逆転−HERO− (プロローグ)
作者: 紫阿   URL: http://island.geocities.jp/hoshi3594/index.html   2009年06月15日(月) 17時39分16秒公開   ID:2spcMHdxeYs
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あの日のことは、忘れない。


 全ての悪夢が始まった、あの瞬間のことを。


「俺の空気を吸うなぁぁぁ!」
「――や、止めろ!」


 霞む視界に飛び込んできた、黒い無機質なカタマリを。


「おとーさんにさわるなッ!!!」

 朦朧とした意識の中で、咄嗟に放ったあの言葉を。


 パァン!!!

 薄まった空気を切り裂くけたたましい轟音を。


「ぐおおおおおおおおをををををッ……!!!」

 この世の全てを怨み呪い殺すような、凄まじい絶叫を。

 ――真実が明かされるまでに十五年の時間(とき)を要した、闇の記憶の断片を。


 
あの日のことを、忘れない。



「被告人、灰根高太郎は……無罪!」

 あまりにも無慈悲で残酷な二文字の結論も。

 カン!

 この茶番を終わらせるための演出でしかない木槌の音も。

 ざわざわざわ……。

 所詮は他人事でしかない者たちの、無責任で耳障りな雑音(ノイズ)も。

「フ、フ、フ……ご賢明な判断ですよ。裁判官」

 その判決を自分への“祝福”と受け取り、傍聴席のざわめきを自分への“賞賛”として受け止めた弁護士席の男の顔も。


 
私はあの日を、忘れない。


 
 ふらつく足で外へ出て、あてもなく町を彷徨う。
 鉛のように重い足を引きずりながら、楽しげに語り合う恋人や学校帰りの学生や忙しく立ち回る営業マン……ありとあらゆる人々の流れに逆らって、歩いた。
 一度でも立ち止まれば、再び足を踏み出すことは困難になるかもしれないから……ひたすら歩を進めた。“歩く”という行動しかプログラムされていないロボットのように――機械的に、一定の歩幅で歩を進める……“私”。
 何も考えられなかった。……考えたくなかった。
 幼き日の私にとって、大人の世界はあまりにも“理不尽”だったから。

 足の裏の感覚がすっかり麻痺してしまう程の長い時間を歩いて、歩いて……オレンジ色の煌めきがビルの間をゆっくりと沈む頃、私の周囲にはもう誰の人影もなくなっていた。
 古典を紐解けば、秋は夕暮れ時が一番美しい季節とされている。町並みを浸食してゆく黄金色の絨毯に身を溶かしてみると、成る程その感性には現代人でも共感を覚える。 
 しかし、あの日――私が歩いていたのは色彩(いろ)というものの全く消え失せた世界だった。
 私の思考回路が停止していても、他人の時間は何事もなく流れていく。
 父の死や、今日の理不尽な判決のことは、そうして人々の記憶から消滅するのだ。
 
 ……二度と顧みられることのない、忘却の彼方へ。

(父さんの無念は、永久に……報われない)
 
 背後に長く伸びる影が突きつける残酷な現実と、大人の都合に流されるがまま、抗うことすら出来なかった無力な自分に、私はただただ絶望していた。
 子どもの足にしてみれば、勾配の急な坂道――その中ほどに差し掛かる瞬間までは。


「……よわむし……」


 ――最初は、空耳だと思った。


「弱虫」


 宵闇を運んで来た赤とんぼの羽音で掻き消えてしまうくらいの、微かな呟きだったから。


「弱虫!」


 しかし。それは確かに人の声で、しかも。
 私に向かって発せられたものに間違いないことに気付く。
 町を彷徨い始めてからは重力を振り切ることも出来ず足元に注がれていた目線は、その声に引っ張り上げられるように、自然と坂の上へ向いていた。

「そうやって不幸な少年を気取っていれば、正義の味方が助けに来てくれると思っているのだろうけどな、この世に“ヒーロー”なんていやしない。そんなものは、幻想だッ!」

 視線の先、坂道の頂――誰かいるらしいとは分かったが、逆光で顔は見えなかった。
 人の見分けが付きにくい夕暮れをして『(たれ)そ彼』=『黄昏時』とは、言い得て妙なもの。
 ――まったく、古人の繊細な表現力には感服する。

「オマエの中の“正義”は大人のリクツで簡単に挫けてしまう程度のものなのかよッ!憎むべき相手を無罪にした弁護士がユルせないなら、オマエ自身が法廷に立てッ!!
 どんな悪事もユルさない、どんな弁護にも屈しない闘う(すべ)と絶対的な力を身に付けて、この世の全ての犯罪者に、揺るぎない有罪判決をくれてやればいいんだッ!!」

