叶わぬ願い
カラズマと呼ばれる王国がある。
四方を山に囲まれたこの国には、発展がゆるやかだったせいか緑がまだたくさん残っている。
外に出れば木々の葉が揺れ、色とりどりの花々が目を楽しませる。
機械化が少しずつ進みつつあるものの、国民には機械化に反対の者が多かった。
他国はどんどん機械化が進み、カラズマの隣、キレスト王国を越えたエンダル王国というところでは、
『金の機械都市』と呼ばれるほど工業が発展している。『機械都市』と呼ばれるにふさわしく、街全体が金属に覆われている。
エンダルに来た観光客は、まず光を反射する金属のあまりの眩さに慣れることから始めるのだという。
カラズマとは対極の位置にあるような国であった。
つまり、カラズマの人間にしてみれば、機械が街を覆っているなんて考えられない話だし、
エンダルの人間にしてみれば、カラズマは機械化が進んでいないので住みにくい場所になるのである。
そんな二つの国で、王家同士の縁談が持ち上がった。
カラズマの王女ミラーシャと、エンダルの王子セディスタ。
どちらも国民の人気は高く、ミラーシャにおいてはエンダルに嫁ぐなんて勿体ない話だと囁かれたほどだ。
ミラーシャは大変優しい心の持ち主で、常に国民への思いやりを忘れなかった。
時々貧しい地域に視察に出かけ、その地の人々を笑顔で癒す。
実際にその地の人々を助ける運動も行っており、貧しい地域には王家から多額の義援金が送られたという。
相手のセディスタ王子も申し分ない相手で、エンダルの闘技場では並ぶ者がいないほどの剣の使い手だという。
額の所で少しだけ立っている紅い髪が印象的で活発な性格だが、王子としての品格を持ち、礼儀もわきまえている。
二人の縁談はうまくまとまり、結婚式の日取りも決まった。
非の打ち所がない二人の結婚――。まさに理想の夫婦になるはずであった。
だが。
ミラーシャ王女は、結婚が決まった日からだんだん暗い表情になっていったのである。
侍女たちから「良かったですね」と言われても、悲しそうな微笑を浮かべるだけ。
食欲までなくなっていっているようだった。日に日に元気をなくす娘の姿を見て、王は心配し始めた。
「ミラーシャよ、何故そんなに悲しそうな顔をするのだ。セディスタとの結婚も決まったというのに……」
王が問うても、ミラーシャは悲しそうな顔をして俯き、何も話そうとしなかった。
「ミラーシャ様、顔色が悪そうですが……どうかなさいましたか?」
「い、いいえ。なんでもありません……」
ミラーシャの部屋。
ほとんどが白色でまとめられている、いかにも女性らしい整った部屋。部屋に入ってすぐに目立つのが、
レースのついた真っ白なベッドである。奥に入ると置いてあるドレッサーは桃色で、鏡はピカピカに磨かれている。
そのドレッサーの前で俯いて椅子に座っているのが、ミラーシャその人である。
そしてミラーシャに声をかけたのが、彼女に仕える騎士シストであった。
シストは目がきりっと細く、口も同じように締まっている。そんな容姿から、
いかにも真面目な騎士といった印象を受ける男性であった。実際彼は見た目通り真面目で几帳面な騎士で、
その焦げ茶色の髪は首筋できちんと切り揃えられている上、服もいつも仕立て上げたはがりのようで隙がない。
彼は王女の護衛を任されているので、王女の行くところへはどこであろうとついていく。
王女と一日を過ごす、それが彼の仕事であった。
シストは一年前にこの仕事を任された。成績は優秀で、もちろん槍の腕もなかなかのものである。
部下からの信頼は厚い。王からの信頼もあり、また王女からの密かな推薦もあって、彼はこの仕事に就いた。
しかし縁談が決まってから元気のないミラーシャを見て、シストもまた不安な気持ちを抱いていた。
何度問うても「なんでもない」と言い張る彼女だったが、それは嘘であることなどお見通しだった。
彼女はすぐに胸の内を打ち明けない。しばらく自分の中に溜めて、それからほろっと口からもらすことが多いのだ。
自分の中で溜めてしまうその性格を、シストは心配するばかりだった。なんでも公にするのは王女としての品が疑われるが、
心の中に溜め込みすぎるという行為は自分を壊してしまいかねない。
今日もそうだったが、シストはもう一度ミラーシャに訊いた。
「ミラーシャ様、本当に何もないのですか?」
一呼吸置いて、ミラーシャは頷く。
「ええ……」
シストが思った通りの返答があったが、まさかここで引き下がるわけにもいかない。
そこで人々が噂している『縁談』について、ストレートに訊いてみることにする。
「セディスタ王子と何かあったのですか?」
