灰の人
「ねえ。暫く会わなかったけど、何処に行ってたの、カズ君」
くるっと振り返って美咲はそう言った。
しなやかな黒髪が流れた影から彼女のやや童顔な顔が現れた。
「いや……何処にも行ってないよ。気のせいさ。昨日だって会っただろ」
「ふ〜ん、そうだったかな」
唇に指を当てていかにも考えているようなポーズを取る。あれは彼女の癖だ。以前からずっとある、彼女の癖だ。モデルのような人がやると無闇に妖艶なだけだが、彼女がやると本当に可愛らしく映る。
そしてそのあとほぼ百パーセント、彼女は悪戯っ子のように笑うのだ。
「うふふー。そういうことにしといてあげる。それじゃ、久しぶりに会ったのか昨日に続いてまた会ったのか分かんないけど、今日はどうする?」
予想通り。俺は目を細めてその様子を眺める。
「ん、……どうしようか」
ああ、何も変わらない。いつもの美咲とそれに上手く返答できない俺だ。知っている人には「まったく凸凹だなぁ」と言われる、付き合っている二人の姿だ。
「あんまり思いつかないなぁ」
「そう?それじゃゆっくり考えようか。のんびり考えたいから、……公園にでも行こうか」
「いいな、それ。晴れてるから外でピクニックが出来るな。……サンドイッチでも作っていくか」
「わぁ、カズ君、作ってくれるの?」
美咲は手を叩いて喜んでいる。俺が何か作って振る舞うことは滅多にないからだ。だが、今日は是非やっておきたかった。
「え……ああ、今回は俺が作るよ。いったん家に帰ることになるけど……」
「うんうん。いいよ、それで」
「そうか。それじゃ行こう。今日はもう残り少ない」
そうだ。もうあまり時間はない。いや、始まったばかりではあるのだが、元々刹那的に許された時間だ。それは有効に使いたい。
「何言ってるのよ。始まったばっかりじゃない。これからが丁度『でーと』にいい時間でしょ?」
美咲の言うとおりだ。日は昇り、昼時にさしかかろうとしている。昼食を食べて、それから――――
「よし。そうと決まればすぐ帰ろう。善は急げ、だ」
余り時間はない。二人の時間は砂時計のように流れていく。もう俺にはそれを止めることは出来ない。法に触れる事をやってしまっているが、それ自体は瑣末なこと。どうせ追われることもないのだ。気にすることはない。
問題は、もう今日しかないということだ。
暗くなりそうな顔に無理矢理笑顔を張り付ける。そうしないと美咲が可哀想だ。せっかくの今日を、意気消沈した彼氏と過ごさせるのはあまりに不憫だ。
彼女は、灰で出来ているのだから。
灰の人
「でね、結局私はそれってそう悪い事じゃないと思うのよ」
俺の作ったハムサンドを頬張りながら美咲はそう意見を述べた。
近所の公園はとても整備が行き届いていて、塵も落ちてない綺麗な芝生に座ることが出来る。そして所々に植えられた桜の木の下で木陰からの光景を楽しむことが出来る。春には花見の名所として町中から人が集まってくるのだ。
今はまだ花見をするには時期が早い。蕾こそ付いているものの、本格的な開花はまだ先の話だ。残念だが、蕾で我慢するしかない。
「ふうん。なんでそう思うんだ」
俺も卵サンドを口に入れてそう問い返した。
俺達はサンドイッチを用意して、この公園でピクニックをしている。全て俺の手作りだ。
特に料理が得意なわけではないが、サンドイッチは良く作る。一度暇つぶしに作ってみた物を美咲と一緒に味見したのだが、その時美咲がいたく気に入ったらしくてそれ以後度々ねだられるようになった。実際に一緒に食べることは少ないのだが、クオリティを落とすまいと密かに研究していた。それがまた美咲の壺にはまるらしく、ことあるごとにサンドイッチを要求してきた。……今回は俺の提案だが。
「だって、まだやり残したことがある人に時間を与えるわけでしょ。これって全然悪い事じゃないと思うんだけど」
「そりゃ、美咲が考えるように世の中がいい人ばっかりならそれもいいけどさ。そうはいかないだろ。考えてみろよ。もしそれを利用して、最後っ屁として犯罪を犯しまくる奴だったらどうするんだよ。レイプ犯や快楽殺人者だったりしたら、最後に好きなだけ好きなことをして『はいさよなら』ってことになるぞ」
「……カズ君、ブーだよ、それ。デートの時にする話じゃないよ」
美咲は膨れて俺をたしなめた。
「ごめん。今の例えは悪かったな。でもなぁ……呪術だろ。当ててる漢字からしても『呪い』なんだぜ?やっぱり、あまり真っ当なもんじゃないだろうよ。だから、むやみやたらと使えるものじゃないし、こういう規制法も出来るんだよ」
「でも、カズ君はそれが使える『特指術師』じゃない」
「それはそうだけど……」
別に、好きで使えるようになったわけじゃない。生まれつき使えただけだ。一部の人には便利なものだと思われがちだが、むしろ今の世の中では厄介者扱いされるのが常だ。
実際にはそう何でも出来る訳じゃないし、特に俺の場合は自分の意志で発動することもできない。
しかしやはり人間以外の力を持っているということは事実で、それを気味悪がる人々は大勢いる。こんな俺と付き合っている美咲は希有な例だ。普通は呪術師同士で付き合い、済し崩し的に結婚する。それは基本的に自分が呪術師であることを隠して生活するため、他の呪術師に巡り会うということはなかなかないからだ。結婚も自由に出来ない。それぐらい環境は悪かった。
しかしその中でも『特別指定政府公認呪術師』だけは待遇が違う。力は持っているけどそれを行使できない呪術師である場合、危険ではないとしてこの指定を受け、政府から保護観察を受けられる。俺の場合はこのパターンだ。あるいは、死亡したり、その力を用いて悪事を働いたりすると、その死体が問答無用で研究に回されることを容認した存在のことだ。この場合もある程度の援助を受けることが出来る。
俺も今まで呪術師であることを隠して生きてきたが、ひょんな事で美咲にその現場を見られてしまった。それが出会いだった。
後日、同じ大学に通っていることが分かり、俺は美咲に他言しないよう頼み込んだ。その時初めて彼女の癖を見たのだ。
そして、惚れてしまった。
純然たる一目惚れだ。最初に見たときも「可愛いなぁ」とは思っていたが、その仕草がトリガーを引いた。
それ以来、それまでの自分からすると異常だと思えるほどの積極性でアタックし、晴れて美咲と付き合うところまで漕ぎ着けた。俺をただの引きこもりだと思っていた周囲の人間には驚かれたものだ。
「畜生っ。あんな可愛い子をあいつが仕留めるなんて、呪術でも使ったに違いないっ!」
と言う奴もいた。そいつは実際には俺が呪術師であることを知らない。比喩表現としての言葉だった。
「今の法案ってさ、結局何でもかんでも規制すれば、どこかに引っかかるだろうっていう物なんだ。普通の人には呪術で出来ることと出来ないことの区別なんてつかないだろ。だから、『こんな事をされると困るなぁ』という事柄に対してかたっぱしから規制をかけたんだよ」
「そうなの?そんなに悪意のある物なの、あの法案って」
「例えばさ。人の心理を読めるとか、過去にしたことが分かる呪術師がいるとするだろ。そうすると政府要人の中には後ろ暗いことをした人もきっといるんだろうな。だから『人の心を読んではならない』とか『過去の詮索を行ってはならない』なんていう項目が出来るんだろうね。まぁ、これらに関しては呪術でなくても忌避するべきだけど」
今何の話をしているかというと、その呪術の悪用を取り締まる法案についてだ。かなり前からあった物だが、この度大幅に加筆修正が成されたのだ。俺にとっては意図的に破れる物でないからそれほど窮屈ではないが、嫌な感じはした。
「そっか。そうだよね。生き返らせることが出来る人がいて、本当にそんなことをやっていたら戸籍謄本とか処理が大変だもんね。現実にそんな人がいるかどうかはともかくとして、取り敢えず規制しておく、と」
「そういうこと。いわば闇雲な牽制だな」
「う〜ん。でも、カズ君。思いっきりストライクだよね」
「う……」
ついに言われてしまった。
そうなのだ。『何かを生き返らせる』ということに関して、俺はど真ん中を突かれている。
ある時、車に撥ねられた子犬を見た。内臓がぐちゃぐちゃにはみ出て即死なのは一目で分かった。
……でも、それは俺のせいだった。
あれは雨の降る日だった。傘を差して歩いているところで、その子犬と出会った。小さくて、冷たい雨に打たれ、寒さに震えていた。俺は何とはなしにそいつを傘の下に入れてやろうと思い、手を差しのべた。
だがその差しのべ方が悪かったのか、子犬は唐突に逃げ出してしまった。
――――そして撥ねられた。
子供の飛び出しと同じだ。車の運転手にはどうあっても回避できなかっただろう。ぐちゃり、という音とともに子犬だった肉は道路に落ちた。車はそのまま速度を上げて走り去っていった。俺は目の前で起きた突然の出来事に為す術もなく立ち尽くしていた。
暫くして我に返り、子犬に駆け寄ったがもう遅い。とっくに生命活動を停止していた。
無言で俺は抱き上げた。服が血まみれになるのも構わず、子犬だった物を抱えて肩を振るわせていた。
