて回るからさ、君の知らないことをたくさん教えられる」
 学校は、と聞く少女に友哉は今日は休み、と伝えようとして、できないことを思い出す。この少女には嘘をつけない。思ったことを少女に伝えようと思えばその考えは伝わるのだが、それが本心でないことでは伝わらないのだ。嘘やでたらめは少女に伝わらない。それはきっと少女も同じだろう。もっとも、少女は「嘘」を知らないが。
 今日は行かないことを少女に伝えると、少女はどこに行くのかと聞いてきた。
 どこにいきたいか、と友哉が聞くと少女は困惑の様子を友哉に送ってきた。確かに少女は場所の名前など知らない。
 考えた挙句、行き着いた場所は動物園だった。そしてそれは大正解だった。目に映るもの全てに少女は今まで以上の関心を示していた。あっちの、こっちの、と次々と友哉に情報を求めた。それに急いで答えなければいけない友哉には余裕が無かったが、やはり満たされていた。楽しいとか面白いなどの類ではない。穏やかで柔らかい、そんな何かが胸の奥に溢れてくる。
 平日の動物園、そこに人の姿は少ない。ふと、少女はこの動物達の入っている檻についてどう思うだろうと友哉は考える。それは少女が入れられたコインロッカーとどこか似ているのではないだろうか。狭く、そして自由のきかない世界。
 あれは、と少女は急かす。友哉は急いでパンフレットを開き、目的の動物の項目を見つけて少女に教えた。しばらく経ち、再び少女があっちと友哉に言う。自然、友哉は駆け足になる。心配はすでに頭から失せた。
 次の動物は白熊だった。友哉はパンフレットを開く。そして少女に情報を送りながら自身も説明を読んだ。そこに見つけた単語。
「親子」
 思わず友哉は呟く。確かに二頭いる白熊は寄り添うように離れずにいる。互いにじゃれあい、その姿は暖かく見えた。説明文には母熊と子熊と書いてある。
 見惚れているわけではない。しかし友哉は動くことも少女に何かを伝えることもできなかった。親子について、友哉は「血縁関係」としか少女に教えていない。それ以外、教えることができなかった。
 ――仲がいいね。少女は友哉に伝える。
「そうだね」
 声に出す。その方が少女に伝わりやすいと昨日の夜に知った。頭で考える場合は文章を作り、それを少女に送るという友哉の意識が必要だった。しかし声に出せば友哉の意識は自然に文章を作って少女に届く。こちらの方が早く正確なのだ。
 ――親子は、ああいうもの? 聞かれた友哉は黙ってしまう。あれが正しい姿だ。それは認める。しかし、それを伝えることは少女にとって酷なのではないだろうか。そして、友哉自身にとっても。
「あれは――」
「見つけた」
 友哉の声を遮り、すぐ後ろで声が起こった。驚き、友哉は振り返る。
 三十代後半くらいの中年と年齢の判断のしがたい長身の青年。二人は友哉の後ろに立っていた。
「驚いた。まだ負荷が掛かっていない」
 青年は微笑を浮かべながら言う。この青年を年齢の判断が難しいと言ったのはその身長のためだ。もしかしたら友哉と同じくらい、高校生かもしれない。だが長身のため大人っぽく見え、それを考慮するともしかしたら中学生くらいかもしれない。
「何を言っているんですか?」
「自覚が無い? いや、違うな」
 一瞬、青年の瞳がぎらついた。友哉も察しがついた。青年は少女のことを言っている。
「よっぽど波長が合ったんだろう」
「あの、何のことですか?」
 少女から混乱と不安が伝わる。恐怖も滲み出し始めている。
「待ってろ。すぐに終わらせる」
 低い声が周りの空気を震わせる。中年の男もまた青年と同等の長身なのだが、がっちりとした体格なので「背が高い」と言うよりも「でかい」という表現が合っている。
 終わらせる。その言葉は不吉な空気を孕みながら友哉に届く。少女の思考が恐怖に染まりだす。――怖い。
 中年は着けていた手袋を外し、ゆっくりと友哉に向かって歩みよってくる。そこで少女の恐怖が爆発した。
 友哉は走り出す。伝染する少女の恐怖。それを掻き消すにはこの場を離れる以外にない。不意だったのだろう。二人は友哉に反応できなかった。
「逃げるな」
 青年の声を無視して友哉は走る。園内の他の人間は不審に思うだろうが、もし怪しさを感じるなら間違いなくあちらの二人組に対してだろう。警備員が出てきてもこちらに分がある。友哉の頭はひどく冴えていた。
「大丈夫、すぐ逃げるから」
 呟きながら友哉は後ろを一瞥する。二人組は追いかけてきているが追いつかれはしない。あとは外に出て人ごみに紛れることができれば逃げられる。
 だがしかし、そこで友哉の意識は飛んだ。足元から脳天に飛び上がるような激痛を感じ、そしてその全て感じる間もなく刹那に頭は沈黙した。
 ――怖い。


 水道の近くのベンチに少年を運んでしばらく、少年は目を覚ました。横になったまま、ぼぉっとした表情で辺りを見回し、亮たちの姿を見つけた途端に顔を強張らせる。
「何をした?」
 その目には恐怖がありありと見え、亮は白い溜息を吐く。自分達が怯えられるのは予想外だった。悪霊と少年の波長はよほど合っているのだろう。
「こんなことになったのは初めて?」
「お前達が何かしたんだろう」
 やれやれ、と亮は苦笑いする。これではまるで自分達が悪霊扱いだ。少年の肩にしがみついている黒い塊の方が、よほど有害だというのに。
「君に憑いている奴のせいだ」
「嘘だ。こんなこと今まで無かった」
 厄介だ、と思うと同時に感嘆を覚える。見知らぬ二人組に向かってこれほどに威嚇的な態度をとることは、そこらの坊ちゃんにはできない。そして、だからこそ厄介だ。
「それは君とその子の波長が合ってたからさ。その子がパニックになったもんで君に負荷が掛かった。分かる?」
 少年の不機嫌は消えない。憎悪を込めて睨みつけてくる。よろよろと体を起こし、亮たちに正面を向いた。
「俺がそいつを取ってやる」
 後ろで様子を見ていた一輝がずいと前に出てくる。少年の表情は緊迫を見せ、力が入らないだろう体を無理矢理立ち上がらせる。
「やめろ」
 少年は一輝を睨みながらよろよろと後ずさりする。一輝は少年の睨みをまるで受け付けず、ずいずい少年との距離を詰めて行く。一輝が少年に触れたら、それで終了だ。それが一番この少年の為になるのだ。亮には見守る以外できない。取り除く力は亮には無い。亮には見ていることしかできないのだ。
「あんたら、この子がどんな目にあったか知らないだろう」
 言葉が、一輝を止める。亮もまた驚きで息を呑んだ。少年は睨んだその目付きのまま、涙を一つ零した。頬を滴るそれに、亮も一輝も動きを奪われた。
「親に、自分の母親に駅のコインロッカーに入れられたんだぞ。生まれたばかりで、何も知らない、何もできないのに。この子の記憶は暗闇と母親の顔しか無いんだ」
 コインロッカーベイビー。育てられない母親が赤ん坊をロッカーに入れて去ってしまう。そういう都市伝説がある。それを実践した親がいたのだ。原始的な感情、その理由は自我すら確立していない幼児のものだったのだ。形のできていない感情や恐怖、それが逆に深く真っ黒なのだ。
「この子は絶対に消させやしない。そんなのはあんまりだ」
 少年は固い決意の表情で、なお一層亮たちに睨みをぶつけてくる。亮は一輝の背を見つめる。彼は、どうするだろうか。
 一輝は動く気配を見せない。戸惑っているのではない。思案している。
「喰われるぞ」
 一輝は短くそう言った。言われた少年は意味を掴みかねているようだった。
「その子は君の命を奪う。悪霊である以上、その性質は変わらない。じわじわと、君は弱る」
 亮の補足を聞いて、少年は目を見開いた。
「う――」
「嘘じゃない、気付いているはずだ。君がそれにどんなに同情したって、返ってくるものは無い。君ただは奪われる」
 声を張り上げ、畳みかける。少年の瞳には明らかな動揺が映り、亮はそこを攻めきると目論んだ。
「良く考えてごらん、それはもう死んでいるんだ。それにどれほどの価値がある」
「――家族」
 驚き、亮は視線を一輝に移す。一輝の双肩は震えていた。彼にとって、「家族」とは最も心を締め付けるものだ。