「い、いいえ! あの方は本当に私に優しくしてくださいます……」
ミラーシャは弾かれたように顔を上げて、シストの問いを否定した。
国と国との距離は遠いが、セディスタは一週間に一度、必ずカラズマを訪ねる約束をし、それを実行していた。
その時間だけはシストの護衛はないので、王女と王子がどのようにして過ごしているのか全く知らないのだ。
確認のためもあって訊いてみるが、必死に否定するところを見ればそうではないらしい。
シストはほっとし、そこで訊くことをやめる。それから懐に入れた懐中時計を取り出し、時間を確認した。
「八時五十分……あと十分でお出かけの時間ですね。それでは私はこれで」
今日ミラーシャは、貧しい地域への視察に向かうことになっている。これも一週間に一回のことだった。
シストは準備もあるだろうとのことで、ミラーシャを部屋に置いて立ち去ろうとした。
彼女に背中を向け、ドアノブを回そうとした時、後ろからミラーシャが声を上げた。
「シスト! 待って下さい!」
「……ミラーシャ様? どうかなさいましたか?」
シストは突然声を出したミラーシャに驚きつつも、表情には出さずにゆっくりと振り向く。
ミラーシャは声を上げたものの、シストに見つめられると突然動揺しだして、視線を彷徨わせた。
シストが微かに首を傾げていると、ミラーシャは彷徨わせていた視線をしっかりとシストの目に定め、再び口を開いた。
「私は……決してセディスタ王子が嫌いなわけではありません」
先程の話の続きらしい。シストはゆっくりとミラーシャに近づいていき、再び同じ位置に立つ。
ミラーシャはしばらく間を置いてから視線を逸らし、また話し出した。
「ですが、ですが……私には、お慕い申し上げている方がいらっしゃるのです」
「セディスタ王子の他にいらっしゃる、ということですか?」
「はい……」
シストは彼女の思わぬ告白に驚きつつも、やはり表情には出さぬよう努める。ここで表情に出してしまうと、
逆に彼女にショックを与えることになりかねない。特にミラーシャの場合はそうだった。下手に刺激すると、
彼女は告げる気を失ってしまう。ここで聞き役に徹するのが賢い方法だと、シストはよく理解していた。
ミラーシャはため息をついた後、もう一度、シストと目を合わせる。
そのあまりの美しさに、シストは心臓が波打った。彼女は騎士たちにとって憧れの存在で、
それはシストでさえ例外ではなかったのだから、当然といえば当然である。
「その方は……」
ミラーシャがぽつり、と言う。シストは思わず唾を飲み込んだ。
そして、ミラーシャの次の言葉に。
シストは、心臓がひっくり返りそうになった。
「私がお慕いしているのは、シスト……あなたです」
「ミ、ミラーシャ様……? ご冗談を……」
「冗談ではありません。本当の……私の気持ちです……!」
ミラーシャはそこまで言うと、辛そうに顔を俯けた。
シストは今ミラーシャが言ったことを飲み込めずにいた。一国の王女が騎士を慕っていたなどと、
そんな夢のような話がどこにあるだろうか。しかも相手は、あのミラーシャ王女である。国民からも騎士からも人気があり、
あのエンダルの王子と婚約までしているのだ。
その彼女が、カラズマ王国に仕える一人の騎士でしかないシストを慕っているなどと、冗談にもほどがある。
だが彼女の性格からして、嘘などつくとは思えない。様子からしても、冗談だとも思えない。
そういえば、とシストは突然思い出した。この仕事を任命された時、同僚の噂で聞いたことがある。
シストがこの役を任されるように、ミラーシャ王女が強く薦めていたのだと。
もしかしたら、その頃から自分は慕われていたのかもしれない――。
しかしシストは、そんな妄想を一瞬でも抱いてしまった自分を恥じた。こんなことはあってはならない。身分違いにも程がある。
シストはミラーシャに厳しい顔を向けた。そして俯いている彼女を諭すことにした。
「……ミラーシャ様、お気持ちはありがたいですが、貴女は一国の王女です。そのことをわきまえていただかないと困ります。
私はただの騎士でしかありません」
ミラーシャはその冷たい声に、はっと顔を上げた。
「で、でも!」
「言い訳を聞くことは、騎士として出来ません。……もう出かける時刻はとうに過ぎています。支度をして、出かけましょう」
「シスト……!」
シストはミラーシャの顔も見ずに振り返り、ドアノブに手をかけたまま「失礼します」と言い、部屋を出ていった。
突然のシストの冷たい言葉に動揺しながら涙を流す王女だけが、その場にとり残された。
「……く」
悪いことをしたわけではない。むしろ騎士としての立場をわきまえた発言をし、双方に良い結果をもたらすはずだった。