その道路には他に人気はなく、生きている者と言えば、俺と周りのほんの僅かな植物だけだった。それは雑草であったり、道路脇に並べられたプランターであったりした。ほんの少し前まで命を謳歌していたこの子犬はその世界から脱落したのだ。
その時俺は願った。子犬に生きて欲しいと。それがどんなに烏滸がましいことか分かっていても、そう願った。自分の罪から解放されたかったのだ。
さぁっと、黄金の光が子犬を包んだ。
こんな現象は初めてだった。今まで何度か呪術が発動したことはあるが、こんなに派手で綺麗な現象は初めてだった。俺が目を丸くしてその様子を見ていると、その光はどこからか流れてきているようだった。光の帯を辿っていくと、先程の植物に行き当たった。そして俺は更に驚愕した。
植物が枯れていっている。そして、ボロリと崩れた。
それで俺は瞬時に悟ってしまった。
――――俺は今、植物から奪った命をこの子犬に与えている――――
それは確信だった。理屈も何もない、本能的に悟った事実だった。
そして結局は、子犬の命は一時間と持たないだろう事も分かっていた。
自身の呪術を自在に扱う者には笑われるだろうが、俺の呪術は結果としてしか分からない。いつの間にか起こって、いつの間にか終わってしまう。そんなモノだ。
傷が治るだとか、植物が元気になるだとか、俺の呪術の結果は「生命」と関わることが多かった。しかし、「生命そのものの授受」を完成させるのは予想外だった。そして、恐ろしかった。もう一度これが発動したとき、奪う対象が人であったとしたら――――。雨の冷たさではなく、背筋は怖気だっていた。
光の乱舞が終息したとき、俺の腕の中には藻掻いている子犬の姿があった。
「ははっ……。ほら、行けよ。今度は轢かれるなよ」
ずぶ濡れになりながら、俺は子犬を道路に放してやった。子犬の元に駆けつけたときから傘は放り出しているのだから当然だ。身体は冷え、震えが来ていた。だが、子犬の行方を見守った。そうしないといけないと思ったからだ。
唐突に、子犬は振り向いて、
「きゃん」
と鳴いた。
それだけで俺が笑顔を見せるには十分だった。その黒い瞳に俺の顔を正面から映すと、その子犬は駆け去っていった。
苦笑しつつ傘を取りに戻ろうとした。
――――そこで彼女を見つけた。
いや、『見られた』というのが本当の感想だ。
絶対に見られてはならない、自分が呪術師である証拠を見られてしまった。
光を生む人間などいるはずない。肉塊となった子犬を再生させる人間などいるはずない。周りの植物を触れもせずに枯れさせる人間などいるはずない。
いるとすれば、得体の知れない呪術師だけ。
「あ……待って!違うんだ!これは……」
我知らず、そう叫んでいた。瞬間的なものだったのでその理由は未だにはっきりしない。きっと条件反射に近いものだったのだろうとは思う。自分の正体がばれてはマズイ、とそれまでの経験から口をついて出た言葉なのだろう。
「……!」
だが彼女は走り去ってしまった。それはそうだ。目の前で理解の範疇にない出来事が起こったのだから。死んだ子犬が生き返る筈など無いのだ。
ある意味当然の反応だった。それでもう決定的に噂が広まってしまうだろうと確信してしまった。ただ、それまで自分が彼女を見たことがないというのが唯一の救いだった。それはつまりきっと先方でも同じ事で、お互いそう近隣には住んでいないだろうと考えられたからだ。それなら今すぐに住所を変えることもないかも知れない。噂が広がるまで一日二日は時間があるはずだった。ここはもう五年住んでいる住み慣れた場所だったから、すぐには離れ難かったのだ。
「――――はぁ」
子犬を助けた喜びも何処へやら。あとには意気消沈して風邪をひきかけた自分しかいなかった。
それが初めて彼女を目にした日――――随分前、二年前の冬の話だ。
それから結局俺は移住していない。風邪が思いの外重くて二日寝込んでしまったのだが、その間に移住の決意は薄らいでしまっていた。単に優柔不断なだけではなく、ここへの愛着が強かったせいもあるだろうとは思うが、我ながら甘いものだ。三日目、俺はのこのこ大学へ顔を出した。
あるいは何も変わっていない、いつもの日常があることを期待して出ていったのかも知れない。
そして、その期待は見事に叶った。
大学は何も変わっていなかった。顔見知り達の反応も同じ。親しくない人間の胡散臭そうな視線も同じ。だがそれが嬉しくて、その日はいつになく人に話しかけたような記憶がある。それが周囲では波紋を呼んだらしいのだが、その当時の俺は浮かれていてそれに気付くどころではなかった。
だって、もうないと思っていた日常が目の前に広がっていたのだ。普段気付かない分、その安心感もひとしおだった。
終始上の空だったその日の授業も無事終わり、あとはいよいよ帰るだけとなったとき、
「あの……ちょっと、いいですか」
と袖を引かれた。
「くくくっ……」
「どうしたのよ。パンが喉に詰まったの?」
「違うよ。最初に話したときのことを思い出してね」
思い返すだけで笑いがこみ上げてくる。
――――あれは本当に傑作だった。あの時後ろから袖を引いていたのは他ならぬ目撃者であり、今隣にいる美咲だった。
彼女が何だか酷くばつが悪そうな態度だったのにも、間近に目にして彼女が思ったより童顔で可愛かったことにも、そして意気揚々としていたところに降りかかった突然の驚異の襲来にも驚いて俺は、
「ぬわっ!」
無様にこけた。
それは本当に唐突な出来事だったらしく、いきなり目の前でひっくり返られた美咲はオロオロしていたし、周りにいる学生達も俺の失態に笑うどころではなかったようだ。何しろ、地面に打ち付けた後頭部からだくだくと血を流していたのだから。
「く、あ……」
脳天へ突き抜ける激痛に呻きながら羞恥心に俺は震えた。それが周りの人間ではなく、彼女に見られた事に対する恥ずかしさであるということがまた驚きだった。
そして、顔をしかめて身体を起こす俺に対し彼女は、
「あの、……大丈夫ですか。地面が凍ってるみたいですから、滑らないように気を付けて下さいね」
と言ったのだ。
「最初に話した時って、カズ君がどかーんって転んじゃったときのことだよね」
「そう。あの時のことだよ。まさか相手の方が俺に話しかけてくるとは思わなくてさ」
恥ずかしいので「一目惚れしちゃって」とは言えない。これまでも言わずにいた。
「だって……カズ君、そんな人じゃなさそうだったもの。あの時逃げちゃったのは、私、枯れて崩れる植物の方を見てたからなんだ。それで『ああ、私もあんな風に枯らされちゃうんだ』って思ったの。そしたら怖くなって、逃げ出しちゃった。カズ君が待ってって言ってるのも聞こえてたのに」
「そっか……。でもまぁ普通の反応だよな。別に俺は何とも思ってないよ」
「ありがとう。でもね、あとでよく考えてみたらあんなに優しそうに子犬を見送る人が本当にそんな酷いことをするのかなって思ったの。……して欲しくなかったし。それで、頑張って勇気を出して話をしようと思ったんだ。けど、暫くカズ君、学校に来なくてさ」
「ああ、風邪で二日休んだ」
「もう町を出ちゃったのかも知れないって不安になった。もう、このまま会えないんじゃないか、謝れないんじゃないかって」
「そうだな。あのあと無理矢理看護室に連れて行かれて、それから大学から引っぱり出されてカフェに入って、いきなり額をテーブルにぶつけるほど激しく、正面切って謝られたのには面食らったよ。本当は俺が連れていって口止めをするつもりだったのに。『はい、分かりました』でOKでたもんな」
怪我の治療を行った後、美咲にカフェへと連れて行かれた。そして謝られたのだ。あまりの勢いに当初の目的も忘れそうなところだった。
結局美咲は口外しないことを二つ返事で了承してくれた。そしてその後落ち着いたところで俺がコーヒーをおごると切り出すと、諸手を振って「い、いいです。私の分は私で払いますから!」と拒否された。だが負い目はこちらにあったので強くそれを要望すると、初めて彼女は唇に指をあてて思案する仕草をし、諦めたように笑ったのだ。
――――その瞬間、俺は彼女に落とされたのだ。
「うん。元々誰にも話さないつもりだったし」
「でも、そうすると美咲は以前から俺のこと知っていたことになるんだよな。『学校で会えるかも知れない』と考えるには俺があの大学に通ってることを知ってないといけないからな」
……ああ、また言ってしまった。きっと俺は今、かなりにやけた顔をしているのだろう。これはもう何度もした話だ。それでもこの先の美咲の台詞を聞くのが好きだった。それを聞く度にとても嬉しくなれるからだ。
それ以上に、それを言うときの彼女の様子が面白い。……だけどきっと、これが見納めになるだろう。
「だ、だって、前から知ってたんだもん。カズ君が同じ学校に通ってるっていうのは」
もじもじと顔を赤らめて、しかしはっきりと言いきる。それが堪らなく胸に響くのだ。
「知ってるか。それって『チェックを入れる』って言うんだぜ」
「そ、そんなのじゃないの!私は、その、ずっと前から……す、す、」
「よし。サンドイッチも食べ終わったな。次、何処か行ってみるか」
指をせわしなく絡めたり解いたりして口ごもる美咲をほっといて俺は立ち上がって伸びをした。