 この少年は何と言った。そればかりが一輝の頭で反芻する。家族と、そう言った。
「家族」
 思わず、一輝は呟いた。体が震える。それは恐怖かもしれないし、至福かもしれなかった。一輝にとって家族とは幸せの象徴であり、残された刻印だった。
 笑顔の妻。しかし一輝はその笑顔を見ることができない。触れることも叶わない。触れてしまったら、妻は壊れる。
 これが、一輝の過去の傷だった。
「お前」
 少年は顔を上げる。自分で言って気付いたのだ。肩に乗ったものの大切さが。それは昔の一輝自身と同様で、他人には変えられないものだ。
「死んでもいいのか?」
 少年は視線を逸らさずにその頑固な目を一輝の視線に重ねる。
「この子は俺を殺さない」
 ――あいつが俺を殺すもんか。それは昔、一輝が亮に放った言葉だった。根拠の無い、そして事実を無視した言葉。しかし、確かに胸の内には自信があるのだ。思わず一輝は笑みを作る。
「勝手にしろ、必要な時は俺がいつでも取ってやる」
 予想外だったのだろう。少年の表情から固さが零れ落ち、緩んだものになる。やがて少年は無言で立ち去り、一輝と亮の二人だけが残る。
「悪かったな」
 一輝の言葉に亮は反応をしない。怒っているのだろう、なぜ霊を取り除かないのかと、あの時と同じように。
 亮に出会ったのは一年前だ。妻を亡くし、絶望を味わっていた一輝に亮は言った。あなたは力を持っている、と。何のことだと尋ねると亮は着いて来て欲しいと言い、家の近くの自販機に一輝を誘った。そして何も無い空間を指差し、ここを握れ、と言ったのだった。不審を抱きながらその場所に手を伸ばすと、そこには確かに何かがあった。手には何かを握った感覚があったのだ。強く握れ、と言われ一輝は気味の悪さを抑えてそれに従った。今に思えば平静の一輝ならばそこで拒絶するはずだった。絶望が恐怖と自身への庇護を薄れさせたと、一輝は解釈している。空間に浮かぶ見えないその何かは柔らかく、握った一輝の指の圧力に従って変形したようだった。しかしある程度の所でその柔軟は限界を見せ、指先は固い中心に触れた。
 潰せ、と亮は言った。気持ち悪さを感じながらも一輝は握力を込める。何かは一瞬、爆発にも似た鼓動を一つ起こし、次の瞬間には一輝の手には何の感触も無かった。
 あなたは彼らを消せる、と亮は言った。何のことだと言った一輝に、亮は霊についての説明をした。彼らは死んでなお存在を残し、自分と波長の合う人間に憑き、憑いた人間の命を吸うという。一度は馬鹿らしいと一輝は否定した。手品か何かだと決めつけ、再び一人の家の絶望に閉じこもろうとした。しかし、墓参りに行った時、一輝は会ったのだ、自分の妻に。
「一輝さん」
 亮の言葉が一輝の走馬灯を止める。何だ、と聞くと亮は固い表情のまま口を動かす。
「手遅れにはならないようにしてくださいよ」
「――済まないな」
 亮は一瞬だけ同情めいた表情を浮かべ、一輝に背を向けた。
「思い出しますよね」
 答えない。それが肯定になると知っている。しかし、一輝は口に出さない。
「俺のこと恨んでますか?」
「今さら、だな。それに、あいつが望んだことだった」
 そう、もう古い話なのだ。それがどんな罪でも激痛でも、過去なのだ。目の前の青年を恨むことはできない。
 一輝は、妻を二度失っている。