だが彼女の部屋から去った後で、胸が痛むのは何故なのだろう。
シストはあまりの心苦しさに、廊下の壁にもたれかかり、大きく息を吐いた。
彼女を冷たい声で諭したあの時、その言葉は自分自身にも氷の棘のように突き刺さった。
良いことをしているはずなのに、どうしてもそうだとは思えない。部屋を出てから、突き刺さった氷は今更になって痛み始めた。
彼女の泣きそうな表情を思い出すと、その傷はますます心に食い込む気がした。『シスト……!』そう言って、
彼女は必死に自分を引き止めようとしたのだ。なのに、自分はそんな彼女の声に応えずにさっさと部屋を出ていってしまった。
シストは自身の手を見ながら、ぽつんと呟いた。
「私を……慕っているなどと……」
“私がお慕いしているのはあなたです”
そのミラーシャの言葉が、頭の中で引っかかって離れない。
シスト自身、美しく聡明な彼女に憧れて、否、それ以上の感情を抱いていたのは事実だ。
ただの騎士だった時代は『憧れ』でしかなかった感情が、護衛に任命されてからいつの間にかその気持ちが発展していた。
彼女に深く接するようになって、ますます気持ちが強くなったのだ。
だから先程の告白は、信じられないものであったと同時に嬉しいものでもあった。
これほど嬉しかったのは、叙勲式の時――否、それ以上かもしれない。
しかし、ここで恋人同士になる、ということにはもちろんいかない。
シストは彼女に徹底的に冷たくしよう、と心に決めた。また心に何か突き刺さったような気がしたが、
二人の身分や立場を考えるならそうするしかない。思いを引きずってしまえば、自分にとっても彼女にとっても良くない結果になる。
シストは心の中でもう一度堅く決心し、廊下を歩いていった。
「私は、ずっとあの方が好きだった……」
支度もせずに、ミラーシャは涙で頬を濡らしていた。あの方というのはシストのことである。
ミラーシャが接点の全くなかったシストを、どうして推薦したのか。
それはある日、練習場で必死に槍の練習を続ける、シストの真剣な表情を見たからだった。
それからというもの、ミラーシャはシストのことが頭から離れなくなった。あれほど真剣な顔をして練習をする騎士を、
ミラーシャは初めて見た。あまり練習場などを見に行くことがないのだが、
たまたまその日、シストだけが最後まで残って練習をしていたのである。
今から三年ほど前の話だ。ミラーシャは今十九歳だから、十六歳の頃の話ということになる。
そんなことを、シストが知るはずもない。その上、先程の彼の反応ときた。
ミラーシャは落ち込み、きっと自分は嫌われただろうと思いこんだ。
シストは真面目な騎士だったが、ミラーシャのことをよく気遣い、話をして欲しいと言えばいつも乗ってくれた。
そんな彼を見るたびに、ミラーシャはあの時の気持ちがますます強くなるのを感じていたのだ。
だから急に縁談の話が出た時には、足元が崩れていくような感覚を味わった。自分は本当に好きな相手に気持ちを伝えられぬまま、
遠く離れたエンダルにまで嫁がなければならないのである。日に日に元気をなくしていったのは、そのためであった。
そして先程、ミラーシャはついに気持ちを告白した。
だが、やはり身分を越えた恋愛は無理なのだと悟った。自分はわがまますぎていたのかもしれない、と今になって思う。
王子との婚約を取りやめて騎士と付き合うなど、そんなことが許されるはずがない。
「私は……あなたを……」
ミラーシャの目から、再び涙があふれ出す。
今更変えられぬこの気持ちを持て余したまま、ミラーシャは泣き続けた。
それからというもの、シストはミラーシャと最低限の会話しかしなくなり、一緒に過ごす時間も仕事内だけになり、
だんだんと減っていった。シストが感情のこもっていない声で言葉を発するたび、ミラーシャが悲しそうな目で
シストを見つめていることに彼は気づいていたが、知らぬふりをした。
ここで持ちこたえなければどうにもならない。ミラーシャはいずれ、エンダルに嫁ぐ。それまでの辛抱なのだ。
シストは何度もそう自分に言い聞かせ、日々は過ぎ去っていった。
そして、ついにその日がやってきた。
カラズマ王女ミラーシャと、エンダル王子セディスタの結婚式。
朝から天気は上々、太陽はまるで二人を祝福するかのようにさんさんと照りつけている。
花婿のセディスタはさっさと着替え、カラズマの教会で彼女が来るのを待ち続ける。
その頃花嫁はというと、ミラーシャの部屋でたくさんの侍女に囲まれ、ウェディングドレスを着せられていた。
