げーむじんファミコン発売20周年記念特別企画第5弾!
あのゲームメーカーは今?

連続メーカー特集ですいません。でも当初はこっちが先に考えていた企画だったので
よろしくお付き合い下さい。今回はファミコン時代に活躍していたゲームメーカー、しかし
今ではその名前を発売スケジュールで見ることがなくなった…あのメーカーは現在どうなって
しまったのか?それを追いかけていきたいと思います。例によって20社挙げていきますよ。

アスキー
代表作:オホーツクに消ゆ(1987年)、ファミコン通信(1986年〜)
 1977年創業。皆さんご存知だとは思いますが、元々はパソコン雑誌の出版が本業だったんですね。
1980年には早くもパソコン用のゲームソフトを開始したゲームメーカーの中でも老舗の部類に入る会社。
ファミコンに参入したのは1985年、最初のソフトは「アストロロボ・ササ」であった。
その後名作RPGの移植「ウィザードリィ」や堀井雄二氏を脚本に迎えた「オホーツクに消ゆ」、
そして薗部博之氏の才能を開花させた「ベストプレープロ野球」「ダービースタリオン」といった
話題作を提供する。しかしアスキーといえば、やはりゲームメーカーとしてというより、
ゲーム雑誌出版のイメージの方が強いだろう。1986年にPCゲーム雑誌「ログイン」の1コーナー
から独立する形で「ファミコン通信」創刊。創刊当初は苦戦を強いられるものの、徐々に部数を
拡張し、1991年にはゲーム雑誌初の週刊化を実現し、ゲーム雑誌を代表する存在に。
1995年に略称として使われていた「ファミ通」を正式名称にし総合誌化、現在に至る。
現在では自称No.1ゲーム雑誌を標榜している。(本当にNo.1なのかには疑問があるが)
 とにもかくにもスーファミ時代以降もファミ通や大ヒット作に成長したダビスタを中心に活躍していたが、
本業のパソコン雑誌出版事業でWindows95ブームに乗って創刊された「週刊アスキー」の部数が低迷し
赤字に転落した頃から歯車が狂い始める。97年末にCSK・セガの傘下に入り経営の再建を図るが、
新規に始めたネットサービス事業が失敗し、業績は回復するどころか、悪化の一途を辿っていった。
 この頃経営方針を巡る内紛により、当時の社長・西和彦氏に反発する幹部グループが一斉に離脱・独
立するなど人事面でも骨抜き状態になっていった。同じく経営不振に陥っていたセガを抱えていたCSKは
これ以上の悪影響を避けるため2002年3月にアスキーを米国の投資会社・ユニゾンキャピタルに事実上
売却した。それとほぼ同時にアスキーはゲーム事業から撤退。現在はIT出版事業に専念している。
ちなみにアスキーブランド最後のソフトはプレイステーション2版「シーマン〜禁断のペット〜」。
 あとこれは皆さんご承知の通りだが、ゲームソフト開発・ゲーム関連雑誌・書籍出版事業は
2000年4月にアスキーから独立した子会社・エンターブレインに引き継がれている。
(現在は両社ともメディアリーヴスという会社の子会社という形になり立場は平等になっている。)

 2004年にはアスキー・エンターブレインの親会社メディアリーヴスが角川グループの
持ち株会社に買収された。以前のライバル会社の軍門に下ったという形になる。
イマジニア
代表作:松本亨の株式必勝学(1988年)
 地味ながらも長年ゲーム業界に関わってきた会社だが、実は大手住宅メーカー・ミサワホームの
子会社だということはあまり知られていない。1986年1月にゲーム開発専門会社として設立された。
 同年11月発売の「銀河伝承」でファミコンに参入。当時まだまだ低年齢層がユーザのほとんどを
占めていたファミコンにおいて完全に大人向け(?)の「松本亨の株式必勝学」(続編もあり)や「井崎修
五郎の競馬必勝学」をリリースしたことは注目に値する。スーファミにも発売直後に「ポピュラス」で参入。
 その後もサターンでギャルゲーブランド「イマディオ」を立ち上げたり(ほとんど他社作品の移植
だったけど)、ゲームボーイでコミックボンボンとタイアップしたポケモンの亜流作品「メダロット」