 
 当時の私に風情だ情緒だのが分かるはずもないが……ただ、あまりにも的を射たその言葉だけは、子ども心に愕然としたのを覚えている。

「今日のこと、本当に悔しいと思っているなら、助けに来てくれるはずのないヒーローを待つより自分でヒーローになることを考えろ!自分が強くならないと、誰も助けられないんだ!!
 自分の不幸を嘆いて立ち止まるより、顔を上げて前を見ろ!ゆっくりでもいいから、明日に向かって歩け!――それも出来ないっていうんなら、オマエはただの弱虫だ!
 弱虫!弱虫!!弱虫ッ!!!よわむしよわむしよわむし……っ!」

 呆然と立ち尽くす私の眼前で、鮮やかに翻った膝丈のスカートが坂の向こうへ消えた時。


「意気地なしーーーー……ッッッ!!!!」



 私はそれが“彼”ではなく、私と同じ年頃の――“彼女”だったことに気付いた。


−逆転HERO−



 まどろみの中で見る夢は、決まっていつも“悪夢”だった。

 そして、やがて訪れる最悪の目覚め。そこから逃れる(すべ)は、私にはなかった。
 なかった(・・・・)――そう。十五年間も私を責め苛んできた悪夢は、数年前に封印された。
 私の思いもしない場所で、思いもしない者の手で。……あまりにも、呆気なく。
 悪夢の始まり、『DL6号事件』――簡素な記号の内に潜んだある男の憎しみは、計り知れないものだった。

 時効直前、思いも寄らぬ“真犯人”の逮捕によって幕を閉じた事件。しかし、たとえ“事件”が法手続き上の結末を迎えようとも、あの事件に関わった人間が心に負った傷は決して癒されはしまい。
 証拠不十分、心身喪失、心神耗弱、アリバイ成立、正当防衛、緊急避難、あるいは責任無能力。ありとあらゆる弁護の手が尽くされ、検察側が被告人の“有罪”を証明出来なかったとき、裁判官は“無罪”の判決を下す。裁判官の確証が得られなければ、限りなく黒に近い灰色の被告人でも『疑わしきは被告人の利益に』の原則で“無罪”になる。
 “(ノットイコール)”で結ばれる“無罪”と“無実”――だが。あの日あの時あの法廷……膨大な案件を抱える裁判官の中で、“無罪”と“無実”は“(イコール)”だった。
 いや、裁判官だけではない。弁護士、傍聴人、詰め掛けた記者たち……そこに集う全ての人間の意識と証言台に惜しげもなく降り注がれる色とりどりの紙吹雪が、悲劇の主人公・灰根 高太郎(はいね こうたろう)の“無実”を祝福していた。
 十五年前、地震で停止したエレベータの中で、結局あの男は、何の罪を犯した訳でもなかった。だから……結果的に(・・・・)、あれは正しい判決だったのだ。――しかし。

 法廷内に『無罪』の声が轟き渡ったあの瞬間を、私は忘れることが出来ない。
 それは、現在(いま)でも変わらない。私は灰根の“有罪”を望んでいたのか……いや。
 彼の有罪・無罪など、どうでもよかった。……そうだ。今になって思えば、私は灰根が無罪になったことがユルせなかったのではない。

 生倉 雪夫(なまくら ゆきお)――灰根に就いた弁護士。

 自分の有能弁護士ぶりをアピールするためになされた、パフォーマンスでしかない弁護。
 私がユルせなかったのは、依頼人の言い分を信じもしないで、勝手に『刑事責任能力なし』と決め付けた、あの男のやり方だ。
 自分を頼ってきた依頼人すらも道化師(ピエロ)に仕立て上げて、自分を“演出”した男。

 弁護士が依頼人の無実を心から信じて勝ち取った判決ならば、納得には至らなくとも評価くらいは出来たろう。だが、生倉は二つにひとつの真実をも灰色のヴェールで覆い隠した。――誰の目も届かない場所へ。
 あの男は灰根が“エレベータに閉じ込められ酸欠”という極限状態にあったことを利用し、責任能力の欠如を主張。裁判官もその意見を支持し、最終的に違法性は阻却された。
 違法性阻却――違法なものが違法でなくなるのではない。最初から、違法ですらなくなる(・・・・・・・・・)のだ。弁護士としては、それもひとつの戦術なのかもしれないが……私は幼な心に、たった五文字の言葉であっさりと捻じ曲がってしまう真実の脆さを呪った。
 そんな曖昧な判定がまかり通ってしまう現実が、哀しかった。
 白でも黒でもない灰色の判決ほど、人の心を苦しめるものはないのだから。