 昼の二時、友哉は自室で横になっていた。少女は絶えず友哉の体調を心配している。見慣れた自室の天井を無為に眺めながら「大丈夫」、と何度も友哉は少女に伝えた。
 頭の大半がある一点にのみ働いていることに、友哉は気付いている。ふと視線を横に流すと、窓の外の景色が視界に入る。青く晴れた空に浮かぶ白い雲、ありふれた空だった。
「俺は君を怖がらないし、嫌いじゃないし、俺を殺すなんて思わない」
 ぽつりと呟くが少女からは何も返ってこない。窓の外のいつもと変わらない風景、これではつまらないだろう、これでは少女は満足しない。
「外、行こうか?」
 休んだほうがいい。少女から流れる思考に悲痛が交じる。心配させてしまっている。友哉は少女に従い、窓を閉めて再び横になった。思考はなおも、一点のみに置かれていて、友哉は自身のことにまるで気が向かなかった。
 害を及ぼす。
 命を奪われるのだろうか。廃人のようになるのかもしれない。魂を奪われ、抜け殻になる。友哉は頭に浮かべられるだけの霊の悪行を考える。少女がすでに人間ではないことは知っていた。コインロッカーに入れられて、そのまま死んだ。幽霊、そんなことは分かっている。しかし、害を及ぼすような存在にはどうしても思えなかった。
「俺は君を信じているから」
 力強く言う。しかし少女からはまたも返答がない。不審に思って友哉は自分の肩に手を置いた。小さな温もりに友哉の手が重なった。安堵を感じるが、返信がないことへの不安は消えない。
 怖いのだろうか、あの二人組に存在を消されることが。確かに友哉にはたいした力は無い。しかし、少女を守ろうと、それこそ必死に行動する決意があった。それを、少女は信用できないのだろうか。
 家族と言った。言ってみせた。それはあの青年の「どれほどの価値がある」が引き金になった。友哉にとっての少女の存在に名前を付けるとしたら、家族以外は思いつかなかった。言ってみて、驚くほどしっくりくることが分かった。そうだ、家族だ。
「大丈夫だから」
 自身の体調のことではない。少女の、未来について。伝わってくる少女の感情は、ありがとう、と呟いた。それに満足して、友哉は笑顔で眠りつくよう体から力を抜いていった。
 まどろみが体に染みていく中、友哉は甲高い音を耳にする。聞き覚えがある。――インターフォンの音。ぼやけた頭で友哉は立ち上がる。予想以上に体には疲労がのしかかっていた。負荷、というあの青年の言葉を思い出すが首を振って否定する。もしそうだとしても、それごと背負う覚悟があった。
 緩慢な足取りで一階に降りた時、今さらながらの緊張感が友哉に浮かんだ。ドアの外、いるのはあの二人組ではないか。慌てて友哉はインターフォンのモニターの前に走った。そして、武器はこの家にあるか、頭を巡らす。
 台所にあるモニター、それよりも先に友哉の目に入ったのは、まな板の上に横たわる包丁だった。「武器」と呟いて友哉はそれを握り、そしてモニターを睨みつけた。――来るなら来い。
 しかし、友哉がモニターの映像に見たのは、二人組ではなかった。一瞬呆け、そして友哉は包丁を落とした。画面に映るその顔は悲しみで歪んでいた。
「ごめんなさい」
 涙を落とし、画面に向かって送られた謝罪。おそらく画面の向こうのあの人は家の中に友哉がいると思っていないだろう。ただ、謝りにきたのだ。たまらず、友哉は玄関に向かって駆け出す。
 どたばた、と騒がしく駆けつけ、乱暴にドアを開ける。そして画面の向こうでない、直に、その人を見つけた。
 華奢な体。服装は友哉が最後に見たものと同じもので、しかしその顔は幾分かやつれているように見える。
「母さん」
 母親は驚いた顔を見せ、そして友哉と認めると震えだした。口が小さく「ともや」と動く。やがて感極まったのか、母親は友哉をきつく抱きしめた。細い母親の腕に、これほどの力があることに驚きながら友哉はされるがままに身を任せた。
 ふと、自身の視界がぼやけていることに友哉は気付く。泣いている。母親は泣き虫だからいい。だが、自分がこの場で泣いたことに、嬉しい誤算のような、変な心持だった。
「ごめんなさい」
「おかえりなさい」
 二つの言葉は会話として繋がらなかったが、確かに母と子の想いは通じた。
 家に入るなり、母親は「まぁ」と声を上げた。
「どうかした?」
「……くさい」
 言った途端、母親はいそいそとスリッパを履いて台所に向かった。
「ほら、こんなに洗い物溜めて」
 玄関に置いてきぼりをくらった友哉は唖然と母親の言葉を聞いていた。よく気付いたな、と思い、そんな所に気がいくか、と思う。苦笑半分でリビングに入り、しばらく使われていなかった蛇口からの水音に聞き入った。この部屋の静寂が破られたと思うと、苦笑はみるみる甘美なものに変わっていった。
 あれが友哉のお母さん?
 少女の言葉が頭に響いた。安堵のような夢心地に浸っていた友哉ははっとして、そうだ、と返信する。
 どんな人?
 友哉は母親についての情報を頭の中で組み立て始める。ああだこうだと、以外にまとまらない。
「ご飯はどうしてたの?」
 びくりと体がはねた。意識は四散し、頭の中は母親の柔らかい声に独占された。
「適当に、食べてた」
「コンビニばっかりだったでしょう?」
 それには曖昧な笑い声で返した。すんなりと母親はこの家に馴染んでいた。華奢な背中が妙にたくましく見える。少女への返信を考えなくては思っているはいるのだが、頭で情報を組み立てる度に母親の言葉が割り込んでくるのだった。結局、友哉は母親への返事を優先させた。――少女とはいつでも話せる。


 その晩、本当に久しい家族三人の食事。塾に行かないのか、などと母も父も聞かない。無言の了承なのだろう。今日だけは、なによりもこの食事が大切なのだ。
 父親がいつもより早くに帰ってきた。母親はあちこち部屋の掃除を済ませ、料理の支度を始めた。そんな自然の流れ。二人の間には小さなしこりのような固さが残っているが。
 どちらが先に謝ったか。父の愛人の件は。そんな疑問は友哉の思考の奥底に沈み込み、浮かんではこない。家に戻った眩い灯り。それだけを友哉は全身で感じた。
 いつもよりもおしゃべりな父。それに対応して聞き役に徹している母。その会話に若い意見を割り込ませ、両親を驚かせる友哉。それは確かに平穏で日常で幸せだった。
 しきりに母の作った料理を美味いと絶賛する父。友哉はその言葉に嘘はないと思う。母が作った、という条件を満たした時点でこの料理は幸せを彩ることができる。友哉もまた、何度も父の言葉に相槌をうった。
「どうした? 具合悪いのか?」
 思いがけない父の一言。思わず友哉は自身を指差す。頷いて父は、母に視線を送った。母も友哉の顔を見つめ、心配そうに表情を曇らせた。「顔色悪いわよ」。
「食事も進んでないじゃないか」
 確かに、これほど美味と感じる幸せの料理を、友哉は明らかに両親よりも遅いペースで口に運んでいた。「おかしいな」、と微笑を浮かべながら友哉は内心、焦った。体の調子が悪い。体が気怠く頭が重い。意識がそこに気付くと、不調ははっきり自覚される。
 トイレ、と言って席を立つと、体の重さがより実感させられる。友哉はよろよろと廊下に出て行った。心配そうに見守る両親、彼らに笑みを一つ渡した。
 トイレに入ってすぐ鍵をかけ、そのまま座椅子に腰をおろした。もう立てないのではないかというほどの倦怠。僅かな距離を歩いただけなのにすでに息はあがっていた。
 風邪ではない気がした。症状は急に出た。そして何より、思い当たる「ふし」がある。
 母親が帰ってきてからだ。少女の言葉や感情がまるで伝わってこない。友哉自身、そのことを失念していたわけではなかったが、確かに少女に無関心になってしまった。そして少女から感情も言葉も流れてこない。友哉がふと思ったことは、不吉なものだった。
「君が俺を殺すわけがない。害なわけがない」
 自分の言葉が虚構であると、友哉は気付く。そして、今までの少女の反応の鈍さについても、理解できた。
 少女には嘘がつけない。友哉が本心を少女に伝えようと思うことによって、友哉と少女の会話は成り立つ。(俺は君を怖がらないし、嫌いじゃないし、俺を殺すなんて思わない)今までの少女に送った言葉、とりわけあの二人組に会ってからの友哉の言葉は、ほとんど少女に伝わっていないのだろう。(俺は君を信じているから)。絶対の本心ではないのだから。
 波長。少女と友哉を繋げたその要素は、恐らく今は離れているのだろう。だから少女の心情が、友哉にはもう分からない。理解は恐怖を伴って友哉に舞い降りる。――悪霊、負荷、喰われる。
 腹の底が震え、不快がじわりと友哉の腹部に沁みた。友哉は便器に向かって顔を向け、先程食べたものを吐き出した。
 全部出し切り、安堵したところに再び不快が現れる。衝動のままにもう一度吐しゃして、友哉は目を見開く。二度目の嘔吐は、吐血だった。見たことのない量の血液が口から飛び出た。耐え切れずに友哉はその場にぐったりと倒れこむ。
 血を吐いた。それは初めての経験で、友哉は体の自由が抜け落ちていくのを感じる。しかし意識だけははっきりと残り、友哉は口の中の鉄味を感じた。
「大丈夫か?」
 父の声。ドアの向こうにいるのだろうか。大丈夫、と言うのが困難だった。友哉は手を伸ばしてドアの下部をこつこつとノックする。大丈夫、と伝わればいいが。
 通じたかどうかは分からない。しかし父はノックを返してドアの前を離れていった。遠ざかる足音。急に心細さを覚えて友哉は叫びたい衝動に駆られた。――助けて。
 言っても分からないだろう。霊が憑いている。命を奪われる。それは両親の心配だけを揺さぶり、友哉の異変を精神的な歪みと受け取るだろう。そして、歪ませたのは自分達だと自責する。それは避けたかった。やっと戻った灯りなのだ。
 自分で解決しなければいけない。少女との通信はもうできないだろう。友哉の心にあった孤独が薄れてしまった。少女の持つ絶対の孤独とは相容れない。
 そして友哉は思い至る。二人組、取ってやると言っていた中年の男。そして同時に思いだす、(この子は、俺の家族だ)あの二人組に切った啖呵、(あんたら、この子がどんな目にあったか知らないだろう)自分は少女を守ると決めたのに。
 だが実際あの青年の言うとおり、少女は友哉にとって命を奪う存在になっている。守るどころか、少女に殺されてしまう。
 少女は悪霊なのだ。友哉とは世界が違う。少女を守るには、友哉が孤独である以外に方法がない。それは実質、不可能なのだ。
「ごめん」
 恐らくこの言葉も少女には届かない。少女とはもう、意思の疎通ができない。それは得体の知れなさに繋がり、それは恐怖を辿り着く。申し訳なさを確かに感じる中、友哉は恐怖を感じざるをえない。怖いのだ、崩れる体調が、口から溢れた血液が、取り戻した温もりの崩壊が。
「許して」
 何がどう、なのかは友哉にも分からない。しかし、許して欲しい。
 ――いや。
 少女の気持ちが、僅かに流れ込む。
「何が?」
 ――いや。
 途端に友哉の頭に激痛が走り、友哉は絶叫する。