「もう!だったらカズ君は私が学校にいたこと知ってたのっ?」
「当たり前だろ?だから、恥も外聞もかなぐり捨てて美咲にアタックしたんだからな」
それは嘘だ。この点に関してだけ、俺は一貫して美咲に嘘をついている。俺は美咲が同じ大学にいることなど知らなかった。だから説得することも叶わないと思って項垂れていたのだ。
だが怪我の功名。この嘘をつくと、
「あ……うん。それなら、よし……」
とまた意外な美咲の一面が見られることも発見した。だから後悔などしていない。ほんの少しは後ろめたくもあるけれど、美咲を繋ぎ止められるならいつまででも嘘を突き通すつもりでいる。最後まで、だ。
「――――でも、私にアタックするのは恥だったの?」
「――――――――ぁ」
少し、後悔した。
「さて。町に出たのは良いけど何処に行こうか。……あんまり、カラオケだとかそういう気分じゃないなぁ」
昼食を終えて俺達は町に出てきた。すぐに何をしたいか二人とも提案できなかったので、それなら取り敢えず町に行ってみよう、ということになったのだ。
町は、怖い。正直なところ、俺にとって人の多いところは鬼門だ。学校の人の多さに慣れるのにどれだけかかったことか。こんな人の溢れる町に立つなど、一昔前には考えられなかった偉業だ。
いつ何時、力が発動するか分からないからだ。恐らくは自分が強く望まない限りは発動しないのだろうが、元々制御できない力だ。こんな人の目のある中で呪術を発動すれば袋叩きにあって死ぬかも知れない。美咲は「私がさせない。だから、一緒についていくの」と心強い言葉をくれた。
しかし、万が一そんな事態が起こった場合、俺は一も二もなく彼女を突き放さなければならない。なかなか我の強い彼女のことだから、そうしないと本当に身を挺して俺を守ろうとするだろう。そうなれば、俺と一緒に彼女が撲殺されてしまう。
その前に、俺と彼女が親しくしているところを突かれたら自分だけ逃げてもどうしようもない。その時は、自分が悪者になって、美咲の潔白を主張するつもりだ。最悪、美咲に暴力を振るってでも、だ。
これ程苦手な町だから、当然俺から好んで出ていこうとはしない。最近だって、美咲に連れ出されてばかりだ。今日もそうだ。
「むふー。お姉さんに任せなさい!今日はちょっと家庭的にいって、新気分を味わうのだ」
彼女はそう言って顔を綻ばせた。
そうだ。だから昨日、美咲のマンションへ足を運んだのだ。
ついに昨日、俺達は同棲生活を始めようとしていたのだ。学校の誰にも言ってなく(言うようなことでもないが)て、付き合っていることを知っている奴らにも秘密だ。
明らかに俺の部屋よりも美咲のマンションの方が部屋が広かったので、美咲のマンションに俺が移ることになった。そして色々と二人の持ち物を比べたりしていたのだ。
「まずは家具だね。やっぱり二人とも一人分の大きさのしか持ってなかったから、もう一段階大きいのがいるよね」
「うん。俺のを持ち込むとやっぱり場所がないしな……。新しく揃えるべきだな。テーブルとか」
「そうそう。テーブルとか。……ちゃぶ台にするとカズ君がひっくり返すといけないもんね」
「おいおい、俺はそんなことしないぞ」
そんな冗談を交わしながら町並みを歩く。
これにしても大した進歩だ。二年前はがちがちになってしまい、まさしく挙動不審人物として見られていただろう。人々の視線に萎縮していたのだ。
自分一人で町を歩いているのなら、それほどの注視は集めなかっただろう。隣に美咲がいる、カップルとして歩いていたから好奇の視線を集めていたのだ。そして、それに俺が過分に反応する。俺がぎくしゃくとし始めるとその緊張をほぐそうとするのか、美咲がやや大きい声で冗談を言ったり笑い声を上げたりする。そうすると奇妙な男と女のペアにさらに視線が集まる――――そんな悪循環を起こしていた。
一時は真剣に思い悩んだものだ。このままではまともに外も歩けない。デートにも連れていけない。このまま彼女に呆れられてしまうのではないのか。彼女に飽きられてしまうのではないか。……そんな不安に襲われた。
しかし、そこから最終的に脱却させてくれたのは自分の決断ではなく、美咲の鼓舞だった。
「私が横にいるんだから。ね?怖くなったら、私を見てくれればいいの」
そう言って首を傾げながら俺の手を取ったのだ。その瞬間、俺の中の外界への防壁が融けたような気がした。そして事実、その日から俺は人に怯えなくなった。
「――――あっ……と、済みません」
ぼーっとしていたせいで肩をぶつけてしまったスーツ姿の男性に謝る。これだって、あの当時には出来なかった芸当だ。例によって俺は小さくなってしまい、代わりに彼女が謝ったりもした。
「……うん。変わったよね、カズ君」
「何が?」
「外に出てもおどおどしなくなったよ」
「そうだな、俺もそう思う。やっぱり俺、人に怯えてたんだな。……って、同じ事考えてたのか、美咲。俺も丁度今、昔の俺と比べていた所だよ」
「そうなの?うふふ……」
何やら含み笑いをしながら家具屋を探してきょろきょろしている美咲の手を取った。
ん?と振り返った彼女に、俺は少しだけ笑みを見せた。すると、彼女も笑った。
そこからはしっかりと手を繋いでいた。まだ幾分寒いこの季節、彼女のぬくもりが時間のことを忘れさせ、そしてそれ故に意識させられる。何をぼんやりしていたんだ、俺は。もう今しかないのに、ここまで一キロもの間、手を繋ぐ機会を無駄にしたなんて。
「あ、あそこにあるの、家具店じゃないか?」
「ん〜?あ、ホントだ。……アレ?私に任せてって言ったのに。先に見つけちゃ駄目。それにあそこ、噂に名高い高級家具店、デュ・ムレだよ?」
先に見つけられたのが悔しいのか、美咲はむすーっとしてそんな注釈を付けてきた。だがお生憎様。そんなことは先刻承知だ。デートの基本、行き先の下調べはもうしてある。デュ・ムレもその項目の中にあったのだ。だから彼女より先に見つけることもごく自然なことだった。
「知ってる。海外の輸入品が多いとか、有名なデザイナーの作品が並んでるとか、そんな噂だろ。それ、本当だぜ。店に入るといきなり六桁の椅子が迎えてくれるらしい……聞いた話だけど」
「誰に聞いたの?そんなこと。あんなお店に行くような人、そうそういないでしょ?」
「う……いや、近所の奥様方の話」
「そう?」
危ない危ない。下調べをしてきたことが分かったら余計にむくれてしまう。
「でも折角見つけたんだから、取り敢えず入ってみようか。見るだけでもいいんじゃない?」
「ああ、いいよ。形式上は冷やかし、だけどな。でも、やっぱり値段に見合った良い物があるだろうから、今後の選定の参考にはなるかも知れないな」
そう口にするが、本当のところは記念に一つ買うつもりでいる。だから財布に前もって自宅から持ってきたクレジットカードも忍ばせているのだ。今更惜しんでもしょうがないし。……過去最大の大盤振る舞いと行こう。
店内は独特の雰囲気を醸し出していた。いや、これを独特と感じるところが庶民なのかも知れない。
「……うっわぁ〜」
隣でやや呆れたような声を漏らす美咲。彼女の視線の先には七桁のソファーが鎮座している。黒革張りの、社長室の応接間に置いてありそうな奴だ。正直、居間に置くには威厳がありすぎる。
「何だ、そんなのが好みなのか」
「え、ちっ違うよ」
「ほほぅ?何やら物欲しそうに見つめておられたが、そうではないのかね、お姫様」
「違うってば!……もう、今日はちょっと変だよ?冗談が過ぎるよ」
「そうか……?」
ああ、そうかも知れない。ある程度は意識的にしている部分もある。
「ふむ。じゃあお詫びにそれ、買うか?」
「ええっ!?ちょ、ちょっと、そんなお金……あ」
俺が財布からクレジットカードを引っぱり出すと、それを見た美咲は目を丸くしてしまった。
彼女もこのカードのことは知っている。門外不出の「貯めるだけカード」なのだ。
いくら俺が『特指術師』に指定されていてカードも使える立場に(普通、カードの契約などできない)あるとは言っても、いつ今の暮らしが崩れるかは分からない。万が一そうなったときのための、しばしの生活資金及び軍資金として貯めてきた口座がある。それはこつこつと貯めてきて、現在百万は優に越えている。
このクレジットカードはその口座専用のもので、今まで一度も使ったことがない。それで通称「貯めるだけカード」と呼ばれている。
ちなみに名付けたのは美咲だ。
「むふふ。ついにこれを使うときが来たんだよ」
「だって、それは」
「いいんだよ。新しい生活の軍資金、という意味ではここで使うのも正しいだろ?」
戸惑う美咲を宥めるように説得する。俺だって、このお金を好き好んで座り心地より見た目に重心を置いたようなソファーのために使うつもりなど毛頭ない。出来ることなら、いつまでも使わずにいたかった。
でも、今はもうそんな場合じゃない。今使わずに、いつ使うのか。今日が終われば宝の持ち腐れだ。――――なら、少しでも満足のいくように使ってしまえ。
「でも、カズ君の……」
美咲はやや咎めるような口調だ。彼女は俺の心配をしている。俺の未来のことを心配してくれている。その気持ちは本当に嬉しい。