シリーズを発売する(メダロット2が同社最大のヒット作だろう)など活躍していた?が、
プレステ時代に何故かNINTENDO64に注力していた(何と64だけで14本ものソフトを発売!)ことが仇となり、
業績が悪化。1999年に大幅な軌道修正をし、徐々に携帯電話コンテンツ事業に転換、現在では事実上
ゲーム業界から足を洗っている。携帯電話向けには現在もゲームコンテンツを作っているが。
ちなみに同社ブランド最後の作品は2001年9月発売のPS2版「マイト アンド マジック」。
SNK
代表作:アテナ(1987年)
 格闘ゲームのファンにはお馴染みのメーカー。創業当時は「新日本企画」という社名だった。
70年代からアーケードゲームをリリースしていた老舗メーカーでもある。ファミコンには1986年に
「ASO」というシューティングゲームでデビュー、その後上記作「アテナ」をはじめ90年まで計9本の
ファミコンソフトを発売する。しかしファミコン時代はあまりパッとしたソフトはリリースしていない。
 同社が有名になったのはやはり独自ハード「ネオジオ」のリリース以降だろう。91年、アーケード作品
の完全な移植を旗印に発売し、既存のハードからは全面的に撤退した。ソフトの価格が1本3万円近く
するなどマニアックなハードであったが、格闘ブーム到来時に「餓狼伝説」「サムライスピリッツ」
「ザ・キング・オブ・ファイターズ」などの名作格闘ゲームを次々と生み出し、格闘ゲームマニアの
御用達ハードとしての地位を確立することに成功する。
 しかし格闘ブームの衰えと、格闘ゲームの主流が3Dに移行していったことにより、90年代後半になると
徐々に売上は下降線を辿るようになっていく。その状況を打開すべく発売されたのが携帯ハード
「ネオジオポケット」であった。「I'm not boy」という挑発的なキャッチコピーを載せるなど
ゲームボーイへの対抗心は剥き出しであったが、格闘ゲーム以外の作品が乏しかったことや
あまりに短いサイクルでのモデルチェンジの繰り返しで、ユーザーの不信を買ってしまい
結局大失敗に終わってしまう。経営危機に陥ったSNKは2000年に大手パチスロメーカー・アルゼの傘下に
入り、経営再建を図った。しかしあくまでゲーム事業で再建を図ろうとしたSNKと、パチスロ販売代理業
への事業転換を迫ったアルゼの間の溝がほどなく表面化。その結果アルゼからも見放され、万策尽きた
SNKは、2001年11月に再建を断念し、解散した。
 SNK作品の著作権などを買収したプレイモアという会社が現在SNK時代のシリーズを発売している。
2003年6月に社名をSNKプレイモアに変更し、SNKはブランドとしては復活した。(別の会社だけど。)
九娯貿易
代表作:エアーウルフ(1988年)
 長崎県は佐世保市に本拠地を構える老舗ゲームメーカー。1965年設立。会社名に「貿易」と
あるように、元々はゲーム機器などの輸出入などを行っていたようだ。しかしインベーターブームで
ゲーム市場が一気に拡大すると、自らゲーム開発に乗り出すようになる。アーケードではセガの下請け
で「フラッシュギャル」や、同じくセガの下請けで開発したものの、評判が悪かったため自社で販売
した「レジェンド」などを生み出した。そして、1988年末に「エアーウルフ」でファミコンに参入。
第2弾「忍者COPサイゾウ」は一部では迷作として語られているみたいだが、如何せん印象は薄い。
結局コンシューマーで発売したのはファミコンが上記作を含め3本、メガドライブで1本のみ。
1994年以降は「ラブラブシミュレーション」や「メタモルフェイス」といった合成写真作製機の製造・
販売に軸足を移していった。一時はプリクラブームに乗って好調に推移するものの、その後は業界の
低迷を受けて受注は減少、1998年1月には和議申請を行うほどに業績は落ち込んだ。同年12月に
和議が認められ、現在は経営再建中。しかし会社のHPを見てもまともに動いているとは思えないが…。
長崎県を中心にゲームセンターを運営しているようなのでそれで食いつないでいるのだろうか?
