理想と現実と@-Those exposed to the pale blue rain-
作者: Lies in the truth   2010年11月02日(火) 07時11分13秒公開   ID:0iv14BfJ/zk
 午後11時 都内の繁華街
 アルコールで軽く麻痺した頭を抱えながら、“白衣の天使”ならぬ白衣の刑事である宝月茜は、家に帰るために夜の街を歩いていた。
「まったく、よくところでこんなに飲めたものよね…」
 大きな事件の1つが解決しとりあえず祝杯を、と仲間ともに酒場に繰り出したのである。最初は、仲間とともに事件解決を楽しく祝おうと思った茜であったが、その健全な予想は完全に棄却された。
 理由の1つ目は、場所の問題である。今宵、宴会があった場所は日本有数の繁華街であるが、警察と対等に渡り合えるほどの勢力がのさばっており、アウトローな雰囲気を醸し出している。また、その場所の存在意義も酒食を嗜むよりも“女性”を嗜むことに重きを置いている。免疫の無い茜は、羞恥心を感じざるを得なかった。
 2つ目は、酒の飲み方である。普段ストレスを感じている反動なのか、刑事の仲間たちは飲むと決めたら徹底的に飲む。当然、茜も付き合いで飲まされるため、血中のアルコール濃度は跳ね上がり、それに反比例して財布の中身が軽くなるという不運に遭うことになった。それでも、同僚と共に囲む宴は格別であった。
「今度は、お酒より甘いものをやけ食いしたいわ。揚げたての黒糖かりんとうをバリバリと…」
 違う意味で不健康なことをアルコール混じりのため息を吐きながら茜は呟いた。同時に、陶酔が頭痛に変わりつつあり、(もっともその種は、アルコールだけではないが)喉も激しく渇いてきた。
「コンビニで、グレープフルーツジュースでも買おうかしら」
 虚ろな目で当たりを見回す茜だったが、視界に飛び込んできたのは意外なものであった。ニット帽とパーカーという、繁華街にあまり似つかわしくない格好でネオンが煌めく雑居ビルへと入っていくその姿は、かつての恩人であり密かな憧れを抱く人物であった。
「なっ成歩堂さん?」
 なぜこんなところにいるのか、という疑問を抱く前に、目の前の光景に対して茜の思考は停止しかけていた。成歩堂が入った雑居ビルの看板は、妖しい色彩と卑猥な響きのフレーズが多数散りばめられていており、あられもない姿の女性の写真が金額とともに張られていた。つまり、女の「性」を買う場所であった。
「うそ…でしょ?」
 その出来事は酒で高揚していた茜にとってはあまりに衝撃的で、まるで楽園で酒の神バッカスと共に狂喜乱舞した後に、足を踏み外して奈落へと堕ちていくような気分になった。

 翌日の警察署は、昨日の宴がなかったかのようにさえ思えるほど普通だった。署内の刑事たちは次から次へと起こる事件に対応すべく憩いの場であるはずの食堂でさえ慌ただしい。しかし、茜だけはその光景から取り残されるように、鉛色に染まったハートを抱えながら、肉うどんを弱々しくすすっていた。―喜びや楽しみの出来事の後、日常に戻るときに、人は幾ばくかの寂しさを感じるものである。しかし、その気持ちの中で、次の喜びや楽しみに思いを馳せながら、また日常を過ごしていくのだろう。
 だが、哀しみや苦しみを感じた後はどうすればいいのか。自分の憧れの人の別の一面を目撃し、裏切られたと感じているこの気持ちの中で、どうやって希望を見出すのか、何を目指せばいいのか、何を辿ればいいのか―
「…っ、ごほ、ごほっ!」
 柄にもなく、哲学的なことを物憂げに考えていたら、肉うどんを詰まらせてしまった。朝からこのような調子である。他にも、成歩堂が出入りしていたビルつついて調べるために、生活安全課に出向き資料集めに夢中になり、本業である事件の聞き込みを忘れて上司に大目玉を食らったり等の不運のオンパレードが続いている。
「落ち着くのよ…冷静に、客観的になるのよ、茜!」
 そう言い聞かせて、茜は手に入れた情報をもとに、論文の構成を組立てるように事柄を整理し始めた。