 2

 翌日、友哉は病室にいた。重りを付けたかのように四肢は怠く、しかし昨夜同様に頭だけは正常に動いていた。それが逆に体の不調を明確に友哉へと自覚させる。
 昨夜、激痛に襲われた友哉は気を失った。そして目が覚めると病院の個室で点滴に繋がれていたのだった。両親はひどく狼狽したらしく、友哉が目を覚ますと母はやつれた顔に涙を流した。
 病因は不明。嘔吐の為とりあえずの栄養補給と吐血の為に輸血しての二本の点滴。つまり治療は行われていないに等しい。当たり前だった。処置を施せるのは医者ではない。
 母は友哉に付きっきりを決め、父も午前中までは仕事を休んでいた。そして昼下がり、母は安堵と共に――点滴をうてば良くなると思っているらしい――昨日の疲れが出たのだろう、友哉のベットに頭を置いて熟睡していた。別居から帰ってきたその日にこんなことになっては、不憫だ。
 あの二人組、と友哉は思う。どこにいるのだろう、いつでも取ってやると言われても、どこにいるのか分からなければどうしようもない。結局は、友哉に呆れてもう取り除くことをしないと決めたのかもしれない。そう思うと寒気と絶望が友哉を支配する。もしあの二人組に見放されれば、友哉はもう助からない。
(自分で威嚇しておいて)
 本当に滑稽だ、と友哉は自嘲する。何気なく窓の外を見たのは、病院の庭にあの二人組がいるかもしれないと思ったからだ。もちろん、いない。
 死ぬのだろうか。死んだら、死にたくないと思う自分も少女のように悪霊になるかもしれない。そしたら、少女と仲良くやっていけるかもしれない。悪霊同士、それならば少女と友哉の間に隔たりはない。二人で孤独な誰かに憑いて、その誰かを交えて三人で話して。
 そして、と友哉は思う。その人間もまた、孤独を離れるのだろう。人の状況は変わっていく。孤独とは、変わりゆく状況の一時に過ぎない。そして友哉と少女はその人間から命を搾取する。そうしたら、その人間も悪霊の仲間入りして――。
 からからと友哉は力無く笑った。馬鹿だ、愚かだ。少女と自分を同じと考えていた。違うのだ、友哉は人間で、少女はすでに人間ではない。それでも孤独を持つもの同士は共感できると思っていた。そしてそれが永遠に続くと信じていた。
 少女は多分、裏切られた気持ちだろう。自分だけ、と友哉を恨みそして命を奪う。
「死にたくない」
 ドラマや漫画、あちこちで語られるこの言葉、自分に向かって言ってみると驚くほど骨身に沁みた。震えが起こり、友哉は自身の存在を確かめるように自分の体を強く抱きしめる。
 その時、腰に回した手が何かに触れる。友哉はぎょっとして手を引いた。それは、少女の手だ。ロッカーの中で握った時とはまるで違う、冷たくて固い手。友哉の命を奪う悪霊は、友哉のすぐ後ろにいるのだ。慣れていた重み、友哉の背には少女が乗っている。
 何故こんなにも冷たいのか。そして友哉は思い至る。友哉の手が温かくなったのだ。両親の温もりに触れ、すでに友哉の手は悪霊の手を冷たいと感じてしまうようになっていたのだ。いや、これが正常なのだと友哉は思う。あんなに冷たい手に温もりを感じるほど、あの時の友哉の心は凍えていたのだ。冷房と暖房、同じ二十五℃でも夏と冬ではまるで違う。
 後ろの存在は、もう友哉を暖める存在ではないのだ。
 ――いや。
 きた。昨夜と同じ、これの後に激痛がくる。
「やめてくれ」
 ――いや。
 何が嫌だというのだ。少女はもう死んでいる。友哉はまだ生きている。生者と死者、どちらが重大な存在か分かるだろう。いや、少女は分からない。生まれて間もなく死んでしまったのだ。そんな考え無いにちがいない。
 ――いやだよ。
 頭の奥が沸騰するかのようにふつふつと鼓動する。
「嫌だ、死にたくない!」
 少女もこんな気持ちだったのだ、――暗いロッカーの中で。こんな気持ちに共感するなんて、友哉は自分の愚かを恨んだ。
 頭が爆ぜる。そんな衝撃。


