逆転の検事(最終話)
同日 午後8時44分
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全身に走るはずだった痛みはいつまでも来ず、歯を食いしばり、目を瞑って痛みに耐える準備をしていた私は、
拍子抜けしてしまった。私は恐る恐る右目をゆっくりと開け、目の前の状態を確かめた。
そこには2つの影があった。一人は私を刺そうと右手を振り上げた格好のままの石渥。
もう一人はその振り上げた右手を、真っ直ぐ伸びた長い足で止めている謎の男。まるで時が静止したように、2つの影は動かなかった。
しばらく静止した時が流れたが、先に破ったのは石渥の方だった。
「てめぇ、一体───!」
振り返ってナイフで斬りつけようとした石渥の言葉は、そこで止められた。というよりは、その先を続けることを不可能にされた。
謎の男の右手が一瞬消えたかと思うと、次の瞬間には掌底となって石渥の顎に真っ直ぐ伸びていた。
しかし男の右手は少し伸びすぎたようで、石渥の顎は見事に横にずれていた。
「ア、ガガ」
言葉にならない声を上げた石渥に対して、続けざまに男の攻撃がその体へと吸い込まれていった。
左足首を捻って軸として放たれた回し蹴りは腹へと滑り込み、その回転を殺さずに、左拳を胸へ叩きこんだ。
叩き込まれた左拳を元へ戻さず、そのまま持ち上げて手の甲で顎を打ち上げた。そして小さく息を吸うと、腰を低く構え、
凄まじい勢いで右手の甲を腹の奥へとめり込ませると、石渥の口から衝撃によって唾液が飛び出した。
素早く身を引いて姿勢を整えると、
両肘を後ろへ引いた。そして息を吐き出すと共に、両手の平を石渥の胸へと突き出した。余程凄まじい威力だったのだろう。
石渥の全身が一瞬震えたかと思うと、その体がふわりと浮いて、後方───ダンボールの詰まれた鉄の棚───へと吹っ飛んだ。
鉄の棚は見事に変形して、石渥はダンボールの中に身を沈めてしばらく痙攣をしていたが、すぐにぐったりとなって動かなくなった。
ダンボールの上に積もっていたのであろう埃が、煙幕のように辺りにたちこめた。
「姉さんに手を出す者は許さねぇ」
意識を失った石渥に対して、男は人差し指を突きつけてそう言った。
その声は、どこかで聞いたことがあるものだった。とても懐かしく、そして、とても落ち着いた……。
緊迫した雰囲気は思っていたよりも私の精神を蝕んでいたらしく、緊張の糸が一気に解けて、私は気を失ってしまった。
気を失う一瞬、この場から去ろうとして振り返った男の顔が光に照らされた。
「ソー……スケ……」
遠くでパトカーのサイレンを聞いたような気がしたが、私の意識はゆっくりと闇の奥へと沈降していった……。
「冥ッ!」
私は半分開けたままになっていたシャッターを無理矢理くぐると、中の様子を見渡しながら冥の名前を呼んだ。
しかし返事はなく、私は闇に目が慣れるまで待つのにじれったくなり、急いで灯りを探した。
シャッターの脇にそれらしいスイッチを見つけ、躊躇せず押した。
1秒ほどブランクがあってから、部屋の中央の小さな電球が光を放ち始めた。
私は光により露わにされた部屋の状況に絶句してしまった。
まず目に入ったのは、壁に背をつけて横になっている冥の姿だった。
次に、その隣でボロボロになって倒れている成歩堂の姿。
そして最後で一番目をひきつけたのは、鉄の棚に絡まって、ダンボールに埋もれている男の姿だった。
男も成歩堂に負けず劣らずのボロボロっぷりで、特に顎の損傷がひどかった。
このようなダメージを受けるなど、相当な拳法家がやって来たとしか思えなかった。
どうやらこの男が石渥氏のようだ。
私は遅れてやって来た糸鋸刑事に石渥氏の確保を命令すると共に、至急救急車を呼ぶように伝えた。
私の剣幕に脅されてか、糸鋸刑事にしては随分と手際が良かった。
私は急いで成歩堂と冥の縄を解いてやると、日頃から熟読していた『救急時の対応』という医学本の通りに、
思い出せる限りの処置を行った。幸いにもつい最近読んだ止血の部分だったので、適切な処置をとる事ができた。
私は額を流れる冷や汗を手の甲で拭うと、ほっとため息をついた。そして、改めて気を失っている石渥氏の方を見た。
的確に急所をつき、恐らく瞬時に連続で加えられたのであろう攻撃。
私はその傷跡を見つめている内に、脳裏に懐かしい光景が浮かび上がった。
そういえば、奴がたしかこういう格闘術を使っていたような……。
遠くから近寄ってくる救急車のサイレンの音を聞きながら、私は心の中である人物に感謝をした。
4月23日 午前7時22分
堀田クリニック・個人病室
優しい光に包まれて安らかに眠っていた僕は、唐突に目を開いた。
別に誰かに起こしてもらった訳ではなく、自分でも驚くほどすんなり目を覚ますことが出来た。
眠気を全く感じない、気持ちのいい目覚めだった。
しばらく目の前に広がる白い天井と、2つの細長い電灯を見つめていた。
頭の下に柔らかい布の感触を感じてここが病院であると認識した時、
僕は自分がやっと恐怖から解放されたことを知り、改めて安堵のため息を漏らした。
そのため息が余程大きかったのか、僕の脇で腕を枕にして眠っていた彼女は言葉にならない声を漏らした。
しばらく身をよじった後、パイプ椅子の背もたれの部分を軸にして大きく体を後ろに反らせた。