 まず、情報によるとビルにはかつての特殊飲食店の流れを汲む店舗は入っているものの、現在においては摘発の対象になるようなものではなかった。したがって、成歩堂がその店に入ったとしても何が悪いのか?公序良俗の観点からいえば好ましくはないことは事実だが、法律に違反しているわけではない。また、成歩堂も立派な男性であり、性欲もある。それ満たすことは生物学上、何の矛盾もない。よって、自分が気にすることは筋違いである。


 このように論理的な結論を導くのは可能であるが、その後に浮かぶ、成歩堂が女性と抱き合う淫乱な光景が茜を狂わせる。
「―嫌っ!!」
 茜は堪らず声を挙げてしまった。しかし、周囲の注目を感じたのか、激情に駆られ、取り乱したくなる衝動を押し殺し、食器を片づけるためにその場を去ろうとする。その時、背後から聞きなれた声を掛けられた。
「アカネちゃん!」
 振り向くと、昨日見たニット帽とパーカーを着た男が立っている。その人物は茜の思考をかき乱す原因である成歩堂であった。
「成歩堂さん…」
「いやね、暇だったし、ちょっとここら辺まで散歩に来たんだ。そうしたら、急に、タイホくんランチセットが食べてくなってね。一緒に食べようかと思ったんだけど、一足遅かったかな?」
 通常ならば、成歩堂の訪問を喜ぶ茜だが、昨夜の光景がフラッシュバックしてしまい、まともに話すことができず、
「…これから、現場に行かなければ行かないので失礼します…」
と、反発した磁石のように成歩堂から逃げてしまった。取り残された成歩堂はいつもと違う茜に様子を訝しげに思うものの、
「…とりあえず、お腹すいたなぁ…」
と、ポケットの中の小銭を探りながら、券売機へと向かった。

 現場に赴くというのは刑事の業務の一つであるが、人目に付かないところで考えごとをする口実にもなりうる。茜は警察署を離れ、塗総の剥げた公園のベンチに座っていた。
 この公園は大型商業施設(SC)に併設されており、インセンティブ・ゾーニングと呼ばれる都市計画の一部として、SCが保有する土地の一部が使われている。自らの土地を公共施設として地域に提供するとは聞こえはいいものの、建築規制の緩和というインセンティブ(報奨)目当ての場合もあり、この場所のように持続的な管理がなされておらず寂れていることが多い。
「やっぱり、成歩堂さんは変わったな…」
 というのが、茜の正直な感想であった。
 裁判員裁判の時、被告人を無実の罪から救ったのは弁護人の王泥喜の功績ではあるが、真犯人を追いつめることができるほどの証拠が揃えることが出来た事に着目すれば、成歩堂の捜査が大きく貢献していると言える。しかし、そのやり方は正当性に欠けていることは決して否定できないものであり、自分の記憶にある成歩堂のものとは程遠かった。湛える笑顔は皮肉を体現し、深い闇を持ちながらも、鋭い光を放つ黒曜石のような瞳をしている彼に昔の面影を感じることのできる人間は何人いるだろうか。それでも茜は彼を信じようとした。少なくとも、金と引き替えに一時の欲望を満たすような安っぽい人間には思えない…いや、思いたくなかった。
 そのようなことをぼんやりと考えていた茜の思考を遮るように、空から額に冷たい雫が降ってきた。
「雨だ…」
 この季節には珍しい通り雨だった。幸い、座っているベンチは東屋の下にあったため、茜はびしょ濡れにならずに済んだが、公園の遊具は降り注ぐ雨に容赦なく晒されていた。これらは長い時を経たのち、いずれは朽ち果てるだろう。
 人間も同じであろうか、と茜は思った。忘れ去られ、多くの悲しみや不幸に満ちた境遇に長い年月にわたって晒されてしまえば、別人に変えてしまう程、心は徐々に荒廃し、腐朽の時期を向えるだけなのか…
 茜は、かりんとうの袋を開け貪り始めた。いつもならば、程良い糖分は茜の空腹と荒んだ気持ちを静めてくれるのだが、今日はそうではなかった。寧ろ、抑えるどころか、感情が高揚し目から微熱を帯びた体液が一筋流れた。それは、茜がいつの間に封印していた筈の涙であった。

―To be Continued―
■作者からのメッセージ
以前、よく出没していたものです。
前の時のパスワードを忘れたので、新しくしました。

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