 ホームに続く階段を一輝と亮は下る。もうすぐ終電だろう、階段を上がってくる人々には一日の疲れが浮かんでいた。
「一輝さん」
 視線を合わせないままに亮は言葉を一輝に向け、一輝は無言で先を促す。
「もう、無駄な時間はありませんからね」
 今日の昼だった。亮が少年に憑いている霊の異常を察知し、それを追いかけていくうちに夜になってしまった。
「本当に乗っ取ったのか?」
「間違いないです」
 自然、一輝の表情は固くなる。そこを見抜いたのだろう、亮の目付きが鋭くなる。
「悪霊はやっぱり有害なんだ。見つけたらすぐに、消すべきなんですよ」
 一輝は答えない。亮の言うことに確かに正しさが混じっている気もするが、絶対の正解かと聞かれると、一輝は頷くことができない。
 霊は人とは違う。それは一輝自身が体験したことでもある、否定はできない。しかし一輝は亮のように彼らを「悪霊」と決めつけることができない。妻を悪などとは呼びたくはないのだ。確かに霊の持つその性質は人間にとって悪質なものだ。波長の合う者に憑き、憑かれた人間に負荷が掛かる。
 しかしそれは性質なのだ。決して霊が望んでいるわけではない。そして霊は自らの意思で人から離れられない。一輝の妻がそうであったように。
「共存できない。そう決め付けるのは悲しいだろう。俺たちは霊の全てを知るわけじゃない」
 一輝と亮が持っている霊の知識は全て仮説の域を出ない。今までの霊の状況、そして一輝が妻から聞いた情報、それだけだった。だからこそ、と一輝は思う。もしかしたら、があるかもしれない。人への負荷が掛からない方法や、霊の消すのではなく取るだけの方法。そんな希望を一輝は可能性の中に見ていた。
「綺麗ごと」
 亮の声は低くかった。驚いて一輝は亮を見遣る。亮は足を止め、真っ直ぐ一輝に向き直る。その瞳に怒りではなく複雑な悲しさが映ったことに、一輝は面喰らう。
「今まで、悪霊と人間が共存できたことがありますか? 必ずどちらか、犠牲にならなきゃならないんだ」
 亮は霊を憎んでいる。一緒に行動するようになって一年になるが、一輝はその点をいつも感じていた。
 力は霊との接触で目覚める、と亮は言った。霊に干渉する力は生まれ持ってのものではない。一輝は妻の霊に触れ力を得たのだと思っている。亮にも恐らく霊との接触があり、その接触が亮の霊に対する嫌悪の根底を築いたのだと、一輝は思っている。
「あなただって結局、奥さんを消したじゃないですか」
 妻の霊は一輝に憑いた。妻を消せと言う亮の言葉を無視し、一輝は夫婦生活を再び始めようと試みた。幸い負荷は無いに等しく、それが一輝に希望を見せた。精神の繋がった自分と妻。思いはもう口を経由せず、言葉を媒介とせずに通じている。本当の意味で妻と一つになったと、その時の一輝は思った。
「俺とあいつは、最後のひと月を確かに過ごせたんだ。あいつの死を受け止められなかった俺に、あのひと月が時間と覚悟をくれた」
「あなたにはそれができるんだ。悪霊を消し去る力を持っていたから。他の人は違う。必要な間だけ利用できるあなただから、そんな綺麗ごとを言える」
 利用。その言葉に、一輝の感情が弾ける。襟を掴んだ一輝の両腕は、重さが無いかのように亮の体を軽々と持ち上げた。
「ふざけるな!」
「ふざけてなんかいませんよ。悪霊は消えるべきなんだ。一人残らず、あなたのその手で」
 亮の目にいつもと違う光を見つけ、一輝は戸惑う。それは亮を持ち上げる手にも伝わり、亮はゆっくりと階段の上に降ろされる。
「行きましょう。彼が待っている。早くあの悪霊を消してやらないと」
 言って亮は階段を降りていく。その後姿に、一輝は言葉に出ない疑問を向けていた。
 ――何故、亮があんな顔をする。
 今まで亮から感じていたものは怒りだった。悪霊のことになると凶暴とも言える攻撃性を剥きだしにする。それに関しては、苦しむことになる人間、そして見る事ができても見ることしか「できない」自分への苛立ち。一輝はそう解釈し、共感には届かないまでも理解していた。
 しかし、先程一輝に見せた亮の目からは怒りではなく、絶望が見えた。諦め、その表情を亮が持つ意味が分からない。
 一輝は亮についての情報をほとんど持っていない。一年の付きあいだが、亮の私生活など全く分からない。一輝が長期の休みを取った時に現れ、電車であちこちに向かうのだ。それだけで亮は霊の存在を見つけられる。それを一輝は事務的に消してきた。見えないからかもしれない、一輝は罪悪感の類を感じない。自分の妻や、あの少年のようなケースを除いては。
 少年の件に関して、亮はあまりにも異常だった。特に少年が霊に体を乗っ取られてから、亮は怒りと共に絶望を持った。――何故。
 なんだかんだで、一輝の時も亮は待ってくれたのだ。やろうと思えば一輝の手を妻に触れさせることもできる。そして今回も、亮は無理矢理を選ばなかった。
 最後の最後、妻の消去を決行したのも、亮ではなかった。


 狭いアパートの一室。布団で唸る一輝の視界に、呆れ顔の亮がいた。
「これ以上は無理ですよ」
「うるさい」
「一ヶ月憑けてた人間なんて初めてですよ。もう限界だ、奥さんにも分かってますよ」
「うるさい」
 それは伝わっていた。もうやめてくれ、と妻は悲痛を乗せて一輝に訴えていたが、一輝はそれを承諾しなかった。
 偽りなく、この時の一輝は妻と共に死ねると本気で思えた。妻のいない世界に絶望し、妻が自分に憑いた因果に幸福を感じた。死が妻との同居に繋がるなら、まさしく本望だった。死ぬまで一緒にいようと、古い約束が果たせる。
 一輝は妻を愛していた。世界中の誰よりも。今ならそれを声高に叫べる。気付かなかった大切に、失って、また手に入れて、心底思う。これを手放すのは耐えられない。ましてや己の手で屠るなど、寒気が起こる。
 ふいに、頭に激痛が走って一輝は獣じみた叫びをあげる。一週間ほど前から、体はいよいよ軋み始め、今はもう体をろくに動かせない。もうすぐ訪れる死、しかし一輝はそれを笑顔で向かえる自信があった。激痛からの開放、約束の成就、妻との旅立ち。
「あなたには手があるのに、死ぬつもりですか?」
「こんなもの、いらない」
 この手のせいだ。霊との接触で霊を消せるようになったこの手。これのせいで一輝は愛妻に触れることができない。肩に乗っている、その重みだけが一輝に妻の存在の安心を与えてくれる。
「その手は悪霊に苦しむ人を救うことができる」
「俺が救いたいのは他人じゃなくてこいつだけだ」
 その時、亮が何かを呟いたようだったが、頭痛の波が押し寄せてきたことによって一輝はそれを聞くことができなかった。
 もうやめて、と妻が言う。一緒に死なせてくれ、と一輝は返した。何故、妻が交通事故で死ななければならなかったのか。一輝の知らないところで突然、何の現実味も無く妻は死んだ。そしてまた、こうして巡り会えたのだ。もう離れたくはなかった。
 一際大きい激痛の波。感じた途端に痛みは嘘のように抜けていった。境界線を越えたのだ。もう目覚めないかもしれない。しかし一輝にとってそれは恐怖にはなりえなかった。
「一輝さん」
 暗闇に落ちた先で聞いたのは妻の声だった。懐かしい、思考の通信ではない妻の声。しかし一輝は言葉を返すことができない。口が動く気配はなかった。
「いままでごめんなさい。方法があるのに、ためらっていた。あなたとの時間が欲しかったから」
 妻の声を心地よく感じながらも、一輝はその言葉に不安を覚える。動かない体は不安に拍車をかけ、一輝は焦りを募らせる。
「残るべきじゃなかったのかな。お別れぐらい――なんて、愚かだったかもしれない」
 妻はきっと、自分のことが心配で残ったのだと一輝は思う。本当に、死んでまで面倒をかけている。
「きっともう時間切れなんだろうね。あなたを死なせたくはないから」
 嫌だ。一輝は声にならない哀願を妻に送る。もう意識が繋がっていないことは知れていた。一輝にはもう妻の声が聞こえても妻の心は聞こえない。
「最後の言葉を言えるのだから、きっと私は幸せなのね。一輝さん、私幸せなのよ」
 ふふふ、と少女みたいに笑う妻。見えないが、その顔がどんなものかは頭の中枢が知っている。それは一輝の宝物の一つだ。
 一輝は察している。妻は別れを告げようとしている。一輝の為に、しかし一輝の望まぬ方向へ。
「幸せでした」
 一輝は手に温もりを感じた。柔らかく、暖かい、それは妻の手だ。妻は強く一輝の手を握り締める。強く、きつく。
「やめろ!」
 戻った意識と同時に口から飛び出す言葉。しかしもう、一輝の心は愛する者と繋がっていない。
 体が、やけに軽かった。


