神樹の森
母さんが、嫌いだった。 父さんと死別してからホステスの仕事を始めて、 家にまで客を連れ込むなんてもう当たり前になって。 母さんは、臭かった。 化粧品とか香水とか酒とか煙草とか色々な臭いが母さんには染み付いていた。 吐き気がする。 母さんはたまに休みをとる。 当たり前だけれども。 私は1分1秒として傍に居たくなかった。 だからそんな日は友達の家に泊めてもらっていた。 私に 近づかないで 名前を呼ばないで 触れないで 嫌い 大嫌い・・・――――――!!! そんな大嫌いな母さんが死んだ。 原因は過労死だと聞いた。 清々した、とは思えなかった。 とても呆気無さ過ぎて。 葬儀は母さんの実家でやる事になった。 母さんの実家には母さんのお兄さん、私にとっての伯父さんとその奥さんと 私よりも五つ年上の息子の灯志(とうし)兄さんが居た。 本当に安っぽいホームドラマみたいな温かい家庭で、私は居心地が悪かった。 「ちこりちゃん、我慢しなくてもいいんだよ。」 伯父さんが気遣ってそんな言葉をかけてくれた。 涙一つ流さない私を見て我慢していると思ったみたいだ。 実際私は我慢なんてしていない。 ただ本当に流れてこないだけで。 嬉し泣きでもするなり笑みを浮かべるなりすればいいのに。 私はただ俯いていた。 頭が痛い。 意味の分らない坊主の声から逃げる様に読経の途中で部屋を出る。 空は腹立だしいくらいの晴天で、気だるさが増してくる。 外を歩いていても何も無くて。とても暇だったんだ。 何の目的も無く、裏山へと向かった。 昔、ここに遊びに来ていた時に灯志兄さんと遊びに行ったのをうっすら覚えている。 足場は石だらけだったり土だったりと歩きづらい。 木々が鬱葱と茂っていて晴天だったが木蔭が出来てあまり暑くない。 むしろ蔭が多すぎて少し薄暗い。 時々不気味に響く鳥の声。 何所まで歩いてもその声は止む事が無くて付いて来られているのかと思わせるくらい。 高く聳える木々の大きさ。 昔はこれよりも大きく見えていたのだろうか。 今でもこんなに大きく感じるのに。 何だろう。私は何かに怯えている。 結構な道程を歩いた。 普段からあまり家の外に出る事は無く疲れて直ぐそこに在った木の下に腰を下ろす。 戻れるのかが心配になってきた。 ふと、思う。 どうして私はここまで来たのだろう。 ただ、暇だったから。 あの場所に居たくなかったから・・・―――。 認メルベキ事ニ怯エテイタカラダロウ――――? 唐突に聞えてきた声に驚いて肩を振るわせる。 膝を抱えていた状態のままで顔だけを上げて声の主を探す。 こんなにはっきりと聞えたのに近くには何も無い。 人影どころか先刻までギャアギャア騒いでいた鳥の声さえも聞えない。 気味が悪くなってすぐさま其処から立ち去ろうと判断した。 立ち上がる為に少し前のめりになった時、木の皮に髪の毛が引っ掛かった。 誰かが髪を引っ張ったと思い条件反射で後ろを振り向く。 あれ・・・――――? 「こんな樹なんて在ったっけ・・・・?」 ちこりの腰掛けていた木は確か周りと同じくなんの変哲も無いただの木だった筈なのに、 振り返って其処に在ったのは不気味なくらい真っ白な木。 確か大きな木ではあったけれどもこんな色をしていただろうか。 「っ気持ち悪い・・・・・」 その場を立ち去ろうにも足が竦んでしまっていた。 そんな最中、その木のある一点に目が行った。 小さく開いたただの穴。 だけどそこから目が離せない。 メキッ、と何かがきしむ音が聞えその音は段々増えていく。 穴は徐々に大きくなっていって割れ目が出来た。 「っ―――ぁ、ひあ・・・・・・・!!」 震えた声で悲鳴を上げる。 その割れ目に真っ白な髪を纏った少女が蹲っている。 その髪に同化しそうな真っ白なワンピースを羽織っていた。 さら、とその少女の髪が流れた。 少女がゆっくり瞼を開けてこちらを見ている。 ―――娘、私が怖いか? 唇は動いているのに聴覚が働いている感覚が無い。 頭に、直接響くような感覚が正しいのだと思う。 「さっき、話しかけたのも貴方よね」 ―――そう怯えるな。危害を加えたりなどせぬわ。 そこに居るだけでも怖いのに。 「私に何か用でもあるの・・・・?」 ―――お前の強い思いに反応しただけの事よ。 不気味に、無邪気に笑う。 綺麗過ぎてそんな単純な行動さえも恐ろしい。 すと、と少女は木の中から下りた。 ―――人間という者は変だね。伝える為の「言葉」と言うモノがあるのに。 『蛇に睨まれた蛙』というのはこんな感覚なんだろうと薄ら思う。 その感覚がこんなにも恐怖に思うなど知らなかった。 