その後のデメトリオ 前編
作者: シウス   2009年06月15日(月) 22時41分42秒公開   ID:G2uK9fjVNL2
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 そこから見上げた空は……限りなく狭かった。
 代わりに、視界の大半を占めるのは、二百メートル程の高さを持つ崖。二つの崖に挟まれるようにして、わずかな空が『道』のように見えているのだ。だが空が見えているうちは、まだ良いほうである。普段なら大抵、崖のあいだに濃厚な霧がかかっており、それらが太陽の光を遮る。崖の上―――すなわち地上だ。地上の人間が下にいる人間を見つけられないのも、それが原因だろうと考えられる。
「というより、それ以前に誰もここの上を通りかかる事なんてないよね。誰も通らないんだから、誰も私を見つけてくれない……当然だよね」
 彼女は寂しげに、独り言を口にした。
 この谷に落ちたのが3年前。当時は崖下の川が増水し、溢れ返っていたから死なずに済んだ。
 神に―――アペリスに感謝した。
 後日―――アペリスを死ぬほど恨んだ。呪ったと言っても良いほどに……。
 地上に帰る道など、当然ながら無い。これだけ険しい崖を、ロッククライミングする勇気なども無い。誰が見ても『不可能』という単語にしか辿り着かない。
 絶望しているが、生きている以上、自殺するつもりは無いし、まだそこまで絶望していない。
 誰にも会えない日が続き、そのためか独り言が自然と増えていった。
「私……いつまで生きられるのかな?」
 悲しげに……を通り越し、虚無感すら感じる声で、彼女は呟いた。
 いつまで生きられるか―――と言っても、彼女は病気でもなければ大怪我もしていない。健康である。何度も何度も着たり洗濯したりしすぎたせいで薄く透き通る布になってしまった服から見える身体のライン。タンクトップにも似た服から露出した、艶めかしい肩や腕。同じようにスカートから見える脚。そのどれもが健康であり、そして美しい。
 そして何より、彼女は美人だった。
 肩を越えるくらいの金髪に、晴天を思わせるような蒼い瞳。かなり整った顔立ち。
 今の彼女の目は、まだ死んではいない。しかし悲しく、そして悔しさの色を呈したまま、空の道を瞳に映していた。
「……ここから出たい。自由になりたい。あの空の向こうへ飛びたい」
 声に出してから、涙が溢れてきた。最後の『空を飛びたい』というのは、この谷から出られないことに絶望したときから、寝ても覚めても妄想し続けてきたことだ。
 
 ―――飛べなくてもいい。せめて自由が欲しい。そして誰かの温もりが欲しい。
 
 何千、あるいは何万回もした妄想。
 
 ―――分かってる。さんざん外に出る方法は試したのだ。それでもダメだから―――
「あたし……っ、もう……ここから出られない……っ」
 彼女はしばらく肩を震わせ、嗚咽を堪えて泣き続けた。
「アペリス―――か。神様は一体、何をしているのかな?」
 答えは返って来なかった。
 おそらく自分はここで果てるのだろう。
 無心論者という言葉があるが、生まれたときから神を信じて生きてきた以上、今さら否定はしない。代わりに怨嗟の言葉を吐くだけだ。同時に、自分の身が滅びるときを待つだけだ。
 
 
 