「なに、ここで一度バーンと派手に使っておかないと、どこまで貯めても使えないままになりそうだと思って。ちょっと口座の息抜きみたいなものさ」
「……でも私、あのソファーは欲しくない」
「何で」
「二人で座れないもの」
成る程、そうだ。あれは一人用のソファーだ。えらくでかいから二人でも座れないことはなさそうだが、それを高級家具に行うのは忍びない。
「そうだな。やっぱり、二人で使える――――丸テーブルとかがよさそうだな……こんな奴」
そう言って背後にあったテーブルを叩いた。天板がどっしりとした、見るからに頑丈そうなテーブルだ。巨木からそのままくり抜いたようで、年輪がはっきりと浮き出ていた。ぱっと見ただけで数百年分はありそうだ。しかし、あまり正確な円形ではない。そこにこそ味があるのだろうけれど。――――「T―Lテーブル」と言うらしい。
「いいけど、それを買ったらやっぱりそれに見合う椅子が欲しくなっちゃうよ?」
それは同感だ。このテーブルの値札は十万円。この店としては安い方で、さほど高級感を主張しないシンプルな作りだ。木目の美しさを目一杯利用している。だからこそ、椅子にも木目調の物が調和しそうだった。今、二人はそんな椅子を所持していない。新調する必要がある。
「あんまり嫌いじゃないんだろ?美咲」
「うん。こういう感じのテーブル、私は好き」
「俺も結構気に入ってるんだ。……よし。じゃあこれは保留にして、他に良い椅子がないか見てみよう。それプラス、椅子四つぐらいを一遍に買っても、さっきのソファー一つよりは安く上がるし」
「椅子四つ?どうして?」
「増えるだろ、人が」
ほんほん、と頷いている美咲だが……どういう意味か本当に分かっているのだろうか?
「そうね。来客があったときのために、それぐらいはないとね」
「……。まぁ、そういう使い方もするな」
彼女はとぼけるのがこれ以上ないほど下手な人間だ。嘘なんて絶対につけない。……ということは、これは彼女の素の意見らしい。
少し、残念。
「あっちが椅子専門のコーナーかな。見てみよう」
そう促して店の更に奥へと入っていく。やけに店員さんがにこにことしているのが気になる。……いや、別に悪意を感じる訳じゃないが、微妙に居心地が悪い。
何と言うか、初々しい新婚さんを見ているような、口出ししたくてうずうずしているような……。興味津々でちょっかいを出したくてしょうがない自分を我慢しているのが、ありありと分かる口元の歪め方をしている。
「……場違いかな」
「え?」
「何でもない。それより、何かめぼしい物、あったか?ここら辺のはごっちゃりしすぎてて、いまいちピンとこない」
装飾が過度で、使いにくそうだ。特に背もたれなんか、体重をかけてもたれると痛そうな物などがある。
「う〜ん……あのね。あっちの奥に何かありそうなの」
「ふむ。何か感じるのか」
「うん。感じるの」
こういうのはどうでもいいような感覚だ。美咲以外の人が同じ台詞を言ったら俺はきっと「何馬鹿なこと言ってんだよ」と一蹴するだろう。が、彼女の言うことだけは何だか特別当たっているような気がする。俺が彼女に入れ込んでいるのがその理由かも知れないが、大抵そうやって彼女が「感じて」見つけだす物は良品であったり掘り出し物であったりした。家の中の失くし物なんかもそうやって探し出すことが多かった。一度俺は、それが無意識の呪術なんじゃないか、と指摘したことがある。『気を付けろ』と。そしたら美咲には「むむ、私は自然知覚が発達しているスーパー少女なのだ」とはぐらかされてしまった。
その時思わず、
「女ターザンか」
と言ってしまいこっぴどく叱られた。
間違えて、
「少女って歳か」
と言ったら一体どうなるのか。想像するだに身震いするほど恐ろしい。
彼女はこの自分の特技を冗談の種にしているようだが、俺はかなり本気で気にしている。あまりにも的中率というか発見率が高いと思うのだ。本人はちっとも気にしていないようだが。
「うん、あそこ。あの、陰に入ってるヤツ」
「……あれか」
彼女の視線の先には有名なMチェアーというのがあった。俗称ミニチュア、全世界にファンが多いらしく、三十年以上前のデザインなのにいまだに生産されているという代物だ。
確か、その値段は――――
「Mチェアーだな。価格は丁度、高級品と一般品の間ぐらいだったかな。人気の割にお求め易くなっておりますぞ、姫」
「あれがそうなの?私も名前だけなら知ってるわ。随分有名な椅子よね」
「ああ、そうだ」
「でも、どうして値段を知ってるの?」
「ん、ちょっと前から興味があってさ。ネットで調べたりしてたんだ。残念ながら、その当時は手が出なかったけど」
いくら間の価格帯だとは言ってもそれは一般価格ではない。高いことは変わりなく、気軽に買える値段ではなかった。
「えっと、一つ八万……だったと思う」
「うわぁ、それは高いんじゃないの?」
話題のMチェアーに近づきながらそんな言葉を交わす。
いずれにしても値札を見れば一目瞭然だ。それで買うかどうか決めればいい。
「む……」
値段開示。
「……七万六千、か……」
「……高い?」
美咲が見上げてくる。こちらの様子を窺っているようだが、どこかねだるような響きがあった。何だかんだで気に入ったらしい。いや、彼女の感性で見つけた物だから、気に入って当然ではある。
――――これを買わなければ男が廃るというものだ。
「……買うか!」
「……買うの?」
「買う。きっと今を逃したらもう二度と買えなくなる。これホントに人気があるらしいから、店頭で見つけるだけでも難しいんだ。だから、今買う」
「……やた!」
小さく美咲はガッツポーズをしている。うむ、この選択は間違っていなかったようだ。
「お気に召されましたか」
その時、頃合いを見計らったように店員が寄ってきた。さっき気になった店員だ。
「ああ、……はい。このMチェアーを四つ」
俺のような若造がこれを四つも同時注文するというのがそんなに珍しかったのか、その店員は一瞬顔を強張らせた。
まぁ、それも頷ける。明らかに金なんか持っていなさそうな学生が、椅子に三十万も出すと言っているのだ。驚かれるのも当然だ。
「あ、お買いあげありがとうございます。やはりMチェアーの事は何処かで耳にされていたのですか?」
「ええ。それに、どうせ買うならずっと使える良い物を買っておいた方がいいと思いまして。……人も増えるし」
店員さんは「あらまぁ」という感じで笑みをこぼした。それが嫌らしくなく見えるところがプロなんだろう。
「それはおめでとうございます。ご予定はいつでしょうか」
……ん?どうしてそんなことを聞くのだろう。おめでとうございます、までなら分かるが、予定まで聞くのはプライベートに立ち入り過ぎじゃないだろうか。……あ、そうか。おめでとうメールでも送って印象づけるつもりなんだ。今後ともご贔屓に、ということなんだ。
「いやぁ、それはまだです。これから頑張らないと――」
照れ隠しも交えて頬を掻く。
美咲との子供。それは本当に俺の夢だ。そうなればどんなに幸せだろうか。きっと子煩悩だとか親ばか……いや、バカ親だとか言われるんだろう。
しかし、現時点でそうなる布石は全く成されていない。その最大の原因は、俺が自分の立場を気にして今一歩、踏み込めずにいることだ。
かなり都合の良い解釈も交えて考えてみると、これまで美咲の方からそういう誘いがあったような気もする。昨日だって美咲は快く俺を自宅に泊めたのだ。むしろ引き留めるようにして。はっきり言って、俺はその時「きょ、今日なのか!?ついに、今日が来たのか!!??」なんて一人で悶々としていた。そうして風呂であまりに念入りに身体を綺麗にしていて、出てきてみると美咲は寝てしまっていた。その時の情景で覚えているのは、俺の握ったタオルの床に落ちたぱさりという音と、何だかえらく薄着でベッドにくるまっている美咲の露わになったうなじの白さだけだ。
今思うと、よくその時襲わなかったな、と自分の奥手さに感心する。あれは確実に誘っていた。誘っていたはずだ。きっと誘っていたに決まってる。
……それでも手が出せない俺。結果としてはどうだったのだろう。あのあとのことを考えると勢いあまっていた方が良かったのかも知れない。彼女がそれを望んでいるのだったら、あの時点でそれを叶えておくべきだったのかも知れない。俺だって健全な日本男児だ。据え膳喰わぬは……じゃなくて、美咲とできるのならそれ以上の喜びはない。
――――今更悔やんでもしょうがない。もう絶対に、二人の子供を目にすることはないのだから。
目的が行為それ自体であれば、もう今すぐにでも家に連れて帰って時間の限り彼女を抱いているだろう。
でも俺はそんなことはしない。そんなつもりもない。別にカトリックのように神聖視しているわけじゃないが、それはある種の契約、大切な儀式の意味は持っていると思う。それで――――
「……ではお客様。カウンターにおいで下さい。注文書を作成いたしますので、お名前と住所、ご自宅の電話番号をご記入お願いします」
店員の声で思考が途切れた。
注文書?何のことだ。いつの間にそんな話になっていたんだ?
