〜四面楚歌〜
作者: カオル   URL: http://www.ab.auone-net.jp/~kaka/   2013年05月10日(金) 21時23分29秒公開   ID:P4s2KG9zUIE
「……君を一体どうしたらいいのだろう?」


 辺りを覆う闇の奥から響く聞き覚えのある歌に驚き、自らの天命を知った男が帳中にて最後の酒を口にする。周囲には今日まで自分につき従い運命を共にしてきた多くの者達が集まり男の胸中に涙し誰も顔を上げるものがない。楚の大王を名乗り今日まで戦に身を投じて来たが決して裏切られる事はないと信じて来たものに裏切られた失望感は男に夜が明ける前の決死の敗走を決意させた。しかし、それは常に側に置いていた愛妾との別れを意味している。男は過酷な戦場の中でも絶対に手放そうとはしなかった女性に血を吐くような想いで語りかけているのだ。


 美雲クン、私の為に死んではくれぬか――?



「ちょと、待てッ」
 どうと言う事もなく聞き流していた話しに、ふと気を取られつい口を挟んでしまった男性が側にある赤いソファーに座る短いスカートを履いた女子高生姿を改めて目にする。その手には学校の授業で使用している古文の教科書があった。
「なぜ私が敗軍の王なのだ?」
 流れるような黒髪を持った少女が大きな深い碧色の瞳を輝かせながら、この部屋のデスクに向かう男性に人差し指で鼻の下を擦り自からの発想を元気よく語り始めた。
「聞いて下さい、御剣さん。題して『ミクモちゃん式、勉強法』ズヴァリ、キャラクターを置き換えるんです! え〜と、つまりですねえ……古典とかってあまりにも今の時代とかけ離れすぎて今一つ興味が持てない。特に漢文なんて読み下す為に記号とかついていたりして……でも、自分が好きなキャラクターで妄想すれば親近感が湧くじゃありませんか!」
 しかし、男性が納得いかないのは、この17歳の少女が自分を虞妃に例えている点だ。
「ならば関連の作品を観たり資料を読んだりすればいいだろう」
男性の皮肉めいた指摘を受けながらも意に介さず、やや上の方に視線を向けながら少女は遥か遠い昔にいた二人の男女に思いを馳せる。
「敵だった劉邦(漢の高祖)と言う人は危機を逃れる為に自分の子を車から突き落としたそうだけど、項羽って言う人は最後まで愛する人を手放さなかったんですよねえ」
 恋に恋する年頃の彼女にとって、王という立場なら多くの女性がいてもおかしくはない所を一人の女性を寵愛し、最後までその身を想った姿に感じ入るものがあるようだ。 しかし、一回り程年齢が上な男性が思う所は少し違っていた。

 時の覇王となった男には虞妃のような女性の存在が必要だったのだ。敗走の末、敵の前で自らの首を刎ねた時、まだ三十前半だったと言う。そんな若い彼は常に多くの人間に囲まれ大軍を指揮していた。彼女の存在は決して弱い部分など見せられない男の精神的拠り所だったのだろう。虞妃を一番必要としていたのは彼自身だったのだ。王の相手をする以外に人としての役割を禁じられていた立場の女性が本当に幸せだったのか、少なくとも彼から寵愛を受けなければ彼女は男と運命を共にすることはなかったのだ。



〜四面楚歌〜



項王軍壁垓下。
兵少食尽。
漢軍及諸侯兵囲之数重。
夜聞漢軍四面皆楚歌、
項王乃大驚曰、
「漢皆已得楚乎。
是何楚人之多也。」
項王則夜起飲帳中。
有美人、名虞。
常幸従。
駿馬、名騅。
常騎之。
於是項王乃悲歌 慨、
自為詩曰、

力抜山兮気蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可奈何
虞兮虞兮奈若何

歌数 、美人和之。
項王泣数行下。
左右皆泣、莫能仰視。


 しかし、例えそうだとしても学校の教科書にも取り上げられる、この有名な一文が今も尚、読む者の心を捉えるのは、終わりの方にあるこの一行の為だろう。


虞よ虞よ、汝をいかんせん――。


 覇王となった男が最後に残した詩が、愛する者の名を歴史に刻んだのだ。
「御剣さんにも、早くそんな女性が現れるといいですねッ」
気が付けばこちらを見る少女の口元がニヤニヤと笑っている。虞妃の年齢がいくつであったかは書かれていないが、おそらくは今、ここにいる少女とそう変わりはなかっただろう。そして、二十代で多くの事をなした歴史上の人物と自分の年齢を比べれば……ふと、そんな事を考えてみたが男はあえて、ぶっきらぼうにこう返した。


「……大きなお世話だッ」



 END


■作者からのメッセージ
中国の歴史が好きで、ついミツミクに絡めてしまいました(^_^;)

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