侍女たちは皆笑顔で、「姫様、綺麗ですよ」と声をかけてくれたが、ミラーシャは何も言わなかった。
ただ黙って悲しそうな顔をしながら、侍女たちが着付けてくれるのを待っていた。
「さあ、姫様終わりましたよ。では私たちはこれで失礼します」
侍女たちはそれぞれミラーシャに笑みを投げかけながら、部屋を出ていく。
一人取り残されたミラーシャは、鏡に自分の姿を映しながら、すっとため息をついた。
「この日が、ついにやってきたのですね……」
ふと頭にシストの顔がよぎり、ミラーシャは慌ててそれを振り払う。
シストは昨日も、「おめでとう」さえ言わなかった。相変わらず当たり障りのない発言ばかりで、ミラーシャは心が痛んだ。
そんなことを考えているとふと、鏡に映る自分の表情に気づく。自分はなんと悲しい顔をしているのだろうか。
侍女の一人から「笑顔ですよ、姫様」と注意されたばかりである。
ミラーシャは外の天気とは違って心は晴れなかったが、それでも無理矢理笑顔を作ってみることにした。
口を歪めて笑みを作った瞬間、目からあふれた涙が頬を伝った。
「え……?」
ミラーシャは思わず、頬を手で触る。確かに熱を持った涙が、頬を静かに伝っていた。
その瞬間、ミラーシャははっきりと悟った。
自分は、涙を我慢していたのだと。
無理に笑みを作ることで、溜めていた涙が溢れだしたのだと。
「私は……私は……っ!」
ミラーシャが悲しさに震えた時、ドアがコンコンとノックされた。
「は、はい?」
涙声になっているのを必死に隠しながら、静かな声で返す。
すると返ってきた声は、あのシストのものだった。
「ミラーシャ様、時間です。そろそろ行きましょう。セディスタ様がお待ちです」
「! わかりました……」
ミラーシャは涙をぬぐい、深呼吸した。深呼吸をするとだいぶ気分が落ち着いた。
そしてミラーシャは立って歩いていき、ドアをそろそろと開けた。
ドアの軋む音が響き、向こう側にはシストが立っているのが見えた。
ミラーシャは思わず彼に抱きついてしまいそうになりながら、ゆっくりとドレスを引きずって歩く。
シストは扉を閉め、ミラーシャの姿を見つめた。
その視線に気づき、ミラーシャもシストを見つめる。
数秒見つめ合った後、シストは口を開いた。
「……綺麗です、ミラーシャ様」
それだけ言うと、シストはくるりと背中を向け、ミラーシャの前に立って歩き出す。
しかしミラーシャは、それについていかなかった。
少し歩いて、そのことに気づいたシストが後ろを振り返る。
ミラーシャは、顔を俯けていた。
「ミラーシャ様……?」
シストが彼女の名を呼ぶと、ミラーシャは顔をゆっくりと上げた。
そしてゆっくりと、口を開いた。
「こんな私を――セディスタ王子と結婚することになっても、ずっとあなたを想い続けている私を……
本当に綺麗だと思うのですか……?」
「…………」
シストは無言で、また振り返って前を見た。
ミラーシャは綺麗だ。今日はまた、一段と美しい。
だが、ミラーシャはそのことを指摘したのではないと、シストには分かっていた。
シストは抑えきれない気持ちを感じながらも、なんとか喉の辺りで言葉を押し込めていた。
ここで言ってしまえばお終いだ。ミラーシャに未練を残すばかりか、これまでの努力が全て水の泡になってしまう。
「……行きましょう、ミラーシャ様」
自分の中で最も冷たい声を出し、心の中の思いをも殺す。
ミラーシャは、それから一言も発さずについてきた。
シストは教会までミラーシャを送り届け、逃げるようにその場を去った。
彼女の結婚式を見ることなど、今のシストにはできない。
彼女の懸命な思いに応えてやれなかった男は、例え二人がどんな身分でどんな立場にあろうとも、
女の前に顔を出すことなど許されない。
そして王女と王子が、皆に祝福されている姿を直視できるほどの勇気はなかった。
――二人がどれほど願おうとも、この思いは叶わない――
二人がたくさんの従者たちに囲まれてエンダルに旅立つ姿を、シストは城の外から眺めていた。
しばらく見入った後、ふと目を逸らし、ぽつんと呟く。
「――私も、貴女と同じ気持ちでした……ミラーシャ様」
夕陽が、全ての光を背負って沈もうとしていた。
あとがき
天海 夏燐(あまみ かりん)と申します。
オリジナル作品で、しかもかなり長いお話ですので、最後まで根気強く読んでくださった方、ありがとうございます。
物語全体を見れば、大変ありきたりな物語ではあるのですが、二人の心情にこだわって書きましたので、
その二人の心情が伝わっていれば嬉しいです。
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