 少年の状態は、すでに過去の一輝とは重ならなかった。寝間着のままの衣服にはあちこち土が付着して、靴すらも履いていなかった。目は虚ろで口元からは血液混じりの唾液が垂れている。
 何があったのだろうか。一輝は思わずにはいられない。あれほどの力強さを宿していた瞳は色を失い、一輝たちに啖呵を切った口はだらしなく半分開いている。確かに昨日の少年には、昔の一輝が映っていたのだ。それが、なぜ乗っ取られているのだろうか。
 少なからずの期待があった。今まで一輝が見てきて、そして霊を取り除いた連中は皆、自身に霊が憑いていると聞かされると恐怖を覚えて一輝に救済を求めてきた。よほど波長が合わなければ憑かれたことに気付くことも通信をすることもできないのだ。
 だからこそ、少年に対する一輝の期待は決して軽いものではなかったのだ。唯一かもしれない、自分のリフレイン。結末はもしかしたら――、願わずにはいられなかった。
「一輝さん」
 釘を刺すような亮の一言。感傷がそのまま滲んだ瞳で、一輝は少年を見据える。正直、一輝が霊にここまでの感情を抱いたのは妻以来だった。
 一輝には霊が見えない。霊に憑かれているといっても、一輝にはただ怯える人しか見えない。一輝が握るのは見えない何かであり、残るのはただ感触のみだった。簡単な作業に近いその仕事に一輝は罪悪感を感じることはなかった。ただ、霊に怯える人間に慈悲以外の感情をも持ち合わせていたのもまた事実だ。
「――嫌」
 ふいに、少年が喋る。その声は確かに少年のものだが、言葉は霊のものだろう。
「何が?」
「一輝さん! ――訊かなくてもいいでしょう」
 それは、そうだ。これから消すのだ。それは少年の状態を見れば瞭然だろう。もう時間はない。しかし、だからこそ、一輝はこの霊を知りたかった。希望は偽者ではなかったと、その確証が欲しかった。小さくても、手がかりでもいい、人と霊の間の壁は厚くはないのだと。
 しかし、それを目の前の少年に求めることはもうできない。これは確実に波長のずれた例だ。少年と霊のあいだに何があったかは知れないが、二人は破滅に進んだのだ。何故、と訊きたかった。
「嫌だ」
 先程よりもはっきりと声が出た。
「一輝さん!」
「分かってる! だから少し時間をくれ」
「手遅れになったらどうするんです」
「この子は彼を殺さない!」
 言って、一輝ははっとする。こんなことが言えたことが驚きだった。もしかしたら一輝が信じたいのは人と霊の関係よりも霊そのものかもしれなかった。良くも悪くも霊は純粋な一点を持っている。その部分が存在する原動力となるのだ。だから一輝はときどき思う。霊は、選ばれた存在なのではないか、と。
 何に選ばれたのか、は分からない。しかしその純粋は消えることのないほど大きく強い。それは人の中で優れた種類の人間といえないだろうか。消すのが惜しい存在。それが残るのだとしたら、霊はやはり「悪」などと呼ばれるべきではない。
 この考えが「人」として間違っているのは分かっている。亮の怒りが向くのはきっと一輝のこの部分なのだ。一輝は霊を人よりも上位に置く。霊は人の存在を害するものだ。しかし、一輝は霊に羨望とも尊敬ともいえる念を持っている。
 それは亮の言う通り、彼らを消し去る力を持っている余裕からくる感情かもしれない。しかし、持っているのだ。しかし、感じてしまうのだ。それを否定することはできない。
 少年の膝ががくりと折れた。その場に四つん這いになって――しかし目だけは一輝に向いていた。体力はもう限界なのだ。
「嫌、怖い」
 恐怖、それがこの霊の存在の原動力だろうか。いや、それだけじゃないはずだ。それだけじゃない。希望的観測の直感。しかし一輝はそれを信じた。昨日の少年の瞳に、信じる価値があったと疑わない。
「一輝さん、いいかげんに」
 途端、少年は血を吐いた。アスファルトに広がる赤にぎょっとする一輝に向かって、亮は責めるように睨んでくる。本当にもう限界なのだ。
 一輝は、おずおずと手を前に出す。触れたくない。自身の手で希望を消したくない。ふつふつと起こる感情を、少年の限界という事実が抑える。人より霊を上級としても、命の重さがある。少年の死は、決して一輝の望むところではない。
 一輝は少年に歩み寄りながら目を閉じる。これでいつもと同じだ。ただ触れて、強く握ればいい。それで終わる。――苦渋も希望も。
 一輝は自身の作った闇を見ながらゆっくりと手を下方にいる少年に下ろしていく。一輝の闇の中で、鼓動が大きく響いた。
「やめろ」
 しっかりとした声音。一輝は咄嗟に手を引っ込めた。今の声は昨日の声だ。昨日の少年の、強い声。
「やめてください。俺が、悪いんだ」
 目を開けた一輝の前で、少年は冷静な顔だった。焦点の合っている視線が一輝を真っ直ぐに見据えている。
「――嘘」
 呆けたように亮が呟く。一輝もまた、状況が把握できない。しかし心の奥で、期待している。
 少年には霊に体を乗っ取られたことに対する驚きや恐怖は見えなかった。ただ昨日よりも、霊を家族と呼んだ時よりも表情に精悍さを漂わせていた。頑固が抜け落ちて柔軟が染み込み、虚勢が失せて強さが悟ったような表情の中に埋まっている。成長したのだ、昨日と今日で。もしかしたら乗っ取られているそのさなか。
「ごめん」
 少年は目を伏せ、急にそう言った。それが霊に対するものだと一輝は気付く。
「亮、どうなってる?」
 亮は少年を見つめたまま固まっている。
「分かりません、でも悪霊がいない。いや、いるけど見えない」