両腕を天井に伸ばし、何ともいえない言葉が口から溢れた。
僕はそんな彼女をしばらくじっと見つめていたが、一刻も早く安心させてあげたくて、声を掛けることにした。
「おはよう」
少しかすれていたが、言葉はちゃんとしていた。
彼女はピクンと体を止めると、その声の主である僕の方へ勢いよく身を乗り出した。
勢いにのりすぎたのか慌てて体が倒れそうになり、ベットに手をついた。
そんな彼女に笑顔を浮かべてあげると、途端に瞳から涙が溢れていった。
「ナルホド君……」
「やぁ、おはよう」
僕は再び彼女──真宵ちゃんに向かって目覚めの挨拶をした。涙が溢れ、嗚咽が止まらなくなっていて少し不細工に見えたが、
それでも彼女の存在は僕を再び安心させた。
「ナルホド君、ナルホドくぅぅーーーーーーーーっん!!」
彼女はダムが決壊したようにわんわんと泣き出し、僕の首筋に抱きついてきた。
僕はそんな彼女の背中に手を回そうとして、自分の右腕が動かないことに気付いた。
何か冷たくて硬い、コンクリートのようなものが僕の右腕全体を包み込み、その上を包帯で巻いていた。
少し首をずらして左肩の方を見てみると、同じく包帯でグルグルに巻かれていた。幸いこっちは動かすことができたので、
ゆっくりと持ち上げて彼女の背中をさすってあげた。彼女は少し泣き止んだようで、
嗚咽と鼻を啜る音が彼女の肩を細かく揺らしていた。
と、何者かの気配を感じて、僕は視線を彼女の後ろへとずらして、思わず顔を赤らめた。僕のいる病室は、
僕の寝ているベットを中心に少し横長い部屋だった。左側に窓、右側に色々な棚や、入り口から見えないようにするための
カーテンが引いてあった。そのカーテンの端から、イトノコ刑事がすまなさそうに覗き込んでいたのだ。
僕は慌てて真宵ちゃんにこの事実を知らせようと背中を軽く叩いたが、彼女は一向に離れようとしなかったので、言いにくかったが、
僕は彼女に事実を告げた。
瞬時に真宵ちゃんは体を僕から引き離し、ゆっくりと後ろを振り返った。
イトノコ刑事が微妙に引きつった笑顔をして立っているのを見ると、
すぐさまに立ち上がって部屋の外へ飛び出した。僕もそうしたい気分だった。
「あ〜なんていうか、……お邪魔したッス」
実にすまなさそうに僕に近寄ってくるイトノコ刑事の顔をとても懐かしく感じられて、今の自分の状況を再確認した。
「僕はどうしてここに?」
あの男に暗い部屋で暴行されて気を失って以来の記憶がはっきりしないのと、
これ以上真宵ちゃんとのことを言われたくないこともあり、
僕はイトノコ刑事の顔を見つめながら急いで訊いた。
「御剣検事があんたが監禁されている場所を見つけたッス。そんで重傷のあんたは気を失ったまま救急車に乗せられて、
えっと、丸一日眠り続けていたッスね」
「重傷?」
僕は改めて自分の体を見渡して、包帯まみれなことに気付いた。これで顔全体も覆われていたら間違いなくミイラだ。
「実際にはそんなに大したことはなかったッス。骨に異常はなかったッスから、打撲と刺し傷が目立つだけッス」
刺し傷という言葉に、僕は無意識に左肩の方へ視線を移した。そういえば狩魔冥が襲われようとしていたので、
必死で止めに入ったような記憶がある。
「全治1週間ぐらいだって言ってたッス」
イトノコ刑事は右手にぶら下げていた白いビニール袋の中へ左手を突っ込むと、中から大きな紙パックをとりだした。
そこには、「国酪牛乳」と書かれていた。
「骨の方もあるッスが、病床で一番いいのはこれらしいッス」
そういいながらイトノコ刑事はベット脇の小さな冷蔵庫の中へ牛乳をしまった。
そして何かを思い出したらしく、「あ」と声を上げた。
「あんたに暴行をしたあの石渥という男、やっぱり連続猟奇事件の犯人だったッス。何でも自分を捨てた女達への復讐だとか」
ふいに出たにしては僕が最も聞きたいことだったので、その後奴がどうなったか訊いてみた。
するとイトノコ刑事はクククっと笑いを漏らして、
「あんたの代わりに御剣検事が弁護士をしたッス。しかも今回は狩魔検事も味方だったッスから、
あの男は即刻有罪を立証されたッス。その後も狩魔検事の鞭の嵐を喰らって、いい気味だったッス」
それを聞いて、僕は急いでイトノコ検事に尋ねた。
「御剣はいまどこに?」
イトノコ刑事の顔が再びすまなさそうになったので、何となく言いたいことが分かった。勿論、彼はちゃんと話してくれた。
「裁判が終わったのが昨日だったッスが、あんたが丸一日眠っていたので何も言わずにまた外国へと行ってしまったッス」
僕は少し目を伏せてから「そうですか」と言った後、ゆっくりと窓の外へと視線を移していった。
この病室は少し高い位置にあるらしく、
窓から見える風景のほとんどはビルの屋上だった。だがそれよりも、青く澄み渡って雲1つない空の方が印象的だった。
ちょうど太陽が遠くに見える山の合間から顔を出し始め、強烈な光が僕の網膜に焼きついたが、
眉間にしわを寄せることでなんとか光に慣れようとした。
また借りが出来たな、ミツルギ……。
僕は眩しい風景の向こうに御剣の姿を思い浮かべ、微かに微笑んでみせた。
おわり
あとがき
いや〜疲れたなぁ。
ちなみにメイを助けたのが誰か、分かりましたか?
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