クエスト
代表作:ダンジョンキット(1990年)
 設立は1988年と、ファミコンメーカーの中では最後発に属するメーカー。設立当初はボーステックの
下請けでファミコン版「大戦略」や「銀河英雄伝説」などの開発を担当する。初の自社ブランドでの
ファミコンソフトは1990年8月発売の「魔天童子」であった。その僅か一週間後に発売された上記作
「ダンジョンキット」は自分でダンジョンを作成できるというツクールシリーズに先がけた作品であった。
ファミコンで出した自社ブランドのソフトはこの2本だけ。どちらも当時はほぼ無名の存在だった。
 同年にはかねてから関係のあったボーステックと合併している。

 クエストの名前をゲームファンに知らしめたのはスーファミで1993年に発売した「伝説のオウガバトル」
と言っていいだろう。95年発売の続編「タクティクスオウガ」は現在でも熱狂的なファンを持つ傑作だ。
しかし前記オウガ2作を手がけた松野泰己氏ら一部の中核スタッフがその直後にスクウェアに移籍。
 さらに1997年にはPC事業部が新生ボーステックとして独立・再分離した。
 独自での続編の製作が厳しくなったクエストは任天堂の支援を仰ぎ、99年発売のシリーズ第3弾「オウガ
バトル64」、2001年にGBAで発売された「タクティクスオウガ外伝」は任天堂から発売された。
 2002年6月、突如クエストはゲーム事業をスクウェアに譲渡することを発表。スクウェアに移籍した
松野氏らとクエストに残っていたスタッフが再びまとまったことで、スクウェア・エニックスからいずれ
発売されるであろうオウガシリーズ最新作には期待がかかる。
 一方譲渡によってゲーム業界から撤退したクエストは、現在PC周辺機器・ソフトを開発・販売している。
ジャレコ
代表作:燃えろ!プロ野球シリーズ(1987年〜1991年)
 ハドソン、ナムコに次ぐ3番目の早さでファミコンに参入した、ファミコン時代のゲーマーにとっては
お馴染みのメーカー。参入作は「エクセリオン」。なんとファミコンだけで50本以上のソフトを
リリースしていた立派な大手ゲームメーカーであった。だがその割にジャレコを代表する名作は?
と考えてみるとなかなかその名前が出てこないところが辛いところ。(個人的には忍者じゃじゃ丸くん)
 だがその一方で印象に残っているク○ゲーはというと、ファミスタに対抗して投手後方からの画面に
したのはいいが、強打者ならバントでホームランを打つというムチャクチャさが話題を集めた「燃えろ!
プロ野球」シリーズを始めとして、続編ではRPGになったり宇宙に行ったり迷走を続けた「じゃじゃ丸くん」
シリーズなど色々と挙がる。しかし今でもファミコンゲーマーの笑い話に度々挙げられるという意味に
おいては、やはりファミコン時代にはジャレコという存在が燦然と輝いていた(?)と言えるのではないか。
 そんなジャレコ、本数こそ少なくなったものの、スーファミ時代以降も元気にソフトを発売していた。
しかし90年代末になると、開発費の高騰とヒット作の少なさが影響し、徐々に経営は苦しくなっていった。
そこに目をつけたのが、香港でインターネットサービス事業を展開していたパシフィック・センチュリー・
サイバーワークス(以下PCCW)である。2000年8月にジャレコの株式の80%以上を取得し、子会社化した。
同年10月には社名をPCCWジャパンへと変更した。PCCWジャパンは当初親会社の技術を利用し、ブロ
ードバンドインターネット事業の開始を計画していたが、2001年に従来通りゲーム事業に専念する方針を
確認、2004年1月には商号を変更し、なんと「ジャレコ」ブランドが復活した。
そして現在もゲームメーカー専門である。ファミコンゲーマーの私としてはこの方針を支持し、
引き続き頑張って欲しいと思う。多分この会社のソフトは買わないだろうけど。
セタ
代表作:森田将棋(1987年)
 1982年に世田企画として創業。85年に「本将棋 内藤九段将棋秘伝」でファミコンに参入、
同年10月に現在の社名に変更した。同社が得意としていたのはテーブルゲームで、「森田将棋」などの
将棋シリーズは地味ながらも長期にわたってシリーズ化。アーケードでは1987年に脱衣麻雀ゲームの
人気シリーズとなる「スーパーリアル麻雀」をリリースし、こちらも息の長いシリーズになった。
しかしその他のジャンルではソフトこそ発売しているのだがあまり印象に残る作品はない。
NINTENDO64にはサードパーティとしては唯一本体と同時にソフト(最強羽生将棋)を発売し話題を呼ぶ。
しかしその64のアーケード互換基盤「Aleck64」の開発が遅れた上に、売上もさっぱりだったことなど
から業績が悪化。1999年1月にパチスロメーカー大手のアルゼの子会社となった。セタはSNKとは違い、
アルゼからの事業転換要求に従順に従った。よって現在ではパチスロホール用のカードシステムメーカー
と化し、ゲーム業界との繋がりは完全に絶たれた。SNKとセタ、一体どちらが幸せだったのだろうか?