「あの、済みません。ちょっとぼうっとしていて話を聞いてなくて……」
「私が聞いていたから大丈夫よ。ぼんやりしてちゃ駄目だよ?私が書いてくるから、何かいいテーブルでも見繕ってて」
カウンターに向かって歩き出した店員についていきながら美咲が振り返ってそう言った。
「ん、ああ。頼む」
店員に追いついた美咲に店員が、
「優しそうなご主人ですね。二人ともお若い……」
と言っているのが聞こえた。
…………。「優しそうな」か。「かっこいい」って言えない場合の逃げ口上があれだよな。……ま、そんなものか。あと、まだ俺は彼女の旦那じゃない。
「ええっ!?い、いえその、私達夫婦じゃないです……」
「あら、ごめんなさい。素敵な彼氏ですね」
美咲は力一杯否定していた。
……それは傷つくぞ、美咲。
ぐるっと見回したが最初に見たテーブルより気に入るような物はなかった。大きすぎたり、高すぎたり、兎に角普通のマンションの一室には不釣り合いな代物ばかりだった。
それに、あのテーブルに合うようにと選んだMチェアーだから、やはりあのテーブルを購入するのが良いだろう。
それでも一応店内を見て回ってみたが、結局あのテーブルよりもしっくりきそうな物はなかった。あれの購入を決めた俺は二人の後を追ってカウンターへと向かった。俺の姿を確認した美咲が紙面から顔を上げて、
「どう?決まった?」
と聞いてきた。
「ああ、やっぱりあの木目のテーブルがいいと思う」
「うん、分かった。何かね、あっちのほうで配送してくれるんだって。Mチェアー、今はあの一つしかないらしくて、あと三つを揃えてから一緒に送ってもらえるらしいよ」
それは好都合だ。歩いてきたからまさかないとは思っていたが、もしこのまま持ち帰ることになっていたら大変だ。誤魔化すことができない。しかしこうやって納入待ちになるのならその心配はいらない。お店の人には無駄足を踏ませることになるから悪いけど。
「そうか……。じゃ、あのテーブルの名前も書いといてよ。そうすれば一度に全部揃うだろ」
「名前は?」
「T―Lテーブル」
「てぃー、える……っと。出来た。……これ、いくらになるかな。ちょっと聞くのが怖いね」
「気にするなって。どうせいつかは必要な物になるんだ。あとでちゃんと採算はとれるさ。それに、良い物を買うんだから、後悔はしないと思うぞ」
「そうだね」
出す金は全部、俺持ちだが。最近の美咲はそこの所に頓着しない。最初はコーヒー代でも遠慮していたのだから凄い変わりっぷりだ。
何というか、使うお金は二人の家計から、という感じになっている。今持っている「貯めるだけカード」にしても、実は美咲の振り込んでくれた割合は結構高い。俺一人ではこんなに早くは貯まらない。財布も銀行も共有しつつある。
……そう考えると、一概に全部俺持ちとは言えないな。
「じゃ、これでお願いします」
美咲は店員にその用紙を渡した。宛先は……美咲のマンションになっている。でも、ちゃんと支払人の名前は俺になっている。
「はい、確かに受け取りました。カードでお支払いですね」
「はい。これで」
「少々お待ち下さい」
店員さんはカードリーダーにそれを通した。
「お待たせしました。どうぞお返しします。……では、入荷次第その旨をお伝えしますが、ご連絡の時間帯は何時頃がよろしいでしょうか」
美咲と顔を見合わせた。彼女の瞳は「どうする?」と問い掛けている。
「午後八時から九時ぐらいがいいんじゃないか」
美咲の予定を思い浮かべながらそう提案した。彼女はあまり夜遅くまで外を出歩かない。俺としてはとても安心な習慣だ。
「うん、それでお願いします」
「かしこまりました。お買い上げまことにありがとうございました」
ニッコリ笑う店員にこちらこそ、と返しながら入り口の自動ドアに向かう。
ガァッと扉が開いたところで、
「あら……?この住所って……」
という言葉が背後から聞こえてきた。
戦慄が全身を走る。しかし、敢えて俺はそれを無視して美咲を促して外に出た。更に、足を止めずに行き先も構わず歩き出す。それも、人の多い方に、だ。
「うん……?」
訝しげにしながらも美咲は黙って俺についてきた。素直な美咲に感謝する。……良かった。もし止められでもしたら、あの店員に追いつかれていたかも知れない。
そうなったら終わり。虚像が剥げて真実が明るみに出てしまう。俺は知っているが美咲は知らないらしい真実。都合良く彼女が忘れてしまっているのだと思っていたが、もしそれを揺さぶられたら確実にパニックになる。そうなったとき、俺には彼女を落ち着かせられる自信がない。
……迂闊だった。搬入先に美咲の住所を書けば、今頃はニュースになっているだろうからそのおかしさに気付く人も出てくる。
人波を掻き分ける中、美咲が心配そうな声をかけてきた。
「どうしたの、カズ君?さっきから怖い顔してるよ」
「ん、……すまん。どうしたんだろう。何だか唐突に別の店に行きたくなった」
「何よ、それ。……カズ君、何かヘンよ。あれも使っちゃったし……」
「同棲記念日だからな。浮かれてるんだろ」
「あ……。で、でも、やっぱりなんだかおかしい」
引かれる手を解いて美咲は立ち止まった。こちらも立ち止まらざるを得ない。彼女は身を縮めて何かを考え込んでいるようだ。時々ちらちらとこちらを上目遣いにうかがってくる。……まずい。彼女が矛盾に気付こうとしている。
いい説得の言葉も思いつかないまま我知らず彼女の肩を掴もうとして、
「何だか凄く積極的。強引……とかとは違うけど、いつもとちょっと違う」
もじもじと呟かれた台詞に手を止めた。
……あれ?少し違うか?