 満身創痍のエアードラゴンの上で、同じく満身創痍の青年は辺りを見渡した。
 何人もの部下―――いや、仲間たちが死んだが、それでも半数くらいは逃がすことができた。
 青年の上に影が落ちた。見上げれば、自分達の『疾風』部隊を全滅させた三人が、自分を見下していた。一人は敵国であるシーハーツで有名なネル・ゼルファー。あとの二人は、アーリグリフに落ちた謎の物体に乗っていた二人の男だ。
(まったく……こいつらには度肝を抜かされる……)
 エアー・ドラゴン―――このゲート大陸の生態系ピラミッドで、上から数えて指折りの位置にいる存在だ。……まだまだ『上』の存在もあるかもしれないが、今のところそういった存在は聞いたことは無かった。
 とにかく、そんなドラゴンに跨り、空を駆ける飛竜騎士団『疾風』は、老若男女を問わずに憧れる存在だ。その強さもさることながら、人類が幼少の頃から憧れる『人が空を飛べる』という唯一の方法でもあるからだ。
 自分が空を飛ぶことに憧れ、一般的な騎士になるまでは『貴族』という肩書きと親の七光りであっさりとなれたが、『疾風』になるには実力と、そしてエアー・ドラゴンと契約するという命がけの儀式が必要だった。
 修行をした。
 一言で言うなら、それだけの事だ。当然ながら、その苦労は並大抵のものではない。
 それらを走馬灯のように思い浮かべながら、彼はエアー・ドラゴンに跨り―――しかし地面に這いつくばりながら、目の前に立つ女を睨み上げた。
 その視線を、ネル・ゼルファーは気にした様子も無く、挑発的な口調で言った。
「どうしたんだい? この二人がアンタの言うこと聞かないと、アタシ達3人はここで死ぬことになるんじゃなかったのかい?」
 青年は悔しげな顔をした。もっとも、全身を包んでいる鎧のおかげで、その顔が三人に見られることはない。青年は『せめて嫌がらせだけでも……』と思い、
「だがな……国同士の戦では、我々が勝つのだ。弱者は所詮、強者の奴隷でしかない……」
 嫌味をたっぷりと込めて言ってやった。それでネル・ゼルファーが怒ったのかどうかは、彼女の表情からはうかがえない。彼女はただ一言、
「アンタ……うるさいよ」
 ポンと、無造作に放たれた彼女の蹴りは、エアードラゴンと、その上にまたがる青年を奈落の底へと突き飛ばした。
「うわあああああああぁぁぁぁッ!!!」
 重力の影響で、全身が自由落下を始める。
 彼の人生は、そこで終わるはずだった。
 今までに何度も死線を潜り抜けてきた猛者ではあったが、この時だけは死を覚悟していた。
 こみ上げる恐怖を感じつつ、青年―――『疾風』副団長は意識を失った。
 代わりに、それまで意識を失っていた飛竜が身をよじらせ、グライダーのように空気抵抗を受ける体勢をとった。命の終わりを感じつつも、己の相棒(主ではなく、彼らは相棒と解釈している)を死なせないために。
 
 
 
 崖の下に閉じ込められた彼女と、そこに降ってきた彼。
 これは誰かが世界の命運をかけた戦いの道を歩んでいる時、誰も見てないところで起こった物語である。
 
 
 