 と思ったら、2004年6月に任天堂から発売される「レジェンド オブ ゴルファー」というゴルフ
ゲームはセタが開発をしているらしい。まだセタはゲーム業界を諦めていなかった!!
データイースト
代表作:探偵 神宮寺三郎シリーズ(1987年〜)
 1976年設立。玄人ゲーマーに「デコ」の愛称で親しまれたゲームメーカー。初期は「バーガータイム」など
アーケードゲームを中心に展開。1986年6月に「B-WING」でファミコンに参入した。ハードボイルド路線で
当時ブームとなっていた探偵アドベンチャーの中でも独自の地位を築いた「探偵 神宮寺三郎」シリーズ、
一部からはドラクエ・FFに並ぶとも劣らないという評価を受けたRPG「ヘラクレスの栄光」シリーズや、
戦車を改造するという従来のRPGにはなかった斬新な発想と自由度が魅力だった「メタルマックス」など
今なお名作と称される作品を多数ファミコンに供給した。しかしそれがあまり売上に結びつかなかった
のは残念だった。他の中小メーカーと同様、プレステ時代には開発費の高騰に苦しめられることになる。
1997年度から3期連続で最終赤字を記録。1999年11月には和議を申請。その後同社は生き残りを図る
べく、自社ゲームの版権を切り売りする一方、マイナスイオン発生装置の販売に事業を転換するなど
必死で経営再建を模索したが、結局業績が好転することはなく、2003年6月に破産通告を受けた。

 ちなみに版権の切り売りにより、「探偵 神宮寺三郎」はワークジャムが、「メタルマックス」
はナウプロダクションがそれぞれ版権を買い取り、発売されることになった。
デービーソフト
代表作:頭脳戦艦ガル(1985年)
 1980年にハドソンからの独立組で設立されたメーカー。当初はパソコンゲームを中心に製作。
倉庫番の進化形と言えるパズルゲーム「フラッピー」で一躍脚光を浴びる。その移植版をひっさげて85年
6月にファミコンに参入した。シューティングとRPGを無理やり組み合わせて今尚語り継がれるク○ゲー
「頭脳戦艦ガル」や桃鉄の元ネタになったと言われる「鉄道王」など話題作を提供していたのだが、
その「鉄道王」を1987年末に発売したのを最後にゲーム業界から手を引く。見切るの早すぎ!!
 会社自体は現在も存続しており、HP作成ソフト「ホタル」などPC用ソフトウェアを開発・販売している。

 一方、1991年にデービーソフトからさらにアジェンダという会社が独立しているのだが、
こちらは「ツクールシリーズ」の一部、「THE ビリヤード」、「俺の料理」、「ガチャろく」
いったゲームソフトを現在も開発しており、デービーソフトのゲーム精神はこちらに受け継がれている?