「こう、何か企んでる、みたいな……。私を喜ばせておいて、あとで何かしてやるー……みたいな」
段々尻窄みになる言葉とは逆に、その顔はどんどん赤くなっていく。
「…………」
……ああもう、俺まで赤面してきた。よくそんなこと言えたもんだ。
「ばか、何言ってんだ。喜んで欲しいのはいつものこと――――あぅあ、いや、そうじゃなくて」
全く、どういう勘違いをしているんだ、この子は。確かに今日はいつもより喜んで欲しい、笑顔を見せて欲しいとは思っているが、そんな先のことまでは少しも……。……。……少しだけ考えていたかな。
「さっきも言ったとおり、今日を少し特別にしようとしてるだけ。それ以上でも以下でもないよ」
「……そう断定されるのも腹が立つわ」
ぶー、と頬を膨らませる美咲。真っ赤な状態でやっているのでただただ可愛らしい。
「ぶーたれてないで。ほら、次へ行こう。もうあんまり時間ないんだし、ここで立ち止まってるのも通行人の邪魔だし」
苦笑して次を促した。取り敢えずの危機は脱したようだから、気を取り直して楽しんでいくしかない。
まだ美咲はむーむー言っている。が、いつまでもそう拗ねられていては時間が勿体ない。もう夕方になりつつあるのだ。
「何か他に揃えておきたい物、ないか?」
「話を逸らそうなんて、虫のいいこと――」
「じゃあ、どうする。何か提案でも?」
「う……」
今日、彼女にバイトの予定のないことは知っている。他に何かある、と言われればそれまでなのだが……。
「……ない」
よしっ。俺は心の中でガッツポーズをした。
「……じゃあ蛍光灯買う。キッチンのがちらちらしてるから。それから電池の買い置きとDVD―Rの予備とDVテープとそれから……」
今度は途切れなく品名が出てくる。拗ねた子供が叶わなかった自分の願いの代替を求める姿に似ていた。子供っぽい、と言えばそれまでだが、彼女なら許される。少なくとも、俺はそう思う。
「それならヤマノ電機に行くか。俺もアイロン買っときたい」
「アイロンは私のを使えばいいでしょ?」
「じゃあシェーバーの替え刃」
自然と足はヤマノ電機に向かって歩き始めていた。電気店に着くまでの道中、俺達は思いつく限りの品々の名前を言い合った。不思議とそれだけで盛り上がっていたのだ。
つまらないことでも美咲と一緒なら笑える。これが幸福なんだと笑顔の下で思った。
――――だから、その可能性を忘れていた。
「……これはまたすごい人だかりだな……」
「新店舗改装オープン祭、大謝恩セール……だって」
「ん?知っていたんじゃないのか?だからあんなに電機製品を連呼していたんだ、と思ったんだけど」
「そうだったかな。……確かにチラシで見たかも」
ヤマノ電機は人だかりでいっぱいだった。最近はこういう大型量販店が幅を利かせている。街角の電気屋さんへ電池を買いに走ったのが懐かしい。今はそんな小さな個人経営の店にとっては黄昏時だ。容赦なく淘汰されつつある。
愛着があるならそっちに行けよ、と言ってくる奴もいる。でもやっぱり心情と財布は別だ。消費者としては安い方を選んでしまう。
一昔前のようにのぼりが立って……いる代わりに、巨大電光掲示板で「大謝恩セール」と宣伝している。テレビの役割もしているようで、時々思い出したように他のCMや番組が流れてもいた。
そういえば、そろそろもう一段階大きなテレビが欲しいと思っていたな。流石に十四インチでは物足りない。……まぁ、使うことはないからいいか。
「ま、これだけ大きければ全部揃うだろうな。入ろう」
「うん。あ!……ちょっと待って」
「?」
唐突に大きな声をあげて美咲は何やら髪に手を通し始めた。それから服の裾などをいちいち摘んで皺を伸ばし、
「……ぃよし」
なんて言ってぱしっと頬を叩いた。
「……何やってるんだ?」
突然の不可解な行動。流せばそれで済むだろうが気になってしまった。腕まくりをしそうなぐらい、美咲の眼差しに気合いが入っていたからだ。
「ん。気合い入れたの」
「だからなんで」
「さっきちょっと、デュ・ムレで気になったから。店員さんに『恋人ですか』って聞かれて、なんだか恥ずかしくなったの」
「カウンターに行ったときのことか?」
直接自分がその会話を聞いた覚えがないのでそう問い掛けると、美咲はうん、と頷いた。
そんなの恥ずかしくなって当たり前だ。俺だったら肯定の返事すら出来ないかも知れない。と言うより、問題はそこじゃなくて、あの店員さんのあつかましさじゃないだろうか?営業の範囲じゃなくて個人的興味で聞いてるぞ、きっと。
「その恥ずかしくなったのと、今の仕草と何の関係があるんだ?正面切って『恋人ですか?』なんて聞かれたら、そりゃ恥ずかしいだろ」
「違うの!お店に行くでしょ、二人でいるでしょ、そういう風に見られるでしょ、そしたら見られて恥ずかしくないようにしておかないと」
「はぁ?どういう理屈だ、それは」
「も〜、鈍感!にぶちん!甲斐性なし!!」
「……えらい言われ様だな、俺」
「ほんっと、のんびり屋さんなんだから。……案外それのせいかもしれないわね」
そこでまたぼそぼそと小さくなる美咲。怒ったりしぼんだり、忙しいことこの上ない。普段から感情表現は表に露わになっている(本人はそのつもりでないそうだが)彼女だが、今日は特に分かりやすいような気がする。
「……。体裁を気にしているのか?その、コンサートに行く訳じゃないんだぞ。ただの買い物だぞ?そんな大舞台に出る訳じゃなくて、普通の外に出ただけなんだぞ」
「中途半端に分かってないのね。連れだって歩くんだから、見た目っていうのは二人で得る総合評価でしょ。場所の問題じゃないの。気持ちの問題。心構え。ちょっとでも――」
ああ、やっと分かった。二人でいる評価。彼女を主体にすれば、それはエスコートする俺にかかっている。しかし、彼女の言っていることは基本的に『俺を立たせる』ための気遣いだ。
「――――ちょっとでも、いい人といたい。そうすれば確かに自分の株は上がるからな。でもそれは俺の台詞。いっつも必死なんだぞ、美咲に合う人間でいられるかどうか。美咲が言ってるのはそれとは逆の理屈。『自分が如何に相手を立たせるか』っていうことだろう?だけど、今十分それは達成されてるんだがなぁ。それに、率直に言うと周りの評価はどうでもいいんだ。気になるのは美咲が満足しているかどうか。それだけ」
彼女はとても他人思いだ。付き合ってきてそれは身に染みて分かっている。社会的に立場の弱い俺だから、かも知れないが、言葉や行動の端々にその気持ちが覗く。
だから後を取って俺が言った。感謝の言葉として。俺はそれを知っている、と示すために。
美咲は少しぽかん、とした後、
「……んっ」
「ぅあ、う?」
しなだれかかってきた。正確には単に腕を組んできただけなのだが、妙に体重がかかっている。さらにそのまま空いている手の指を唇に持っていってニコニコとしている。
「わわっ。公衆の面前だぞ。気にしてるんじゃなかったのか」
「私も、カズ君の評価が一番」
「……うわぁ」
正直そんな気の抜けた返事しかできなかった。彼女、こんなに積極的だったろうか。今日が特別なだけだろうか。今日は俺がいくらか意図的にアプローチしてもいるからその効果が現れているのかも知れない。
……だ、駄目だ。滅茶苦茶視線が気になる。
腕に取り付いた美咲は何だか「ごろごろ」って言って機嫌良さそうにしているし、無闇に振り解けない。腕に当たる感触も気持ちいいし。
美咲の反応だけが気になる、と言った言葉に嘘はない。俺が一番気にしているのは本当に美咲の事だ。彼女が喜んでくれているなら勢いだけで大概のことはやってしまうと思う。だからいつかのデートでパフェを口に運ばれたときにも大人しく従ったのだ。周りから失笑が漏れて、俺は顔を真っ赤にしながらも全部食べきった。目の前で美咲が幸せそうにしていたからだ。
でも恥ずかしいものは恥ずかしい。どちらかというと対外的にクールに構えたい俺としては羞恥心で死にそうになることもある。
俺が呪術師であるという立場上、人とは関わりを持たない方がいいと感じている。目立つこともしたくない。芸能人ならスキャンダル程度で済むが、俺は排他されるのだ。直接命に関わる。
美咲だけがそのこだわりに穴を開けている。
美咲だけが例外になれる。
そしてその例外はあらゆる大概より大切だ。
結論として、このまま店舗に突入するしかなさそうだった。
恥ずかしいだろうが、きっと後悔はしないだろう。隣で美咲が嬉しそうにしている限り。
ああ、美咲は俺にとってこんなにも特別なんだ――――
改めてそう確認し、天を仰いだ。
――――そして、絶句した。
手足が冷たくなり、悪寒が走る。高揚していた心は一気に凍り付いた。
「止めてくれよ……」
震える唇からそんな言葉が出た。駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。ここにいてはいけない。嘘だ。アレは嘘だ。ここで、このタイミングでアレが映し出されるなんて間違ってる――――
だが俺の網膜に移ったそれは真実だ。少しも間違っちゃいない。むしろ報道されるのは当然だとも言える。
どうして気付かなかった?ここにくればこういうことがあり得ることは十分予測できたはずなのに。デュ・ムレですでにその兆候はあったじゃないか。だから俺は逃げるようにあそこを後にしたんじゃないか……!
