fate |
作者:
楠木柚子
URL: http://earlgray.yaekumo.com
2011年09月19日(月) 23時47分16秒公開
ID:QUzm.XkYEXM
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「あやめー!」 呼ばれて顔をあげれば、丸々とした毘忌尼の輪郭が見えた。 「はい。」 薪を片付ける作業を中断し、あやめは立ち上がる。足の裏が新雪を踏む感触が、直に伝わってくる。 最後に山からおりたのはいつだっただろうか。ついこの間だったような気もするし、十年以上前だったような気もする。いや、実際は十年以上前であるはずがない。彼と過ごしたあの日々は、今でもあやめの中に忘れ難く残っている。 シャクシャクと音をたてながら、あやめは毘忌尼の元へ歩いていった。 「なんでしょう、様。」 「ああ、あやめ。」 痛むのかしばらく腰をさすっていた毘忌尼は、やがてゆっくりと顔をあげた。 「今日は、久しぶりにお客様が来るんだよ。」 「まあ、良かったですわね!毘忌尼様。」 町から離れたこの山奥で、毘忌尼と二人きり、いささか厳しすぎる自然と向き合う生活には、もう慣れた。しかし、あやめとてヒトと触れあうのが嫌いなわけではない。一年に一度、来るか来ないかという客が来るのは、嬉しい。しかも、現在、葉桜院には絵本作家とその弟子が来ている。賑やかなのは、良いことだ。 「それがねえ。」 毘忌尼は少し眉をしかめた。 「スペシャルコース、のお客様なのよ。」 「まあ。」 霊力を高めるためのスペシャルコースを予約する人間は、限られている。霊力を持つ人間自体が多くはないからだ。 「名字が、綾里だから、本家からのお客様だろうね。くれぐれも失礼の無いようにするんだよ、あやめ。」 「はい、分かりました。」 「じゃあ、奥の院で準備をしておいてくれ。あたしはお客様を迎えにいってくるから。」 「はい。」 振り返って、奥の院へ続く橋へと少し歩き出したが、あやめはそこで足を止めた。毘忌尼の様子を伺うと、門の方へ向かっていくところだ。 少しだけ、興味をそそられた。あやめは本家の人間にはほとんどあったことがない。女性なのは間違いないのだが‥‥‥‥。 あやめは門の柱の裏に隠れた。 やってきたのは、三人だった。綾里の人間は、すぐに分かる。昔ながらの装束を着た、二人の女性。一人はまだ幼いようだ。 年上の女性の方が、くしゃみをした。ずっとここで暮らしているあやめや毘忌尼は慣れているが、普段町で暮らしている人間にはこの寒さはこたえるだろう。 そして、残りの一人は‥‥。 あやめは、視線をずらした。 一人、男性が映る。 「‥‥‥‥!」 あやめは衝撃を感じて、半分だけ柱の影から出していた身体を引っ込めた。 ‥‥似ている、彼に。 (いいえ。) あやめは首をふった。あれだけ愛していたヒトだ。愛しているヒトだ。間違えるわけがない。‥‥彼、本人だ。しかし、どうしてこんなところに。 あやめはもう一度柱の裏から恐る恐る顔だけを出した。今度は二人の女性は目に入らない。成歩堂龍一に視線が吸い寄せられる。 ――――涙が、溢れた。 笑っているのだ。話しているのだ。夢にまで見たあのヒトが。 滴り落ちた涙が、雪を穿つ。 「リュウちゃん。」 小さく、その愛しい名を呟いた瞬間、懐かしさが心を乱す。 もう一度、もう一度だけ、貴方と話したい。今度こそ本当の話をしたい。 あの時は、本当の自分として話すことは出来なかった。確かに、私は確かに彼に向かって話していた。けれど、彼は私に向かって語りかけてはくれなかった。「愛している」と目の前で彼が紡ぐその言葉すら、自分に向けられていたものではなかったのだ。 今でも、後悔している。それを伝えられなかったのは、自分が弱かったせい。 弱い自分を覆うように身にまとったものを全て剥ぎ取り、貴方ともう一度言葉を交わすことが叶わないなら、何のために私たちは出会ったのか。何のために二人は愛しあったのか。 確実な暖かさを持った涙が、純白の雪をじんわりと溶かす――――その瞬間。 ――――視線が、絡んだ。 びくり、と身体を緊張させて、あやめは柱の陰に身を隠す。身体全体が、心臓の様に鼓動した。履き物が雪を踏みしめる音までもが同期していく――――。 (こんなにも。) 好きだ。まだ好きだ。このヒトが、まだこんなにも好きだ。 知られてはならない感情。存在するはずのない恋情。永遠に巡りあうことのない、すれ違う恋慕。 ダメなのだ、どんなに想っても。それすら、過去と現在を繋ぐための許されざる行為。 あやめは力なく項垂れると、奥の院へと向かった。サクサクと雪を切り、ギュッギュッと踏みしめる。 運命の赤い糸で結ばれていなくたって良い。けれど、今度この世に生を受けるときは‥‥この世界の旅人として生きるときは。 せめて、せめて彼と何の因縁もない赤の他人として生まれてきたい。 ――――きっと、大それた願いですね。 再び降り始めた雪が、あやめの頬を伝わる涙と混じって‥‥。 ――――鮮やかに、溶けた。 |
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