(この情報はデジタル・トライヴ管理人の冨島宏樹さん提供の情報です。ありがとうございました。)
テクノスジャパン
代表作:くにおくんシリーズ(1987年〜)
 1981年に、上記のデータイーストから独立した3名により設立。同社初のアーケードゲーム
「ザ・ビッグ・プロレスリング」がいきなりヒットし、順調なスタートを切る。そして1986年にアーケードで
「熱血硬派くにおくん」リリース。不良(?)を主人公に起用するという設定の斬新さ、単純ながらも
爽快感が味わえるゲーム性が受け大ヒット。翌年これの移植作をひっさげてファミコンに参入した。
 その後同社はこれの続編だけでなく、一躍同社の顔となったくにおくんを使ったスポーツゲーム等
を多数リリース。そのどれもが「誰でも簡単に味わえる面白さ」を追求した名作だった。
 そんな優良メーカーを破滅へと追いやったのが、ヒット連発で調子に乗った社長(くにお似)が
1991年に建設した「テクノス中野ビル」であった。利益のほとんどをこのビルに費やしたらしい。
当時はバブル絶頂だったので「不動産長者」を狙っていたのかもしれない。しかしご存知の通り
その直後にバブルは崩壊。更にスーファミへの移行の遅れ・80年代風不良ブームの収束などでくにお
くん人気にも衰えが見えるようになった。結局不良債権と化した「テクノス中野ビル」と、くにおくん
に頼りすぎ、新たなヒット作の育成を怠ったことがテクノスジャパンを追い詰めていった。
 そして1995年末、テクノスジャパンは倒産。社長は夜逃げしたという噂がまことしやかに囁かれた。

 2003年になり突然アトラスからテクノスの人気シリーズが復活することになった。どうやら元テクノス
のスタッフがアトラスの下請けになっているらしい。
2004年3月に第1弾として「ダウンタウン熱血物語ex」
と「ダブルドラゴン アドバンス」が発売されている。

 きむさんからの情報によると、GBAで復活した「熱血物語ex」を製作したいるのはアトラスの下請け
のそのまた下請けで(アトラスの直接の下請け会社は企画を立てているだけ)、元テクノスのスタッフは
一人もいなく、当時の資料もないので、データはエミュレーターを使って解析しているとのこと。
(情報提供ありがとうございます)
東亜プラン
代表作:スノーブラザース(1991年)
 この会社をここに入れるのには正直ためらいました。ファミコンでは上記の1本しか出してないし、
コンシューマー機ではPCエンジンやメガドライブ中心にやっていたメーカーですので。でもやります。
 1984年設立。タイトーの下請け会社として「究極タイガー」などのシューティングゲームを開発。
それまでのシューティングの常識を打ち破る斬新なシステムを多数詰め込んだ作品群はシューティング
マニアの熱狂的支持を受ける。ヒット作を連発した同社は下請けから脱却、自社ブランドで作品を発表。
「鮫!鮫!鮫!」や「ドギューン」、「バツグン」といった名作を生み出す。が、シューティングという
ジャンル自体の人気低下や、マニア向けにどんどん難易度を上げていったために90年代に入ると
徐々にプレイヤーは減少していった。さらに他社からの引き抜きによって人材も骨抜き状態にされる。
 他ジャンルへの進出など延命を図ったものの、その甲斐なく1994年に倒産。僅か10年の命だった。
しかし現在でも東亜プランが生んだシューティングシリーズのファンは根強く残っている。
元東亜プランのスタッフの一部がその後設立したケイブという会社からは「怒首領蜂」という新たな
人気シューティングゲームが生み出されている。(「峠MAX」シリーズの開発もケイブだったりする)
徳間書店
代表作:夢幻戦士ヴァリス(1987年)、ファミリーコンピュータマガジン(1985年〜1997年)
 1953年創業の出版社。オヤジ向けエロ週刊誌「アサヒ芸能」や老舗アニメ雑誌「アニメージュ」を発行。
当時の社長・故徳間康快氏が出版事業だけでなくアニメやゲーム業界への進出に意欲的だったという。
アニメの面では日本アニメーションから独立した宮崎駿氏・高畑勲氏らが設立したスタジオジブリを
資金や配給などで積極的に支援。日本だけでなく世界に名を轟かすアニメプロダクションに成長させた。
 一方ゲーム業界ではファミコン黎明期にゲーム攻略本というジャンルを開拓。スーマリの攻略本は
100万部を超える大ベストセラーとなった。さらに同社は1985年にゲーム関連出版を専門とした子会社・
徳間書店インターメディアを設立。ここから発行されたのが日本初のゲーム専門雑誌「ファミリー
コンピュータマガジン」である。ファミコンブームの最中で刊行されたこの雑誌はゲーム情報に飢えて
いたゲーマーの心を掴み、あっという間に発行部数100万部を数える巨艦雑誌となった。
 その一方で親会社・徳間書店本体は自らゲームソフトの製作に乗り出し、85年末に「ロットロット」
でファミコンに参入。計15本のソフトをファミコンに供給した。その中で有名なのは91年発売の
ディスクシステム最終作となった「ぷよぷよ」であろう。実はこれはファミマガ読者の発案が元であった。
