疑われる者の孤独
作者: 柊 睦月   2008年08月30日(土) 20時33分57秒公開   ID:hvaVoCuM2RA
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 その日の仕事を全て終わらせ、自宅に帰ろうとしていた時だった。

 私は検事局の静かなロビーを歩いていた。
 連日積み重なった仕事から解放され、体も軽く感じる。この二日間は周りなど目に入らないほど多忙だったのだ。
 もう夜も遅く、勤務時間はとうに過ぎている頃。ロビーにいる人間はまばらだ。
 その中に、若い二人の男がいた。彼らは立ったまま言葉を交わしているところだ。一方の男は眼鏡をかけている。
 私は二人のそばを通り過ぎようとした。彼らの会話が静まったロビーに響く。
「なぁ、知ってるか?」
 眼鏡をかけた方の男が、やや興奮した様子で言った。私の耳にもはっきりと届いたが、どうせくだらないことなのだろう、と気にも留めずに彼らの横を通過する。
 しかし私は、次の言葉に耳を疑った。

「成歩堂龍一がさぁ、弁護士資格を剥奪されたんだってよ」

『なるほどうりゅういちが』さぁ……
『べんごししかくをはくだつされた』んだってよ……
 響いた。私の心に、何度も何度も。
 私の中に、一人の男が描き出された。
 青いスーツにとがった髪型がトレードマークの『ベテラン』弁護士、成歩堂龍一。法廷では、依頼人を全力で守り抜く男だ。
 ――とても結びつかない。私の知っている彼と、『資格剥奪』という言葉……。
 その言葉は、私の心を掴んで離さない。私はその場から動けなくなっていた。
「なんでも、ねつ造した証拠品を提出したらしいんだ」
 先程の声がした。眼鏡の男だ。
「ねつ造?」
 もう一人の男が聞き返す。
「ああ。何だったかな……確か、紙っぺら一枚をねつ造した、って聞いたな。本人は違うと言い張ってるみたいだけどな」
「ふぅん。あんな有名な男でも、そんなことってあるんだな」
 あまり興味がなさそうな男の声。その言葉と口調に、私は微かな不快感を覚えた。
「ま、あんまり有名になりすぎるのも良くないってことかな」
「だな。有名になりすぎないように気を付けなきゃな」
 冗談めかしてそう言うと、彼らは声を揃えて笑った。
『ねつ造した証拠品』……
 それを聞いた私の中に、数年前の記憶が蘇った。苦々しい記憶だ。
 私はその言葉で、散々苦しめられた覚えがある。彼――成歩堂龍一は今、以前の私と同じ状況に置かれているのか?
 ……まさか。悪い冗談に決まっている。彼に限って、そんなことは――……
 そこまで考えると、私は検事局をほとんど駆け足で飛び出したのだった。

 車に乗り込み、エンジンをかける。シートベルトをするのももどかしい。はやる気持ちを抑え、アクセルを踏んだ。
 仕事の疲れは全く感じない。余計なものなど目に入れず、ただ前を向く。夜の景色が流れていく。
 頭の中には、先程聞いた会話がこびりついていた。
『成歩堂龍一が、資格を剥奪された』……
『ねつ造した証拠品を提出した』……
 冗談だ。どこかの誰かが、面白半分にデマを流したのだ。
 そう考えようとするが、どこか引っかかる。彼らの会話は、あまりにも現実味を帯びていたのだ。
 本当なのではないか。彼は本当に、弁護士資格を剥奪されたのではないか。
 その思いが、私を前へと進ませる。

