深夜のタクシードライバー
仕事で疲れた身体を、私は引きずるように歩く。
連日続いた徹夜、そして過密労働。
プログラマーという仕事を、これほど恨んだ事は無い。
既に日はどっぷりと暮れている。
星空が見えれば少しは楽になるのだろうが、生憎、今日は月すら見えない。
重苦しい、今にも落ちてきそうな暗い空。
気は、滅入っていくばかりだ。
疲労で全身が悲鳴を上げている。
私は、ひたすらにタクシーを探す。
もはや、この足で家まで歩けるとは思えない。
このまま歩いていたら、間違いなく路上で意識を失うだろう。
ヘタをすれば轢き殺される。
私はまだまだ、こんな所で死ぬわけにはいかない。
そんな事を考え、左右を見回す。
しかし、道路には、一台も車の通る気配が無い。
何故だろう。 今日は、土曜日のはずなのだが。
休日の真っ只中にあって、交通量がこれほど少ない道路も珍しい。
都心からそう離れていないから、尚更だ。
不思議に思っていると、目眩(めまい)が私を襲った。
踏ん張ろうとする信号を脳が出す暇も無く、私はその場に倒れこんだ。
気が付くと、私は車の中に居た。
後部座席に寝かされる形で、横になっている。
静かに身体を起こす。
微かなエンジン音。
整えられた内装。
そして、運転席近くにあるカウンター。
タクシーだ。
私はタクシーに乗っている。
そこまで認識した所で、車が少し揺れた。
「おっと」思わず声を漏らす。
運転手の目が、バックミラー越しに私を見た。
思わず背筋が冷たくなるような、冷たい目だ。
運転手は視線を逸らすと、口を開いた。
「お目覚めですか」篭ったような、低い声。
私が返事をするのも待たず、運転手は続ける。
「目的地を告げるなり、失神されたお客様は初めてです」と言い、低く笑う。
「ああ、そうでしたか」
どうやら、私は最後の力を振り絞ってタクシーを捕まえたようだ。
これで、この状況にも納得がいく。
「どのくらい、寝てましたか?」運転手に尋ねる。
赤信号で停車し、こちらを見ないまま、運転手は「半時ほどです」と短い返事をする。
「そうですか」私も短く返す。
まだ疲れの残る体を、背もたれに埋める。
思ったより心地よく、私はまた目を閉じてしまいそうになる。
「おっと」思わず呟き、背もたれから背を離す。
「どうかしましたか?」運転手の低い声が届く。
私は慌てて「いえ、別に」と答えると、窓の外へと目を向けた。
ネオンの光が、少しぼやけて見える。
やはり、疲れているのだ。
「お仕事は?」
いきなり話しかけられ、私は一瞬何を言われたのか解らなかった。
オシゴトワ? あぁ、仕事か。
言葉を理解した私は、「プログラマーです」短く答える。
運転手は感心したように「へぇ」と呟くと、バックミラー越しに私を見た。
また、あの冷たい目が私を見つめる。
失礼なのは解っているが、やはり少し気味が悪い。
私は極力、バックミラーを見ないようにした。
「プログラマー、お忙しいでしょう」
低いながらも、少し温か味のある声で、運転手は言う。
「えぇ。今日も徹夜明けでして」
「私の古い知人にも、プログラマーがいるんですよ」
「そうなんですか。その方も毎日大変でしょう」苦笑して、私は言う。
同業者の苦労は、身に染みて解る。
毎日、早朝から深夜にかけて、液晶とにらめっこを続けなければならない。
たまの休日も外出する気になれず、あっという間にまた出勤。
私も入社当時は、何度も病院の世話になったものだ。
「えぇ、大変そうでした」
運転手の含みのある言い方に、私は「でした、とは?」と返す。
また赤信号で車を止めると、運転手はゆっくりと口を開いた。
「そいつは、ついこの間亡くなりましてね。働き盛りだったのに、可哀想です」
「それは……また。ご愁傷様です」なぜか、申し訳ない気分になる。
「オーバーワークと言いますか。働きすぎで、心身ともに、だいぶ参っていたようでして」
「それ、凄くわかります。私も、オーバーワークなんてしょっちゅうですよ」
「そいつも、いつも貴方と似たような事を言っていました」
その後も、私はずっと運転手と話をしていた。
しかし、私はふと、ある事に気付いた。
「……ところで、私の家まで、あとどのくらいですか?」
気のせいかも知れないが、もう二時間近く乗車している気がする。
窓の外は、相変わらず真っ暗なままなのだが。
運転手は、まるで私の言葉など聞こえなかったかのように、運転を続ける。
私はなぜか不安になり、「あの、すいません」と大きめに声を掛ける。
しかし運転手は、返事はおろか、微動だにしない。
嫌な予感がして、私はバックミラーを覗いてみる。
すると、運転手と目が合った。
いや。
合ってしまった、と言う方が正しい。
あの冷たい両目が、じっと私を見つめている。
私は背筋に冷たいものを感じながらも、「あの、私の家までは……」と再度声を掛ける。
反応は無い。
ただ、冷たい目で私を見つめるだけだ。
そう、ずっと。
……ずっと?