当時は無名だったがその後セガがリリースしたアーケード版で大ブレイクを果たすこととなる。
 というようにファミコン関連事業で大儲けした徳間書店であったが、看板雑誌「ファミマガ」は90年代に
入るとファミ通・Theスーファミ・マルカツといった後発組の猛烈な追い上げに脅かされるようになる。
そして決定的だったのがPS・SS・N64の三国時代。いち早く総合誌化・またはPS・SS専門誌を発行し、
そちらに力を注いだ他社に比べ、徳間はPS・SS専門誌は出したものの、任天堂機種専門を貫く
ファミマガ中心主義を変えず。結局64の不調で部数が激減したファミマガは慌てて64専門誌ファミマガ64
と総合・週刊化したファミマガWeeklyに分割して巻き返しを図ったものの既に時遅く両誌とも
あっという間に廃刊してしまった。PS・SS専門誌もライバル誌に大きく遅れをとってしまい、
結局1999年までに全て廃刊。徳間書店インターメディアは2000年に解散し、ゲーム事業から撤退した。
同社ブランド最後のソフトは1999年6月にPSで発売された「とんでもクライシス!」であった。
 ちなみに旧インターメディアのスタッフの一部は毎日コミュニーケションズに移籍。任天堂専門誌
「Nintendo Dream」の編集に携わっているらしい。データベース誌「大辞林」の後継「広技苑」も発行。

(霧海さんのご指摘で一部の文章を修正しました。ご指摘ありがとうございます。)
DOG
代表作:亜空戦記ライジン(1988年)
 これは厳密に言うと会社名ではない。DOGとはDISC ORIGINAL GROUPの略で、当時の大手PCゲーム
メーカー7社(スクウェア、マイクロキャビン、シンキングラビット、キャリーラボ、システムサコム、クリスタル
ソフト、エム・エー・シー)が文字通りディスクシステム向けオリジナルソフトの開発・販売のために
共同で立ち上げたブランド名である。(7社の中で今のゲームファンが分かるのってスクウェアだけ…)
 DOGを実質的に取り仕切っていたのはスクウェアで、実際の販売もスクウェアが担当していた。
当時は有名なメーカーがこれだけ集まったということで期待も大きかったようだが、上記の「亜空戦記
ライジン」など実際に生み出されたソフトはいずれも現在では迷作扱いとされるものばかりだ。
 結局元々ディスクシステム向けブランドだったので、ディスクシステムの終焉と共にDOGもひっそりと
自然消滅した模様。その結果発売中止になったソフトもいくつか存在する。その中の1つに
「聖剣伝説」というソフトがあった。このソフトは後にゲームボーイ向けに開発が移行され日の目を見る。
そしてその続編2,3で「聖剣伝説」はスクウェアRPG3本柱の1つと称されるまでに成長を遂げることになる。
DOGの最大の功績は「聖剣伝説」の開発プロジェクトを立ち上げたこと…と言っても過言ではあるまい。
日本コンピュータシステム
代表作:バトルトード(1991年)
 正式名称よりも、「メサイヤ」というブランド名の方がゲーマーの皆さんにはお馴染みか。
1980年にビジネス向けシステム開発会社として設立。ファミコンには何故かスーファミ発売後になって
参入し、上記の「バトルトード」と「ダブルムーン伝説」の2本を発売する。しかし同社が活躍していた
のは主にPCエンジンとメガドライブである。前者からはキワモノシューティング「超兄貴」シリーズ、
後者からは名作シミュレーションRPG「ラングリッサー」シリーズという人気作を生み出している。
この2つのシリーズはプレステ・サターンまで続くロングランシリーズになるが、その後が続かず。
2000年2月発売のワンダースワン参入作「超兄貴 男の魂札」を最後にゲームソフトは出してない。
現在は本業のシステム開発や、何故かオリジナルキャラクター「うみにん」の版権管理を行っている。
 ちなみにその後超兄貴シリーズはグローバル・A・エンタテイメントから、ラングリッサーのスタッフ
が独立し製作されたグローランサーシリーズはアトラスから発売されている。
日本物産
代表作:クレイジークライマー(1986年)
 1970年設立の老舗ゲームメーカー。ファンには「ニチブツ」の愛称で親しまれている。1980年に
アーケードに投入した「クレイジークライマー」と「ムーンクレスタ」が大ヒットし、ゲームファンにその名を
知られるようになる。1983年には世界初の脱衣麻雀ゲーム「雀豪ナイト」をリリースしたことでも有名。
ファミコンには1986年3月に「マグマックス」で参入。同年末には「クレイジークライマー」を移植。
90年代前半にはファミコンやPCエンジンで発売された名作F1ゲーム「F1サーカス」シリーズが看板作に。
しかしその後はヒット作を生み出せず、プレステ時代には麻雀や競艇などのギャンブル系ゲームに傾倒
していった。そして2001年5月の「バーチャル競艇21」を最後にコンシューマ事業は開店休業状態に。
 現在はアーケード向け実写脱衣麻雀基盤「DVD麻雀」シリーズの販売で生計を立てている模様。
(情報提供:ただれぱんださん。情報提供THANX!)