 私の目指す場所はただ一つ――成歩堂法律事務所だった。




 様々な感情が渦巻く中、一直線に車を走らせる。
 ようやく事務所の入り口が見えてきた。
 車を止めて降りると、入口めがけて駆け出す。
 夜も遅いのだから、もう鍵は閉まっているだろう。そんな思いがよぎるが、私は構うことなく突進していった。
 ノブを掴み、思い切り引く。扉は思いがけず大きく開き、私は中に滑り込んだ。そのままの勢いで叫ぶ。
「成歩堂!」
 背後の扉が重たく閉まった。その時初めて、中が真っ暗だということに気づく。しんとして、人の気配がない。
 私は突然の足止めを食らったように感じた。自分の声と息遣いだけが、空しくそこに響く。
 留守だろうか――とも思ったが、玄関の鍵を開けたまま留守にするのはおかしい。
 私はもう一度呼ぼうとした。
「成――」
 灯りがついた。ゆっくりとした足音が聞こえ、一人の男が姿を現した。
 カッターシャツに青いズボン。たった今、仕事から帰ってきたかのような格好だ。顔には疲れた様子が浮かんでいる。
 彼を見ると、私の中に温かいものが広がった。
 すると彼の方も、柔らかい表情になった。
 ――安堵、だろうか。
 笑顔はなかったが、一瞬で軽くなった彼の表情を見て、そう思った。
「成歩堂……」
 私は彼の目を見て呟いた。
「御剣……」
 彼も小さく口を動かし、呟いた。その後の言葉は続かない。
 成歩堂は私を見つめるだけだ。私も彼を見つめる。
 その時、彼の表情が変わった。同時に視線も逸らす。
 目には、一瞬前とは全く別の――悲しみのような色が浮かんでいる。
 私は突然の変化に不審感を抱いた。
 おかしい。いつもの彼とは違う。
 彼に何かあったのだ。私は直感的にそう感じた。
 目の前の彼と、先程聞いた言葉が重なる。
 資格剥奪、ねつ造した証拠品――
「成歩堂……何があったのだ?」
 私は尋ねた。
 彼は黙ったままだ。浮かんでいる表情は変わらない。
「私に、話してくれまいか。本当のこと――真実を」
 その言葉で、彼は再び変化した。
 微かな驚きが、目の中に芽生えた。その目で私を見つめる。
「御剣……どこまで知ってるんだ?」
 彼の方から尋ねてきた。私は頭の中で、これまでの記憶を整理する。
「私は噂を聞いただけだ。キミがねつ造した証拠品を提出し、弁護士資格を剥奪されたと。それが事実かどうかはわからない、が――」
 私は一旦間を置き、彼をじっと見た。
「キミの様子からすると、何か……あったようだな。一体、何があったのだ?」
 彼はすぐには答えなかった。しばらく、視線と視線、感情と感情が交差する。互いが互いを探り合っているようだった。
 そして彼は、おもむろに口を開いた。
「その噂は、ただの噂じゃない。全て、事実だ」
「まさか!」
 頭より先に口が動いた。
「キミが、ねつ造を? 信じられぬ、一体何を根拠にそのようなことを!」
「弁護士バッジがない。見せろと言われても、見せられない――これが証拠だ」
 私は我に返った。
 彼の言葉が、悲痛な響きに満ちていたからだ。
 彼の言葉は本当だ――そう感じさせる何かが、その中にはあった。
「なぜ……?」
 私は呟いていた。
「それは――」
 彼は言葉を止める。一瞬の間。
「それは、お前が聞いた噂の通り。ねつ造した証拠品を提出したからだ」
 しっかりとした言葉だった。しかし、私にはその言葉が妙に響いた。
 彼は今、本心を偽ったのではないか。彼のとった一瞬の間が、そう感じさせた。
「本当か?」
 私は成歩堂の目を見て確かめた。彼も負けず劣らず私を睨め返す。
「ぼくはバッジを剥奪されたんだ。それが事実なら、理由だって事実、だろう?」
「事実の中にも虚偽は存在するかもしれぬ」
 私は即座に返した。成歩堂は黙った。
「少しでも疑問が残る限り、私はどこまでも疑い続ける。――私に、証拠を見せることができるか? キミがねつ造したという証拠を」
 成歩堂は私と目を合わせようとはしなかった。
 沈黙が流れる。彼は何か考えているようにも見えたが、逆に何も考えていないようにも見えた。
 長い、重い沈黙だった。私は彼が自ら口を開くのを待っていた。
 会話の余韻が完全になくなった頃、彼はようやく話しだした。
「お前が、あの場にいてくれたらな……」
 語尾は小さくなり、消え去った。
「お前のようなやつが一人でも、あの場にいてくれたら。ぼくはきっと、こうはならなかっただろうな」
「あの場?」
「弁護士協会の諮問監査機関。今日の会議に、お前もいてくれればよかった」
 彼は私の目を見た。悲しみが滲んでいる目で。
「なぜだ」
 私は尋ねる。成歩堂は一瞬躊躇して答えた。
「ねつ造を本当に疑う人なんて、きっと一人もいなかったんだ。あの場には」
 そう言った彼の表情は、苦渋に満ちていた。
 ねつ造を疑う者。もしそのような者がいれば、彼はこうはならなかった――
「と、いうことは……キミは無実だ、ということか」
 彼は頷かなかった。頷こうかどうか迷っている様子だ。
 私は、ふと体が楽になった気がした。
 成歩堂は無実――
 徐々に頭の中を支配しだしたのは、その言葉だった。
「御剣は、どうしてぼくがやってないと思うんだ?」
 成歩堂が尋ねた。私はしっかりと答えを返す。
「キミを知っているからだ」