視線を外したら何が起こるのか解からない つつ、と自分の唇を指でなぞって小さくクスクスと笑う。 ―――ここは「神樹の森」神の樹木と書いてシンジュ。綺麗だろう? またクスクスと笑って先刻の木の割れ目に腰掛ける。 本当に無邪気な表情で、本当に綺麗な姿で、本当に何よりも恐ろしい者だと思い知らされる。 ―――お前、『葬式』とかいうものがあるのだろう? いいのか其処に居なくて。 きゅ、と唇を噛み締めた。 ―――問いには応えんか。別に捕って食ったりせぬわ。捕ろうにも牙も爪も無いしな。 「ぃ・・・いいの。私、母さん大嫌いだから」 まだ震える声で応える。 その応えに少し驚いたような顔を見せた。 ―――本当に人間は変だな。真逆の事を主張する。 「何言ってるの。私は本当にあんな奴なんて大嫌いよ」 ―――「母」と呼んでいるのにか? 『「触らないでよ!!」 掴まれた腕を振り払う。 「臭いのよ。近づかないでよ!!」 辛辣な言葉を吐いた。それが最後に母さんに向けた言葉だった』 ―――親に向かってそんな言葉を吐くのか。 「・・・・心も読めるわけ」 ―――まあな。だが「読む」というよりも「見える」の方が合っている。 「そう・・・」 ―――何故お前はそこまで母を嫌う? 「何故って。酒や煙草で体は臭いし下品で。中絶だって2、3回はしてるのよ?  誰がそんな人を好きになれるというのよ・・!!!」 溜めていたものを吐き出した様だった。 不意に少女が座っている其処から手招きをする。 もう恐怖感は無くて、されるままに従った。 ―――1つ、足りなくは無いか? 歩み寄る最中に少女に問われる。 応えないままでいたが。 ―――あと一つ在るだろう? 大分近くに寄ったところで顔に触れられる。 何時の間にか零れていた涙を優しく拾う。 ―――この涙の意味が在るだろう? 「――――・・・無い!」 ―――嘘を吐くな。それとも言ってやろうか? 「言ってみなさいよ。絶対に当らないわよ」 強気に言うちこりを見てクスクス笑う。 ―――傍に居てくれなかった・・・・だろう? 顔に触れている手を強く払い除けた。 凝視する様に睨みつける。 それは動物で言う威嚇というやつなのか。 ―――それ以上言うなと・・・? 「違うっ!出鱈目な事を言わないでよ。どうして私があいつの近くに居たがるのよ!!」 震える身体。 怒りか悔やみか自身には理解できずにいた。 今すぐこの場から立ち去りたいと強く思うのに身体がいうことを利かない。 ―――大嫌いな母が失命したのに喜びという感情は沸かないのか? 少女の言葉一つ一つが突き刺さる。 全てが悲しく痛い。 「ねぇ、もう嫌。胸が凄く痛いの。貴方が話す度に痛みが増してくるの」 ―――ちゃんと、自分で認める事が出来れば痛みなど感じない 「どうしたら良いか全然分らなくて・・・苦しいの」 涙はもう止まらなくて、零れ落ちていく涙を手で拭う気力も無くて。 17歳になってこんな子供みたいにボロボロ泣くことなんて無かった。 ―――17歳というのがお前を縛りつけているんだな。 そう呟くと少女はちこりの眉間に指を触れさせた。 その瞬間辺りが真っ白になって、眩しいような錯覚を持たせ反射的に瞼を固く閉じた。 風で擦れ合う草の音が耳についた。 瞼を開けると其処は今まで居た場所ではなかった。 一面に広がる野原。辺りには何もなかった。 「ここ、どこだろう。」 顔に触れてみるともう涙は流れていなかった。 けれどもその触れた自分の手の小ささに驚いた。 靴も一目見ただけでわかる幼児用の靴。 呆気にとられていると少し遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。 「ちーちゃん、駄目じゃないの。一人でこんな所まで来ちゃ。もう五歳のお姉ちゃんなんだからね」 五歳―――― その頃の母さんの髪は今よりも長くて、大好きだった頃の母さん。 穏やかに叱りつけられた。 「ほーら。一緒に帰ろう?」 差し伸べられた母さんの手。 小さな私の手を優しく包みこむ温かい手。 母さんの香りが鼻につく。 香水も化粧もしていなくて、洗濯していた時の匂いとか、食事を作っていた時の匂いとか、 母としての優しい匂いを感じて、そして握られた手が暖かくて――――。 手を引かれた状態のまま俯いていた。 軽く引っ張ってもその場所から動こうとしない。 「どうしたの。お腹痛いの?何所か怪我でもしたの?」 手を一端離して屈みこむ。 何も言わない私にどうしたらいいのか解からず頭を撫ぜる。 あの日、掴んできた手は今感じている温かさと同じだった。 それが腹立だしくて苦しくて辛くて切なくて、でも温かかった。 大好きだった母さんが汚れていくのが悲しかった。 