待て、おかしい。
この運転手は、『今も運転をしている』はずじゃないのか?
私は、おそるおそる視線をバックミラーから運転席へと移す。
――誰も居ない。
汗が吹き出るように流れる。
パニックになりながら、バックミラーへ視線を移す。
そこには、冷たい視線が確かに残っている。
いや、ミラーには何も映っていない。
しかし、確かに視線はそこにある。
私は恐ろしくなって、ドアを開けて逃げようとする。
だが、ドアはピクリとも動いてくれない。
いよいよ半狂乱になった私は、運転席へ乗り込み、全力でブレーキを踏む。
何度も、何度も。 狂ったように踏み続ける。
七回ほど踏んだところで、車はようやく停車した。
私は、ぜぇぜぇと息をしながら、倒れるようにして車から降りた。
そして、そのまま気を失ってしまった。
鼻を突く匂いに、私は目を覚ました。
両目いっぱいに、白い光が降り注いでくる。
病院の、ベッドの上だった。
「お目覚めですか」低い声が聴こえ、私はまたビクリと身を震わせる。
しかしそれは、白衣に身を包んだ見知らぬ医師の声だった。
「痛みはありませんか?」傍らの看護婦が、私に微笑む。
痛み、と言われれば、確かに全身がひどく痛む。
良く見てみれば、なんと私は包帯でぐるぐる巻きの状態だった。
麻酔のせいでぼやける思考を働かせ、記憶を辿る。
――仕事帰り。車の通らない道路。タクシー。冷たい目の運転手。会話。疑念。恐怖。そして、脱出。
まるで夢のような恐怖体験に、私はまた、身を震わせる。
いや、ひょっとしたら、夢だったのかもしれない。
とにかく、まずはこの状況を把握しなければならない。
「私は……どうしてまた、こんな大怪我を?」医師へと目を向け、私は尋ねる。
医師は、信じられない、といった表情を浮かべ、私を見た。
「何も、覚えていないんですか?」
「えぇ。何も」どこでこんな怪我をしたのか、私には全く思い出せない。
医師は「では、説明しましょう」と言うと、ゆっくりと私に向き直った。
「実はですね――……」
――医師の話は、耳を疑うようなものだった。
どうやら、私は昨夜、車に轢き逃げをされたらしい。
それも、私がタクシーを探していた、あの道路で。
さらに驚くことに、私はそこから自力で病院まで来たと言うのだ。
全身がまともに動かない、この身体で。
信じられない話だった。
「……そして貴方は、病院前の道路で倒れているところを発見され、ここに運び込まれたのです」
話し終えた医師は、「まだ、思い出せませんか?」と尋ねてきたが、私には、何も答えられなかった。
それから数ヶ月が過ぎ、私は無事に退院した。
入院中に見舞いに来た上司に辞表を提出し、私は晴れて無職となった。
もう、あの死と隣り合わせの日々に戻る気は無い。
私がどうやって大怪我の身で病院に来れたのかは、未だに謎のままだ。
――だが、私が轢き逃げをされた現場、即ち私がタクシーに乗ったであろう場所と、
病院前の道路、即ち私がタクシーから降りたであろう場所は、車でおよそ二時間半の距離だ。
これが何を意味するかは、考えないでおこう。
何にしろ、私はこうして生きているのだ。
綺麗な星の輝く夜空を見上げ、私は大きく深呼吸をした――。
〜終〜
あとがき
場違いな気がしないでもない...。
微妙なミステリ(?)SSです。
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