 3

 青年と男はコインロッカーの前に立っている。
 友哉はロッカーに向かって手を合わせる。あれから一年だ。友哉は地元の大学に受かり大学生になった。休みの日には一輝と合流し、あちこちで霊捜しをしていた。
 友哉は力に目覚めた。亮と同じ、見る力。少女の霊との接触によって。
「ごめん」
 一年間、それはまだ短い。友哉はまだ償いを終えていない。
 少女に体を乗っ取られ、友哉は少女の意識の中に取り込まれた。そこで友哉は何も見えないほどの闇を生まれて初めて見た。あいかわらず友哉は恐怖に支配されていたが、やがてその空間が適温の湯のように心地良い事に気付いた。
 心がほぐされていくのが分かった。友哉は穏やかに包まれ、それが少女の心だと知った。あの凍える夜に出会った少女の手と同じ、体の芯まで伝わる温もり。
 その闇の中で少女は、ごめん、と言っていた。聴覚で拾ったものではない。意識の通信と同じ、繋がっていたのだ。
 友哉には少女の感情が流れ込んでくる。それは侵入と共に友哉の心を温めていく。少女の心の底には優しさが詰まっていたのだと、友哉は認識した。
 少女は友哉から離れたがっていたらしかった。友哉の家に母親が帰ってきた時からずっと。友哉が家族との時間を過ごしている間、少女はそれを邪魔しないよう、自身が消えるように頑張っていたのだ。
 しかし、少女の性質はそれを許さなかった。消えるよう努めても、少女は自分自身の操り方を知らなかったのだ。焦りは友哉と少女のずれに拍車をかけ、ついに少女の性質は友哉の体を乗っ取る力を発動させた。
 恐らく、一番怯えているのは少女だと友哉は感じた。消えようという思いは空回りし少女の望まない方向にばかり、友哉の体は変化していく。
 闇の中で、友哉は少女に乗っ取られた自分の体がどうでもよくなった。少女の純粋は友哉の想像を越えて真っ白だったことが一つ。もう一つは、本当に少女の心の中は居心地が良かったのだ。多分、友哉の心の中はこんなに温かくはない。もしかしたら、人の心の中はみんな冷たいかもしれない。
 優しさは欲望ではない。それは動物の本能ではなく、人の持つ個々の性質だろう。しかし少女の優しさは、限りなく本能に近い。自分は違うと友哉は自覚した。友哉の「優しい」は「優しくない」を知った上での優しさだ。間違いを知っているからこそ、正しい方向を知っている。理性で判断する優しさ。
 少女の優しさはもっと根底に存在するものだ。少女は「優しくない」を知らない。本能が「優しい」を行っている。それこそが純粋な優しい、だ。「優しくない」を知ってしまった人間にはもう永久に真似のできない、絶対に純粋な優しさ。それが、少女の心の中にいる友哉には、手に取るように分かるのだった。
 友哉は少女の心に包まれながら、自分の罪を見た。薄っぺらの優しさで、薄っぺらの覚悟で、少女を背負った罪。家族などと言った。守って見せるなどと言った。その全てを、友哉は破っているではないか。
 結局、わがままだ。悲しい時、同じ悲しみを持つ少女を共感できると受け止めた。共感は友哉と少女の鎖となって二人を繋いだ。無知の少女に自分の知識を教えていく。まるで兄弟のような関係にのぼせ、友哉は少女を家族と呼んだ。少女が家族に捨てられたと知っておきながら、軽々しくその言葉を吐いた。問題はその後だ。友哉の悲しみが消えたのだ。その時点で友哉は少女をいとも簡単に忘れた。目の前に広がる幸せに、自分ひとり分の入り口しかないと知っていたからだ。家族と言っておいて、友哉は少女を家族と認めていなかった。少女の持っていないものを与えられる自分に優越を感じていただけかもしれない。今思えば、それはひどく子供じみた感情ではないか。他人の持っていないものを与える優越感。ほくそ笑む子供の顔が浮かんでくる。
 そんな友哉を――自分自身ですら嫌悪を覚える――少女は許すどころか謝っていた。
「俺は屑だった」
 一年前の自分、それは甘い感情しか持ち合わせていなかったと思う。友哉の肩に手が置かれる、少女のものとはまるで違う、固くてごつごつした手。それに振り返り、友哉は笑った。
「一輝さん。俺は、成長しましたか?」
 通り過ぎる人々は奇異の目をちらちら友哉と一輝に向けるが、そんなものはもう慣れていた。
「したさ。少なくとも大学生になった」
「……意地悪だなぁ」
「まだ見つかってないからな。奇跡」
 そうですね、と返して友哉は再びロッカーを振り返る。一年前、そこで消えさった少女。少女はもういない。少なくともそこには。
 意識が戻った時、すでに友哉の肩には少女の重さは無かった。しかし、一輝は少女を消していない。亮も少女がどうなったか分からなかったのだ。霊が消えた。自らの意思で。一輝と友哉はそれを「奇跡」と名づけた。霊は自ら消え去る性質を持っている。そして少女は消えた。いや、もしかしたらと友哉は自分の胸を見つめる。――もしかしたら。
 今の自分だったらどうだろうか。今の自分なら、少女を背負えるだろうか。二度目だから、一輝の記録を抜けるかもしれない。そんなことを思って、友哉は笑む。
 今でも時々、一人の自分の部屋でこの上なく寂しいと思う時がある。少女がいれば、などと思ったことも、一度や二度ではなかった。いや、もう孤独という鎖はいらない。友哉は少女に会いたかった。もう鎖がなくても、少女と自分は繋がっていられると思える。
「サチ、いつか、きっと君のやった『奇跡』を見つけてみせるよ」
 願わくば、それが霊の幸せにつながる業であることを。ただ消えるだけでない。友哉はまた自分の胸――その奥、一般に心があるはずのそこ――に視線を送る。
「サチ? 名前付けたのか?」
 指摘され、友哉ははにかむよう口元を歪ませた。
「幸せのサチ、なんて、笑わないでくださいよ?」
 一輝は何も言わなかった。そして一輝も手を合わせ、ロッカーに向かって目を瞑る。
「亮、今の相棒はこんな奴だ」
「なんですかそれ」
 そう、亮もまた、ここで消えたのだ。