母さんが触れているのは見ず知らずの中年のオジさんばかりで。 母さんに触れるのは見ず知らずの中年のオジさんばかりで。 憎くて、悔しくて、寂しかった。 「――・・・さん、お母さん、お母さ、ん・・・・・!!」 5歳。泣く事に恥じらいなんて無い頃。 情けないくらいの大粒の涙を流した。 泣きながら呼ぶ私の様子を見て、母さんは優しく抱しめてくれた。 温かくて、優しくて。 涙を止めることなど尚更出来なくなって。 「ごめんなさい、ごめんなさい・・・・!!」 母さんの胸の中で何度も何度も繰り返した。 「お母さん」と「ごめんなさい」を今まで言えなかった分。 「ちーちゃんは悪くないよ。そんなに謝らないで…? 母さんもごめんね。 段々、どうしたらいいのか解からなくなっていっちゃったの。ホント、人って不器用ね。」 謝罪と愛情の意を込めて強く抱しめた。でも苦しくならないように。 好き、という感情の伝え方を何時の間にか忘れていた。 そして、伝えることが恥ずかしいことになって、段々と不器用になっていった。 「お母さん・・・・・大好きだよぉ―――――・・・」 ―――気は、晴れたか? 気が付くと其処は草原ではなくさっきから居た森の中。 私は少女に泣きついていた。   ―――これでもう、大丈夫だろう? 私の頭を撫で、優しく微笑んだ少女の顔はさっきまで見ていた母さんの笑顔と重なるようだった。 まどろみのような、安らぎとも言えるような心地に包まれて意識を手離していた。 次に目を開けた時には、私は灯志兄さんの背中に背負われていた。 「あ、れ? 私・・・」 視界がぼやけていて周りが把握できない。 「どこに行ったのかと思ったらあんな所で居眠りして。まったく。」 「灯志兄さん、もう降ろして。歩けるから」 「いや、もう少し負ぶさっててくれないかな。すっかりプレゼント用意するの忘れちゃってたし」 「プレゼント・・・・・?」 「君の誕生日。確か一昨日だろう?」 誕生日なんて忘れていた。 確かその日は母さんが帰って来て、私は友達の家に泊まりに行ってて・・・――― ―――――・・・・・! もしかして母さんは覚えていたの? そんな筈はない。一生懸命否定しているのに涙が零れてくる。 灯志兄さんに悟られないように懸命に声を殺して。 次の日、火葬場の煙突から昇って行く灰色の煙を見送っていた。 最期に見た母さんは夢で見たままの姿のように綺麗だった。 涙は昨日で出しきったかのように流れてはこなかったのに。 「今更だけど、ロクな親孝行出来なかったな・・・」 まるで雲になっていくような煙を見ていたらそんな事を呟いていた。 「本当なら幸乃さんが言う筈だったんだろうけどさ、」 傍らに居た灯志兄さんがおもむろに口を開いた。 「幸乃」というのは母さんの名前だ。 僕の口から言っても幸乃さんは許してくれるよね、と煙に向かって了解を得るように呟いた。 「君が散々嫌っていた君の名前なんだけどね、花の名前をそのままとった名前なんだ。 チコリーっていう小さな花で。幸乃さんったら『花言葉が気に入った』ってそのまま君に付けたんだよ」 クスクスと思い出し笑いながら話してくれた。 母さんらしいといえばそうなのだが、少し恥ずかしい。 「花言葉はね。『私のために生きてください』ちゃんとここに居るだけでちいちゃんは充分に孝行娘だよ。」 そう言って優しく微笑みながら頭を撫でてくれた。 枯れた筈の涙がまた、溢れて来た。 ――――数年後――・… あれから、何度も森へ足を運んでいるが一向にあの白い樹には辿りつけなかった。 そして今回もらしい。 長い距離を歩き過ぎて身体がより多くの酸素を欲している。 そこら辺にあった木に身体を預けて呼吸を整える。 「ここからでも、聞こえるかな。」 「私ね、灯志兄さんと結婚するんだ。」 ―――幸せか? そう、聞こえた気がした。 「とても、幸せよ。母さんみたいな母親には絶対ならないわ」 そう伝えると踵を返して元来た道を戻っていった。 しばらくすると灯志の姿が見えて来た。 「勝手に何処行ってたの」 「ごめんなさい灯志兄さん。心配させちゃった?」 「…まだ『兄さん』?」 「あっ、えっと。じゃあ。ぁ、アナタ?」 「ブッ、はははははっ」 「や、そんなに笑わないでよー。」 ―――まだ、お前は知らないのだろうな。その胎に一つの命が宿っていることを。 そしてその魂は、お前の母だった者のだという事を。 いや、後者はお前達には解らないのだものだったな。

あとがき

かなーり長いですね。

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