「キミはねつ造などしない。私は自信を持って言える。
法廷で、目の前で行われる明らかな不正。キミはそれを、許されないものとして敵視してきた。そんなキミが不正をしたという事実は」
 言葉を止め、彼を睨む。
「今までのキミの行動から、大きくムジュンする」
 私の頭の中は、徐々に整理されてきた。
 成歩堂はねつ造などをする男か?
 私は考えていた。
 彼はじっと私を見つめている。
「そうか」
 間の後に、彼は言った。ただ一言だけ。
 そしてまた沈黙が流れるのだった。

 ――そうだ。
 彼がねつ造をするなど、あり得るはずがない。これほどまっすぐな男が。
 彼は、自分の名誉の為にねつ造をするほど愚かではない。
 公明正大。彼はそんな男なのだ。
 たとえ依頼人でも、有罪ならば有罪。彼は心から信じられる者だけを、全身全霊で守ってきた。
 不正を憎む彼自身が、自ら犯罪に手を染めるなど、考えられるだろうか。
 私はそれを忘れていたのだ。とんでもないことを小耳に挟み、動揺していたのだ。
 よく考えれば何でもない。やはりそれは、真実ではなかったのだ。
 成歩堂龍一は、無実なのだ――!

「……ぼくは」
 成歩堂が口を開いた。
「正直がっかりしたんだ。あれだけ人がいてほとんど全員が、少しも疑うことなく処置を決める。
 法曹界って、そんなところだったのか? 人を信じることができないような、そんなところだったのか……?」
 弁護士協会の諮問監査機関――彼はそこから相当の非難を浴びせられたのだろう。
 私は想像した。
 周りからは孤立し、自分を理解してくれる者はいない。
 究極の孤独――その辛さ。
 私は過去に味わった苦い経験を思い出し、 彼の状況と重ね合わせていた。
 恐らく、彼は知ったのだ。疑われる者の孤独を。
 この一連の事件で、今まで以上に身に沁みて感じたのだ。
 彼は、被告人という名の孤独に対し、いつも手を差し伸べていた。彼自身が孤独を知っていたから。
 彼は相手を信じることにより、相手の味方になっていた。
 私も、何度彼に助けられたことだろう。
 数年前のあの日。私が長年苦しめられていた事件から、私を救ってくれたのは彼だ。
 その数ヵ月後のあの日。孤独だと思っていた私の味方になってくれたのは彼だ。
 成歩堂は今、私がかつていた道と同じところに立たされている。
 私がかつて味わった苦しみを、今味わっている――
「成歩堂」
 私は口を開いた。
「全て話してくれまいか。なぜキミが、無実の罪で資格を剥奪されることになったのか。一体どこまでが真実なのか」
 私は全てを知らない。彼本人から話を聞き、真実を確かめたい。そう思った。
 そうすることで、少しでも彼を救えるのではないか。そうとも思った。
 成歩堂は少し考え、それから頷いた。
「ああ」
 その声はしっかりとしていた。




 私と成歩堂は、事務所の玄関に立ったまま、向かい合って話していた。
「真実は……ぼくが問題の証拠品を提出したこと。その証拠品はねつ造品だったこと。そして、弁護士資格を剥奪されたこと、だ。
 ぼくがその証拠品を提出するのを目撃した人は、一人や二人じゃない。法廷にいた全員が、それを目撃しているんだ。それで、ぼくはバッジを取り上げられた」
「なるほど。一方で虚偽は、キミが証拠品をねつ造したこと、か」
「そう」
 彼は肯定した。その時初めて、彼の口からはっきりと彼の無実を知ることができた。
「それらが示すのは、つまり――ねつ造“された”証拠品……?」
 私が呟くと、彼は強い目で私を見た。それにより私は確信した。
「キミは、“ねつ造した”証拠品を提出したのではない。“ねつ造された”証拠品を提出したのだ!」
 この言葉に、彼はしっかりと頷いた。その表情は硬い。
「その通りだ。ぼくは、“誰かの手によって”ねつ造された証拠品を提出したんだ。ぼくはそれを手に入れた時、その事実を知らなかった」
「では、誰かがキミを――」
「陥れるために、だと思う。あれはぼく自身が集めた証拠品じゃなくて、他の人がぼくに渡した証拠品なんだ」
 私はそれを聞いて愕然とした。誰かが、彼を陥れようとした――!
 一体誰が? この状況で考えられるのは……
「キミにそれを渡した人物がねつ造を――!」
「いや、違う。それはありえないよ」

⇒To Be Continued...

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