いつまでも固まってはいられない。早く情報媒体のないところに行かないと――――
「どうしたの?」
俺の異変を敏感に感じたのか美咲がそう聞いてきた。きっと俺は今泣き出しそうな顔をしているはずだ。
「見るな!!」
「え?何?」
――――早く情報媒体のないところに行かないと、彼女に見られてしまう。
しかし俺の願いとは裏腹に美咲は俺の視線の先を見てしまった。
「えっあそこって……えぇっ!?」
……もう遅い。電光掲示板にははっきりと映し出されていた。
美咲に触れられて浮かれていた心が黒い鎖で縛られていく。憎悪した。無節操なマスコミにも、無能な俺にも愛想が尽きた。
「駄目だっ、見るな美咲!」
腕に取り付いていたのを良いことに、おれは美咲を抱えて脱兎のごとく走り出した。
彼女はその突然の暴挙にも何の反応も示さない。震えている。その瞳には赤い光景が写っているのだろうか。
『……昨夜遅く、市内のマンションで火事がありました。マンションは全焼。助かった住民三名は病院で保護されており、いずれも軽い火傷ということです』
離れていっても大音量のスピーカーからは容赦ない音声が流れてくる。
――――俺は悲鳴を上げたかった。
『……死亡した住民は田辺均さん三十八歳……田辺雫さん三十七歳……』
死んだ人間の名前が次々と挙げられていく。
――――気が狂いそうだ。
『……二宮信士さん二十六歳。なお、……』
耳を塞ぎたいが美咲を抱えていて出来ない。――――俺はすでに泣いていた。苦鳴を漏らし、ままならぬ呼吸の下で全力疾走していた。
『行方の分からない蓮間美咲さん二十二歳について情報をお持ちの方は……』
頭の中は真っ白だった。世の中全てが真っ白だった。
「いや……いやぁ……そんなこと……」
真っ白な世界に美咲の泣き声だけが響く。悲痛に満ちた嗚咽に俺は何を言えばいいのか全く分からなかった。
だが俺の瞳には画像を見ずとも、彼女の見たモノと同じモノ、燃えていく彼女のマンションの光景が焼き付いていた。
――――それは、知っている光景だからだ。
自然と足は自宅へと向かっていた。唯一の拠り所に世界の許しを求めるようにただひたすら走った。
「はぁ……はぁ……くっ」
「…………」
ここまで美咲を抱えて走り詰めだった。心臓は喉から飛び出さんばかりに爆縮している。
涎が口腔に溜まっている。一息に飲み込むがその一瞬の呼吸の停滞だけでも煩わしい。酸素が欲しい。酸素が欲しい。
「くはっ……はぁ」
家まではもういくらもない。気力だけでも何とかたどり着けるだろうか。いや、今はその気力の方が先に折れそうだ。
笑う膝にむち打って無理矢理足を運ぶ。
「ね……降ろして」
ヤマノ電機以降一言も喋らなかった美咲がそうこぼした。
「駄目だ」
降ろすことなど出来ない。降ろせば、その瞬間に美咲を失ってしまいそうだった。身体は余計な負荷をかけるなと抗議している。実際今にも倒れそうだ。
だがこの腕から彼女を話すともう取り返しがつかないような気がする。停滞していた時間は回り始め、もう二度と止まらない。砂時計は元に戻らなくなったのだ。
「お願い……」
「……っ」
心が二分する。バラバラになってしまう。俺はここで彼女を離したくない。だが彼女の要求はそれを妨げる。
「大丈夫だから。歩けるから。……一人でも歩けるから」
しまった、と思った。彼女の言葉は俺にとって呪術そのものだ。好きなだけ甘えられる魔法の言葉だ。その彼女に懇願するように言われては――――
「いや、駄目だ。俺が連れていく」
無理矢理誘惑は振り払った。そしてそれを示すように再び歩みに力を込める。
「あ……」
美咲は口を噤んでしまった。
これでいい。これでもうしばらくは美咲を失わずに済む。
新たに奮い起こした気力で数十メートルを移動する。そこでまた圧倒的に息が切れてきた。
身体がついてこない。疲労に筋肉は弛緩しつつある。腕は伸び、気付けばすでに美咲の足は地面についていた。
「……?」
唐突に、負担が軽くなった。脇を見ると、美咲が自分の足でも歩き始めていた。
無闇に「ヤメロ」と言いそうになった。しかし彼女の横顔がそれを押し止めた。
彼女は何も言わない。黙って俺の負担を減らそうとしている。その姿が心に痛んだ。
美咲の助力を得て何とか自宅まで辿り着いた。すがるようにしてドアノブを手に取り、鍵を外して部屋に入る。壁に身体を預けてそこで初めて美咲を開放した。
「……ありがと」
「……ん……」
彼女の言葉がしんとした部屋に響いた。美咲がどういう心境で「ありがと」と言ったのかはよく分からない。ただ、ひたすら空虚に響いたような気がする。それは疲労で虚ろになった俺の頭のせいだろうか。
リビングの中央まで歩いて彼女は立ち止まった。俺はまだ玄関から動けず、彼女の背中を見つめていた。暗い部屋だ。閉じられたカーテンの隙間から入る外の光以外には電気機器の表示灯ぐらいしか明かりがない。
その中で、彼女の小さな背中だけが存在していた。背筋を伸ばし、しかし頭は垂れて彼女は淡い光の中で妖精のように立ちすくんでいた。
「カズ君……」
静かに、美咲は告げた。
「少しだけ……、外で待っててくれるかな」
「なっ、おい、美咲」
「お願い」
彼女は振り返らない。その表情は伺えない。だが、絞り出すような迫力が俺に抵抗を許さなかった。
俺はその後ろ姿を抱き留めるでもなく、
「……少し、だぞ」
素直に従うしかなかった。
暫く休んだので体力は僅かに回復している。俺は立ち上がり、静かにドアを閉めた。
閉める直前、部屋の中に目をやると髪を振り乱すように頽れる美咲の姿が見えた。
――――瞬間、俺は閉じかけたドアをはねのけてでも駆け寄り抱きしめようと思った。彼女は一人になることを望んだ。気持ちの整理をつけるのだろうか。俺の視線に晒されることが苦痛だったのだろうか。
……分からない。だが、触れれば拒絶されてしまいそうな嗚咽が俺にドアを閉じさせた。
――――結局俺の能力では一日が限界だった。俺自身の命を糧にして二人分の一日をもたらすのが精一杯だったのだ。
どすっとドアに背を打ち付け、そのままずるずると床に座り込んだ。
……冷たい。入り口のある廊下は北側に造られているので日の光が入りにくい。冷たい床が脳まで痺れさせた。
「…………」
彼女には現実がどうなったのか具体的に話していない。
最初の会話で都合良く彼女が事実を忘れていると思っていた。それが、絶対に知られはしないだろうという高慢さに繋がっていた。
あの夜、俺達は炎に包まれた。
死は免れなかった。俺達は確実に死んだのだ。四方八方を業火に取り巻かれ、灰となって消えることは必定だった。半狂乱になる美咲を抱えて俺は自身を呪った。
――――こんな時、どうして俺の呪術が不完全なのか、と。
呪術を使用できることを呪いこそすれ、それを求めたのは後にも先にもその一回きりだ。
美咲を助ける力が欲しい。それが炎に包まれる俺の全ての願いだった。自分の呪縛そのものである呪術に願いを掛けた瞬間だった。
そこで、奇跡が起こった。呪術の発動。俺達はあの子犬と同じく黄金の光に包まれた。炎の熱気の中、それは暖かく俺達を取り巻いた。
そして、光が俺の身体から発散されていたのをむしろ喜ばしく思っていた。俺は自分の命を使って呪術を発動させたのだ。それは俺の意識を持って彼女を包み。意識を失っている美咲の命の構成を始めた。
俺は自身で美咲を助けていた。その満足感は、炎に焼かれながらも笑みを浮かべさせるに十分な充足感だった。
だが黄金の光は止まらない。空間に滞留していたそれは更にもう一つ力を働かせた。
俺自身の再構築。
命のかすが残ったのではなく、文字通りほどけた命からもう一度再構成された。
即ち、俺自身も確実に死んでいるのだ。
こうして俺達二人は同時に死に、灰の中から蘇った。彼女は気絶していたのでその間に俺が衣服などを求めて奔走したのだ。そして美咲が目覚めたのが昼前。それまで俺はずっと彼女の寝顔を眺めていた。
眺めているその瞬間にも再び死んでしまうのではないかと不安だった。
あの時の子犬にはせいぜい保って一時間の命しか与えられなかった。俺一人の命を使っても、二人分を生かそうとするとどれだけ保つのか分からなかった。時間が経つだけで次第に生きる疲労が溜まる身体。そこから俺は今日一日で終わると推測した。
懇々と眠り続ける美咲だったが、不思議と俺は焦燥感には襲われなかった。むしろ、こんな摂理に反するようなことをされてまでただ一日の命を与えられた美咲に申し訳なく思っていた。過ぎゆく時がその罪の意識を俺に湧かせ、後で美咲に咎められるのではないかと心配していた。
だが何よりも、もう一度美咲の声が聞きたかった。笑顔が見たかった。心を、感じたかった。
それは全てに勝る欲求だった。
例えただ一日の生に絶望しようとも。
だから美咲が目覚めたときには問答無用で抱きつきたいほど嬉しかった。あまりに嬉しくて身体が動かなかったのだが。
「……」
腕時計を見る。約二十分経った。
約束の時間程度は過ぎたはずだ。俺は立ち上がっておもむろにドアノブに手を伸ばし、
「……」
躊躇の後、開いた。
部屋の中では壊れた花瓶の前に立って泰然としている美咲の姿があった。彼女の視線の先には、床に広がる水たまりの中に放り出された花が転がっている。
「美咲……」