ニチブツファンは同社の公式HPでやっている通信販売のコーナーでソフトを買って
あげよう!一部のファミコンソフトが未だに新品購入出来るのは凄い!(定価だけど)
パック・イン・ビデオ
代表作:川のぬし釣り(1990年)
 ビデオ黎明期の1970年に、ビデオソフトの販売のために日本ビクター・松下電器・TBSなど九社の
合弁により設立された企業。ファミコンには1987年末に「ランボー」で参入。元々ビデオソフト会社と
いうだけあって、やはり映画や海外のTV番組のゲーム化が多かったのが特徴。しかしその中で光るのが
オリジナルソフト「川のぬし釣り」だろう。敵と戦ってストーリーを進めていくという従来のRPGの
常識を打ち破り、まったーりと釣りを楽しむ良作RPGで、この後長寿シリーズとなっていく。
1996年10月にビクターエンタテインメントと合併し、ビクターインタラクティブソフトウェアに。
その後の顛末は「こんな意外なメーカーが〜」の「ビクター音楽産業」の欄を参照とのこと。
HAL研究所
代表作:メタルスレイダーグローリー(1991年)
 1980年設立。ファミコンには1986年に「ガルフォース」で参入するが、実はそれ以前から任天堂の「ゴル
フ」「バルーンファイト」「ピンボール」の開発に協力している。この頃から任天堂との関係は親密だった。
 自社ブランドでは「エッガーランド」シリーズなどのソフトを積極的に供給するが売上は芳しくなかった。
そんなHAL研究所が社運をかけて製作した大作が「メタルスレイダーグローリー」であった。ファミコンの
限界に挑戦したグラフィックとお色気要素は後に話題を呼び、プレミアソフトへの道を歩んでいく。
しかし既にスーファミ発売後であったことから出荷本数は少なく、嵩んだ開発費は当然回収できなかった。
 同社は経営危機に陥る。普通の会社ならここでほぼジ・エンドなのだが、HAL研究所は別であった。
親交のあった任天堂から、消失を惜しまれ支援を受け会社は危機を脱出。これ以降HAL研究所は
任天堂の下請け会社に専念することになる。下請け第1弾ソフトとしてまず「星のカービィ」を発売。皆さん
ご承知の通り、この作品は大ヒットを記録し、現在では完全に任天堂の看板シリーズの1つとなっている。
94年には糸井重里氏と共同で「MOTHER2」を製作。これもヒットする。さらに64では「大乱闘スマッシュ
ブラザーズ」の開発を担当、これも160万本突破の大ヒットを記録。ファミコン時代はほぼ無名だったメー
カーが、今では任天堂の右腕として、大ヒット作品を次々と生み出しているのだから世の中分からない。
 更にHAL研究所の前社長・岩田聡氏は今や任天堂の社長。こんなサクセスストーリーはなかなかない。
ビック東海
代表作:ゴルゴ13 神々の黄昏(1988年)
 静岡県を中心にガスの供給や住宅事業などを手がけているTOKAIが、1977年に有線テレビ事業
などの情報機器部門を子会社として独立させたのが始まり。その後ファミコンブームに目をつけ、
ゲーム事業をスタートさせる。初のファミコンソフトは1986年11月発売の「アイギーナの予言」であった。
上記作の「ゴルゴ13」をはじめ、ほんの一時期人気のあった子役を大胆にも主人公に起用した「カケフ君
のジャンプ天国・スピード地獄」やタイトルだけはインパクトがありまくりの「突然!マッチョマン」など
ごく一部の層で話題になったソフトを発売した。その後PCエンジンやメガドライブ、スーファミにも進出。
プレステやサターンでもソフトを発売したがヒット作には恵まれず、静かにゲーム業界からフェードアウト。