 私のいる傍聴席と裁判が繰り広げられているスペースは目と鼻の先なのに、彼が主張をするごとにその距離がどんどん離れていくのを感じていた。
 真実が、真相が、私の手の届かないところに行ってしまう。その不安が現実のものとなった、無罪判決の瞬間――私は、絶望した。
 目の前に、スゥっと闇の帳が下りてきて……それは、エレベータの中で意識を失った時の再現だった。

 ――これが、私の“悪夢”の全て。しかし、再会した“究極におせっかいな旧友”の“究極なおせっかい”のおかげでここ何年、見ることもなかった……筈なのだが。
 今になって、また現れるとは思わなかったが……何か、妙だ。拭いきれない、違和感。
 十五年間、覚めることなく私を苛み続けた“悪夢”はあくまで“悪夢”だったというのに、先程の夢の最後――悪夢独特の息苦しさを感じさせない、むしろ、ソーダ水を飲んだ後のような清々しい後味さえ感じさせるあの場面だけは、以前の悪夢にはなかった。

「夢の、続き……?」(――馬鹿な)

 ふと浮かんだ可能性を即座に打ち消し、自嘲気味に口の端を歪めてみる。
(……何を感傷的(センチ)になってるのだ、私は。あの夢に、“救い”などあろう筈が……ッ?!)

 感傷を押し込めるための言い訳に、愕然とした。


 
ナゼワタシハ、ユメノカケラヲ“スクイ”ダト、オモッタノダロウ・・・。



 
 10月16日 午前8時 マンション 『シルビア』 326号室
 

 ピピピピピ……!

「――!」

 携帯電話のアラーム音は、(ゆめ)(うつつ)の最中にある私の意識を無理やり覚醒させるには十分だった。……ただ、抑揚のない電子音は妙に耳障りで、手だけ伸ばして元を断つ。
 フン、何を馬鹿な。ユメはユメ、悪夢は悪夢、だ。救いなどある筈がないではないか。私としたことが、何をくだらない“幻想”に囚われている……?

(――8時、か)

 ディスプレイの数字で現在の時間を確認することは簡単だが、夢の余韻でくらくらする頭を現実時間に戻すのには、いつも苦労をさせられる。
 研究のために海外を飛び回っていた二〜三年の間で“時差ボケ”などと言う感覚はなくなったものと思っていたが、長時間飛行機に揺られていた疲れに持ち前の低血圧が災いしたらしい。とてもではないが“爽やか”という枕詞は付けられない朝の目覚めだった。
 結局、それから30分ほど掛かって何とか起こした私の視界に飛び込んできたのは、無味乾燥な部屋模様。目に付くものと言えば、部屋の隅に置いてあるトランクくらいだ。それも昨日持ち帰った状態のままで、口を開けてさえいない。
 ぼやけた頭を活性化させるために記憶の糸を手繰ってみる。空港からタクシーでここに帰って来たのは……正確な時間は覚えていないが、日付は変わっていたように思う。
 そして……どうやら、シャワーも浴びずに眠ってしまったようだ。サイドテーブルの上に投げ捨てられたジャケットと今着ているシャツの皺がありのままの現実を示している。
 ここへ戻って来るのは一ヶ月ぶり、か。――しかし、我ながら生活感のない部屋だな。

(フ……)

 まったく、苦笑せずにはいられない。家財道具の設備に加え、水道・ガス・電気などはいつでも一通り使えるようにあるが、人を生活させるということに関して、ここは全く機能してない部屋――だだっ広いだけの、虚ろな空間。
 それを証拠に、冷蔵庫の中身は何ヶ月も空のままになっている。一年のうちに数回しか帰って来ないマンションの賃貸契約など解約すべきなのだろうが、私物の持って行き場がない以上、手放す訳にはいかなかった。
 私物もそれほど多いわけではないが、書籍や資料の類はどうしても多くなってしまい……事実、三部屋のうち一部屋はそれらで埋め尽くされている。職業柄、いた仕方あるまい。諦め半分、説得半分といったところか。

 私の名前は御剣 怜侍(みつるぎ れいじ)。ほんの数年前までは、この国で“検事”として法廷に立っていた人間である。『いた』と、過去の表現になってしまうのは、検事を辞めたからではない。無論、職を解かれたわけでもない。要請があれば、いつでも法廷に立つこととて可能だ。
 しかし、現在の私は自らの意思でそれとは別の道を選んだ。あのまま検事を続けていれば安定した地位と名声、それに将来が約束されていただろう。

⇒To Be Continued...

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