 ―――ドスンッ!
「うわっ!?」
 夢の中で硬い地面に叩きつけられ、その時の悲鳴で青年は目を覚ました。
「今のは夢か? って、ここはどこだ!?」
 一瞬で眠気が覚める。勢い良く上体を起こすが、視界が真っ白になっていた。両目を負傷したのだろうか。それと同時に気付く。自分はバンザイのポーズをしていた。
「あ、ごめん。着替えさせている途中だったから」
 若い女の声に驚き、今の現状を把握する。身動きを止めると、誰かがシャツを下に引っ張る感触がし、続いて視界が開けた。辺りを見渡す。どうやらここは、どこかの民家のようだ。
「目が覚めたようね」
「ん? うおっ!?」
 突然呼びかけられ、ふと自分の隣を見た青年は驚いて声を上げた。呼びかけてきた声の主はそこにいた。自分が寝かされているベッドに腰掛け、まるで寄り添うような至近距離で、自分の顔を覗き込んでいる。
 突如、その顔がプゥッと膨れ、
「人の顔見て、いきなりそのリアクションはないでしょ?」
「あ、その……すみません。その……ここはどこで、あなたは誰でしょう?」
 すると女性は視線を逸らしながら、
「ここは死後の世界」
「マジで!!?」
「嘘よ」
「…………」
 女性はゆっくりと立ち上がり、金髪頭を掻き、
「驚いたわ。外で洗濯をしていたら、上流から人が流されてきたんだもの……」
 特に驚いた様子の無い声で言う。
 青年はとっさに気付き、
「じゃあ、俺を助けてここまで運んできたのは……」
「私よ。ついでに着替えさせてげたのもね」
「ははは……」
 青年の口から乾いた笑いが漏れた。シャツだけならともかく、どう考えても今穿いている下半身の下着まで乾いたものになっている。
「ともかく、命を救ってくれて、ありがとう。えっと……」
「何?」
「君の名前は?」
「ああ、なるほどね。私はフィエナ。フィエナ・バラード」
「俺はユリウス。ユリウス・デメトリオだ」
 青年――ユリウスが名乗ると、フィエナは首をかしげた。だがすぐに思い当たったのか、
「……デメトリオ? ―――ああ。たしかあなた、アーリグリフで疾風の副団長やってた人ね」
「へえ、俺も有名になったもんだな。そういう君は……」
 そう言って、ユリウスはフィエナの肩を指した。ノースリーブの薄手のシャツから、大きな刺青が見え隠れしている。タトゥーが趣味でない限り、この国で彫り物をするのは一つしかない。
「君は施術師だな。シーハーツの?」
 シーハーツの住民でなくとも、施術師は存在する。隠密の者が仕入れてくる情報により、アーリグリフ人でも何人かは施術が使えるのだ。ユリウスもまた、その一人である。
「ええ、そうよ。シーハーツ人がアーリグリフ人を助けたことが不思議なの?」
「まあ、そりゃあな。だってお互いに戦争してんだぜ?」
 口で言いながらも、なぜか目の前の女性には、敵対心が見られなかった。同じくユリウスも、不思議と敵対心が沸いてこなかった。
「それもそうね……。でも、理由を聞いたら納得してくれると思うわ」
「……理由?」
 首を傾げるユリウス。
「じゃあユリウス、今から質問するから答えて。いま私達がいるここはどこだと思う?」
「うーん、窓から差し込む光の明るさからして……カルサア?」
 ゲート大陸では、地方によって光の明るさが大きく異なる。王都アーリグリフでは、常に雪が降り続いているためか、ほんの少しだけ薄暗い。それに比べると、ここの明るさはカルサアの町と、ほぼ同じくらいと言える。
「まあ、たしかにここはカルサアだったわね」
「……『だった』?」
 その時、ユリウスは猛烈な不安に襲われた。どこかで聞いたことがある。
 フィエナはそんなユリウスを見て、悲しげな顔をしながら言った。
「昨日、あなたはカルサア山道から落ちてきたの。だからここは、あなたが落ちた崖の下」
「………………じゃあ、この家は?」
「数十年前まで使われていた、旧カルサアの村の中の家よ。アーリグリフ人なら場所までは知らなくても、聞いたことはあるはずだわ」
 旧カルサアの村―――アーリグリフの住人全員とまではいかなくとも、カルサアに住む者、もしくはユリウスのようにカルサア出身の者ならば誰でも知っている事である。
 カルサア山道よりも遥か二百メートルもの崖下に存在する村。村には唯一の出口と呼ばれる坑道があり、そこが外界との接点となっていた。ある日のことだ、事前に坑道が崩れ落ちることに気が付いた者が村人を村から避難させた。そして坑道が崩れ落ちたのは、その翌日のことだった。
 それ以来、ここは陸の孤島と化したのだ。分かりやすく言えば、ここにいる時点で、もうここから地上へは戻れないということになる。
「この村に住んでいた人達がね、急いで避難したものだから、村の中にはいろいろな物資があったわ。しかも畑付きで。おまけに村と隣接するように流れてる川があるから、魚だって食べられるし―――」
「ちょ……ちょっと待って! じゃあ何で君は、こんな寂しい所に住んでるんだ?」
「―――落ちてきたのよ。大嵐の日にね」
 再び悲しげな顔になるフィエナ。
「あの時、私はとある任務の帰りにカルサア山道を通ることにしたの。本当なら嵐が去るまで待ったほうが良かったんだけどね、どうしても急がなければ間に合わない状況だったわ。仕方なく山道を通っていたら案の定、足を滑らせて崖下まで一直線。落ちたところが偶然にも、増水した川の中だったから助かったの。―――もう3年も前の話よ」
「…………」
 フィエナの言葉は信じられないものだった。こんな所で誰にも会うことなく、彼女は3年間もの間、孤独に暮らしていたというのか?
「あれ? じゃあ、俺はどうして助かったんだ? 俺の時は嵐どころか、快晴だったぞ?」
「あなたの場合なら……エアードラゴンにでも乗ってたんじゃないの? って言っても、当のドラゴンの姿は見当たらないんだけどね」
「エアードラゴン………ゼノンの奴か!! あいつ……俺を助けようと……?」
「でも、そのドラゴンの姿は見当たらなかったわ。残念だけど、もう死んでると思った方がいいわ。川で流されたのかもね。ずっと下流の方へ行ったら、水が地下に潜るようになってるの。あそこに流されたらもう、戻れないわ。ある意味で、この谷からの唯一の出口かもね」
 それを聞いた瞬間、ユリウスは目の前が真っ暗になったような錯覚を覚えた。目から一筋の涙が流れ落ちた。自分のパートナーとして共に戦ってきた戦友が、共に生き抜いてきた友が、こんなにもあっけなく死んでしまったのだ。

⇒To Be Continued...

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