現在では本業であった情報事業や、ケーブルテレビやインターネットなどの通信事業などを手がけている。
ちなみに同社最後のゲームソフトはNINTENDO64で98年3月に発売された「スペースダイナマイツ」。
ヒューマン
代表作:エジプト(1991年)
 ファミコン誕生と同じ年の1983年に設立。設立後しばらくはバンダイのファミコン版「SDガンダム」
の開発など下請けに専念。90年以降PCエンジンで自社ブランドのソフトを積極的にリリースし始める。
その中でも「ファイヤープロレスリング」シリーズや「フォーメーションサッカー」シリーズはヒット作に成長。
その一方でファミコンでリリースしたソフトは上記のパズルゲーム「エジプト」ただ1本のみである。
 ヒューマンといえば1990年に世界で始めてゲームクリエイター養成学校「ヒューマンクリエイティブ
スクール」を作ったことで有名であるが、「エジプト」はその学校の生徒が開発した作品らしい。
 その後プレステ時代にも「クロックタワー」や「爆走デコトラ伝説」などの話題作を提供していたのだが、
1998年にアーケードから撤退した際の在庫償却で大幅な赤字を計上したことから資金繰りが悪化。
さらに同じ時期に同社のスタッフの多くが他社に引き抜かれるといった事態も発生した。
結局1999年11月に和議を申請、ゲーム開発から撤退しゲームスクール事業に専念し再建を図ったが、
すぐに行き詰まり、2000年にドッドウエル ビー・エム・エス、パソナソフトバンクに学校も売却し、
ヒューマンは解散した。そのヒューマンクリエイティブスクールはパソナソフトバンククリエイティブ
スクール→プロフェシオクリエイティブスクールと名称をころころと変更した挙句、後発のライバル
ゲームクリエイター養成学校との競争に敗北し、2003年3月末日をもって閉校した。
 現在旧ヒューマンの人気シリーズは旧ヒューマンの開発陣が移行したスパイクという会社が主に発売。

 ちなみに「ヒューマン・アカデミー」という学校はザ・ヒューマンという別会社の運営なのでご注意を。
ボーステック
代表作:レリクス暗黒要塞(1987年)
 元々はPCゲームメーカーとしてスタート。色々なキャラに魂を乗り移らせ、ゲームを進めていくという
斬新なアイデアが話題を呼んだPCゲーム「レリクス」の移植でファミコンに参入。FC版の評判は悪いが。
その後ファミコンでは人気アニメのゲーム化「めぞん一刻」やこちらも名作ウォーシミュレーション
「大戦略」の移植版などを発売、同じ頃ホームのパソコンでは「銀河英雄伝説」が人気作になる。
 しかし1990年にクエストに突然吸収合併され、ボーステックはここで一旦消滅する。
1997年にそのクエストのPC事業部が独立する形でボーステックは復活。従来からの人気作「銀河英雄
伝説」を中心としたPCゲームの他に、「ハイパー家計簿」などの実用ソフトや携帯電話向けの
ゲームコンテンツを製作するなど、現在も元気に活躍中だ。

「あのメーカーは今?」お楽しみいただけたでしょうか?事業転換して活躍しているメーカーあれば
既に星となってしまったメーカーもあり…様々ですね。しかし例えメーカーが撤退・消滅しても
そのメーカーが生み出した作品群はプレイした人の心に残り続ける…ものもあるでしょうね。
現在のゲームメーカーにはそういった作品を多く生み出してくれるよう祈るばかりです。

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