俺の言葉に彼女は振り向いた。彼女は濡れそぼっていた。シャワーでも浴びたのだろうか。髪先からぽたぽたと雫が落ちていた。
身体にはバスタオルを巻いているが水気は殆ど取れておらず、足下にもう一つの水たまりが出来ていた。
「カズ君。ごめんね。壊しちゃった」
悲しげな笑顔で美咲は謝ってきた。
「……いいよ。壊れるはずだったんだよ、きっと。美咲の責任じゃない」
反射的に否定しなければ、と判断していの責任は俺にある。彼女は一被害者にすぎない。ほんの少しでも彼女が自分を責めるのが耐えられなかった。
しかし美咲は俺の返答にこう答えた。
「『壊れるはずだった』か……。私達も、そうだったのかな」
俺はびくりと頬を引きつらせた。
「ねぇ。どうしてなのかなぁ……」
彼女は俺を責めるでもなくゆっくりと語る。その目元は儚げで、危うくて、そして妖艶だった。
壊れた。と思った。彼女が壊れてしまった。美咲が壊れてしまった。そしてきっと、俺も壊れる……。
「俺には分からない。どうなったのか分からない。どうしていいか分からない。だから与えられた今日を、少なくとも今日だけはいい日にしようと思った……」
それでも俺は足掻くのを止められない。そんな風に告げる美咲にほんの少しでも悲しみがあるのなら、それを取り去るのを躊躇うわけにはいかない。
しかし美咲は更に思い事実を質問してきた。
「ねぇ、私、死んだの?」
これは彼女の最後通告だ。一歩俺に歩み寄り、絶対に聞き逃すまいと構えている。同時にその瞳は「聞きたくない」と揺れていた。
「…………いや。ちゃんと今、生きているよ」
だから俺は答えると同時に抱きしめた。
「あ……」
彼女の匂いが鼻孔をくすぐる。柔らかい水の匂いに混じって優しい匂いがする。
抱えるようにして強く抱きしめる。美咲は抵抗しなかった。代わりに、おずおずと俺の背に両腕を回してきた。
そしてぐっと抱き寄せられた。
表情は見えない。俺は美咲の髪に、美咲は俺の胸に埋まるようにして互いを感じている。
俺は歯を食いしばって涙を堪えていた。
こんなにも愛しい。愛しい彼女をもう救えない。
彼女はやり残したことがある人に時間を与えることは悪くない、と言った。
だが、俺は本当にそれに頷けるだろうか。美咲に今日をもたらしたことを本当に胸を張って良かったと言えるだろうか。
――――こんなにも、肩を振るわせているのに。
美咲は俺の胸の中で嗚咽をこぼしていた。俺の背中では爪が食い込むほど強く服を握りしめている。
これで彼女を救ったと言えるだろうか。少しでも幸せに出来たと言えるだろうか。今日一日を楽しいものにしようとしたのはこの悲泣から逃れるためだったのではないだろうか。
――――分からない。
ただ一つ言えることは俺は美咲を救いたかった。絶対にこれに偽りはない。
そして今美咲は俺を受け止めている。崩れそうな美咲を俺は受け止めている。
「今日、なの」
「……え」
唐突に、消えそうな小さな声で美咲が言った。
「今日が、私の誕生日なの」
「……!」
二年間もの間一度も聞かなかった事柄だ。
女の子と付き合う、という行為が初めてで、緊張しきって上の空だった俺は、「誕生日を聞く」ことにすら気付かず一年間を過ごしていた。
最近まで本当に念頭になかった。気付いたときにはむしろ恐怖の方が先立った。
今更聞くことも出来ず、それ以後は美咲のご機嫌を伺うことにより磨きがかかった。それで少しでも許してもらおうとしていたのかも知れない。
「今日、か」
「うん。悔しいから、私もカズ君の誕生日は、……知らないままにしてたんだよ」
一瞬の逡巡の後、美咲はそう言った。
そう言えば美咲に誕生日祝いをしてもらった覚えがない。――――いや、何故かその日に限って彼女はケーキを買ってきていた。何だかよく分からない名目で、決して俺の誕生日祝いだとは言わなかった。
……そうか。彼女は俺の誕生日は知っていたんだ。でも、俺が彼女の誕生日を祝わないから具体的に「誕生日おめでとう」とは言えないでいたんだ。
「今日、凄く優しかった。楽しくしてくれようとしてるのが伝わったわ。それで、もしかして私の誕生日を何処かで聞いたのかな、なんてドキドキしてたの」
「……」
「大切な「貯めるだけカード」も使っちゃって、私達の同棲生活との相乗効果で優しくなってるのかな、これがカズ君なりのプレゼントなのかな、と思ってワクワクした」
彼女の独白が続く。俺はそれをどうすることも出来ず、ただじっと聞き入っていた。
「それでね。絶対今日は私の人生で特別な日になるって確信したの。兎に角嬉しかったから」
おもむろに彼女は面を上げた。濡れた髪が額に張り付いた彼女の顔には普段の童女のような面影はなかった。俺の胸に顔を埋めながら鳴いていたのだろう。その両目は潤んでいた。乏しい光量の中で彼女の瞳だけが宝石のように輝いていた。
「だから、ね。今私は『好きなだけ好きなことを』……『好きな人と』したいの」
「美咲……」
「カズ君が悪いんだよ」
拗ねるような美咲の言葉は、俺にトドメを刺した。
……ああ、彼女は分かってしまっている。自分に何があったのか。二人に何があったのか。
全てを知って、その上で求めている。
それは自暴自棄になった言葉ではない。その証拠に美咲の顔は林檎のように真っ赤だ。恥ずかしさに耐えて紡ぎだした言葉だ。その思いの丈、決断に、
「……美咲……」
俺は答えたい。
事が終わった後、俺達は狭いベッドに二人でくるまっていた。
お互い口を開かない。美咲は俺の腕に抱かれて小さく乱れた呼吸をしている。それが俺の胸に当たるのだが、なかなかにこそばゆい。
当然のように彼女は処女だった。その証拠にシーツに赤いシミが出来ている。とても痛そうにしているのを見かねて、思わず俺は「止めようか」と言ってしまった。だがそれは美咲に拒否された。
「だめ。もう、どこまでも優柔不断な人なんだから」
それで最後のたががはずれてしまった。かなり乱暴にしてしまったような気もする。美咲は泣いていた。それがどんな感情によるものなのか、あるいは痛みによるものなのか、考える余裕などなかった。兎に角俺は美咲と繋がりたかった。
『好きなだけ好きなことを、好きな人としたい』
――――それは俺の台詞だ。でも俺が不甲斐ないから、美咲に言われてしまった。最後まで、俺は彼女に良いところを見せられないのだろうか。それだけが心残りだった。
しかし結局、俺は美咲ありきなんだ。俺の全てを美咲に捧げて全く悔いはない。それほどに美咲が大切なんだ、と思えることはそれを打ち消すほど誇らしかった。
「カズ君……」
胸元、布団の下からくぐもった美咲の声がした。
「ん……何?」
「もうずっと、一心同体だよね」
「……ああ、そうだな。ずっと、一心同体だ」
「それじゃあね……」
不意に布団から顔を出して美咲は俺と頭を並べた。乱れた髪が艶めかしく頬を覆っている。童顔の彼女だが、立派に大人の女だった。
「一言、言って欲しいな」
その一言。俺は理解している。いつまでも言いたくて、言いたくてしょうがなかったのに先送りにしてきた言葉。今は、なんの躊躇いもなく言える。自信を持って言える。
「――――愛してるよ、美咲」
「……もう一度」
「愛しているよ。世界で一番、愛してる」
ぐっと小さな身体を抱きしめた。言うことは言った。あとはお互いの存在を確認するだけ。俺と美咲の裸の肌が触れる。直接彼女の心臓の音が俺に伝わってくる。俺の心拍も美咲に伝わっているはずだ。情けないほど早鐘のように打っている心臓の鼓動が。
「……うん。OK」
「だからな。結婚しよう」
だが俺はもう一踏ん張りしてみた。これこそが最後の思い。ただ一つだけ残った、想い。決して遅すぎることはない。だって、俺達は今生きているから。
――――瞬間でも永遠でも、この言葉の価値は普遍だ。
じっと美咲を見つめる。美咲は暫く惚けていた後、いつもの癖をやって、
「……うん。カズ君なら」
泣きながらキスをしてきた。
隣には美咲が眠っている。安らかな寝息はもうこの世に何の未練も惑いも残していないかのようだ。
そっとその髪を撫でる。
艶やかな黒髪は指に絡まってしなやかに反り返った。それは生命の証だ。
だが、それももう終わり。
俺にも休息の時が訪れつつあるのがはっきり分かる。体を動かす熱は終息し、気力も薄れつつある。手足から力が抜け、体がだるくなっていく。美咲に向かって姿勢を保つのも困難になってきたほどだ。
無言で美咲と手を繋ぐ。もうあまり感覚はないが、美咲に触れているという自覚だけで幸せだった。
美咲と出会えて幸せだった。
美咲と過ごした時間が幸せだった。
怒った顔も、笑った顔も、美咲が見せる全ての心で幸せになれた。
きっと最後に恩返しもできたと思う。
だから俺は、最後にこの言葉しか浮かばなかった。
陳腐な言葉だ。安っぽくて、いつだって言うことが出来る言葉だ。さっき美咲に言った台詞の方がよっぽど勇気が要った。
でも、どんなに簡単な言葉でも。
美咲は必ず答えてくれるだろう。満面の笑顔で。ちょっと唇に指を当てた後に、極上の笑顔で。
俺はかすかに微笑んで、
「ありがとう美咲。そして、お休み――――
あとがき
かなり長いですが、御付き合いいただきありがとうございます。
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