 4

 落ち着きなく、早い歩調であちこちに動く亮。そんな亮は初めてだった。
「消えた。悪霊が自ら? 一輝さんが触れてないのに」
 亮は興奮したように独り言を並べている。一輝は霊が見えないこともあり、置いてきぼりをくらったように呆然としていた。
「おい、亮。何があったんだ?」
「悪霊が消えたんですよ。あなたの力で消したんじゃない、ひとりでに消えたんです。いや、消えたかどうか分からない。無害な存在になって僕の力じゃ見えないのかもしれない」
 笑顔だった。高揚が顔の前面に溢れていて、そしてそれは一輝が今までに見たことのないものだった。
 少年は放心したように座り込んでいる。一輝にはその姿に見覚えがある。昔の自分だ。妻を失った時の、それは一度目とか二度目を問わなかった。
 少年は自分の肩に手を置いている。分かる。失った重みを感じているのだ。そして温もりも。なぜ、少年と霊はうまくいかなかったのだろう。いやしかし、亮が言うように何かが起こったのだ。一輝は上手く事態を飲み込めないが、亮が喜ぶような事態が起こった。
 しかし、それは少年には関係のないものだろう。大切な存在を失ったのだ。それはすぐに補えるものではない。自身の経験は親身に分かるものだ、と一輝は思う。
 ふいに、少年が一粒涙を落とした。亮はそれを見て顔に張り付いている喜びを冷ました。落ち着いた微笑を浮かべ、少年に向かっていく。
「ありがとう」
 先程の昂ぶりが嘘のように、急に亮の声音は温度を下げた。その代わり、やけに満ち足りた声に聞こえる。亮は少年に向かって頭を下げた。それもまた、一輝を驚かす。下げられた少年は呆然としながらも亮の方に顔を向けた。
 まるで亮は苦しみから解き放たれたようだった。箍が外れたように感情を丸見えにしている。それが一輝には嬉しかった。遅れていた興奮が現状に追いついた。希望が見えたのだ。そして、亮もまた一輝同様、希望を求めていたのだ。
「なんだ、あんた?」
 少年が、ぎょっとした顔で亮を見つめている。その意味を一輝は飲み込めなかった。
「見える? じゃあ君は悪霊を見る力に目覚めたんだ」
 少年はまじまじと亮に見入っている。また一輝は置いてきぼりをくいそうだ。
「あんたは、何者だ」
 くっく、と亮は笑う。一輝には喜びを抑えきれないように見えた。しかし、一輝は不安を感じはじめる。何か、亮の様子がおかしくはないだろうか。
「僕はね、さっきまでの君と一緒さ」
「亮?」
 思わず声が出ていた。亮が今言ったこと――先程までの少年と同じ。それは、
「お前は」
「この体はね、兄貴のなんですよ。一輝さん」
 亮は一輝に向き直り、言った。
「僕の母親は悪霊に体を乗っ取られましてね。親父と僕は母親に殺されたんですよ。母親もその後自殺、全部悪霊のせいです」
 いたって冷静に語る亮。一輝はそこに彼らを悪霊と呼ぶ亮の頑固の理由を見つけた。
「兄貴は別の所に一人暮らししてたから助かったんです。遺体確認で兄貴が僕の死体の前に来た時、僕は憑いちゃって」
 やがて声に哀愁が乗ってくる。一輝は亮と視線を合わせられなかった。今度は少年がついてこれないようで、ぽかんと亮を見ている。
「兄貴は全部理解してくれました。そしたら僕に体をやるって言い出して。大学生活に疲れたから、お前が使えって」
 言いながら亮は震えだした。亮の兄の真意は分からない。しかし、亮は知っているのだ。きっと意識が繋がっていたから。
「体の乗っ取りは普通、全身が拒絶反応を起こす。それが無くて、しかもこんな長時間居座り続けられるのは兄貴がこの体を抜け出したからです。僕に明け渡してくれた。悪霊への復讐に使え、って」
 悪霊への憎悪。その起因は一輝の想像を越えていた。そして、と一輝は思う。亮は苦しんでいたのだろう。兄から受け継いだ兄の体。悪霊への復讐を託されても、よりにもよって亮の兄の体が目覚めた力は見る力だった。そしてなにより自分自身も霊なのだ。自己嫌悪と焦り、全ては一人残された亮の肩にのしかかる。
「良かった。やっと家族からの束縛から抜け出せる。救う方法を見つけるか、全部滅ぼすか、それが僕の考えた僕の使命です。とりあえず、あることが分かった。後は、任せてもいいですか?」
 一輝はゆっくりと頷く。それを見て、亮は満足そうに笑っていた。本当に今までが辛かったのだ。この笑顔が身を潜めるほどに。
「重荷だったのか?」
 亮は首を振る。
「でも、辛かったんです。消えていく悪霊、それを憎んで、消えるのが正しいと言って、その時に自分も悪霊だったと思い出す。兄を犠牲に自分が存在していると噛み締める。そしていつの間にか、抜け出したくなっていたかもしれない」
 一輝は自分の右手を見つめる。亮はこの手を握りたかったのかもしれない。この手が欲しかったかもしれない。
「でも今日、希望を見れました。悪霊は、僕たちは、違う道を選ぶことができるかもしれない」
「それを見届けなくていいのか。お前自身、その道を通りたくないのか?」
 亮はまた、首を振る。本当にさっぱりした顔だ、と一輝は確認する。何かから開放されたような。憑物が落ちたような、という表現は酷い。
「いいんです。もう、家族の所に行きたい」
 亮は一輝に歩み寄る。一輝は黙って手を出した。抵抗はできない。亮の背負った苦しみは一輝の想像では辿り着かない。なら、これを拒む資格は一輝にはない。
 少年には握手に見えるだろう。亮は笑顔で一輝の手を握り締め、一輝も震える心でそれを握り返す。亮の手は驚くほどひんやりしていた。


「俺が死んだら、霊になれますかね?」
 電車の中で、友哉はおもむろにそう訊いた。
「なりたいのか?」
 そう訊き返され、友哉は返事に窮した。シートにもたれかかり、思案する。人に憑く存在になりたいのではない。だが憧れている。そんな言葉を出してもその先の自分の気持ちをうまく表す自信がなかった。
「そう、じゃないです」
 結局、不本意な言葉しか出てこない。こんな時、意識の通信ができればと、つい思ってしまう。便利を知った後に不便を知ると、しかもその便利が二度と手に入らないと知ると、やけにそれが輝いて見える。
「俺はなりたいな。少なくともなれるような人間になりたい」
 あ、それだ。と友哉は無意識に呟く。
「それですよ、俺が言いたかったの」
 少女は生きたいと、一輝の妻は夫への愛を、そして亮は恐らく霊への憎悪で。強い思いで残るもの。それは壮絶な生の表れではないだろうか。
「なれるような人間になりたい」
 自分の声で言ってみる。霊のような、この世に残るような。
(違うな)
 しっくりこない。友哉が真に目指したいのは、サチだ。真正の優しさ。すでに届かない場所と知っていながら、友哉はサチの心中の温もりが忘れられない。自分がもうあんな心を持てないことが悔しいような、寂しいような。
「会いたいなぁ」
「何だ突然、ホームシックか?」
 分かっているくせに。友哉は内心で毒づいて――いや、と思い直す。
「そう、ですね」
 家族だ。言ったじゃないか、自分で。一度自ら破ったが、サチは許してくれると思う。今度は違う。友哉が入れてもらうのだ、サチの家族に。
 亮も、一輝も、一輝の妻も、みんな。意識は繋がり、みんな本心のみを伝え合う。それでもきっと上手くいくはずだ。きっと、と希望が持てる。
 こんなことを言ったら、一輝は夢想と笑うだろうか。いや、笑って、肯定してくれるのではないだろうか。
「ねえ、一輝さん――」

あとがき

長い作品、読んでいただきありがとうございます。

小説投稿道場アーカイブスTOPへ