貴方の傍で |
作者:
楠木柚子
URL: http://kijyou.rakurakuhp.net
2011年05月24日(火) 22時17分26秒公開
ID:llcM2KWz5vc
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「あのね、なるほどくん。」 いつもと同じ夕方、いつもと同じように、夕陽の差し込む顔色をうかがいながら、いつもと同じ彼に、恐る恐る口にした言葉。 「あたし、倉院の里に帰ろうと思うんだ。‥‥あたしが、次の家元だから。」 家元になれば、そう簡単に里を離れるわけにはいかない。成歩堂にも、会いに来られなくなる。 そう、言外に匂わせた言葉に、成歩堂はあっさりすぎるほど笑顔で答える。 「真宵ちゃん、家元だもんね。行ってきなよ。」 そう、いつもの、笑顔で。 (‥‥そうだよ、ね。) その答えが返ってくることは、なんとなく分かっていた。 きっと、彼は優しすぎるのだ。 成歩堂は、優しい。‥‥それは、分かっている。真宵は、きっとそんな成歩堂を好きになったのだ。 家元になるために、背中を押してくれる。真宵が進むべき道を邪魔してまで真宵を独占しようとすることなんて‥‥絶対に、ない。 ――――けれど、時にそれを物足りなく思うこともある。 「ねえ、なるほどくん?」 そう聞けば、貴方は笑って振り返る。 「なんだい?」 ‥‥でもね、なるほどくん。 ――――傍に、いてほしい。 貴方が、もし一言でも、そう言ってくれるのならば。あたしが、家元になるために貴方の元を離れることに、一言でも苦言を呈してくれるなら。 「‥‥‥‥なんでもない。」 真宵は、笑って首を振った。 (‥‥家元の座なんて、いつでも捨てられるのに。) そんなこと言ったら、彼はきっと哀しむだろう。 「なんでもないの。」 貴方の笑顔が見たいから、あたしは笑って行くしかない。 ――――どんなに貴方の傍にいることを望んでも。 真宵は成歩堂から顔をそらして、涙を見られないようにした。 これで、良いんだよね。これで、間違ってないんだよね。 背後で、僅かに成歩堂の纏う雰囲気が変わるのが分かる。 ‥‥いつもと同じ事務所、いつもと同じ夕方。 ――――いつもと違う、貴方がいた。 「止める、べきだったのかな。」 ふと、呟いてしまった言葉に、目の前の幼馴染みが眉をひそめて振り返る。‥‥というより、執務室の椅子をクルリと回しただけだが。 「何の話だ?」 「真宵ちゃんのことだよ。」 「事件の資料を見に来たのではなかったか?」 せっかく紅茶まで出してやったのに、と御剣はぶつくさ言いながら、成歩堂の頼んでいた事件の資料を机の上に投げ出した。 「そ、そりゃそうだよ!そのついでの相談であって‥‥。」 冷たい視線が突き刺さる。 「私には相談の口実に事件の資料を見に来たのだとしか思えんが。」 「う‥‥‥‥。」 成歩堂が唇を尖らせて、紅茶の中でティースプーンをくるくる回していると、御剣はため息をつき、角砂糖を渡した。 「聞いてやろう。」 「うん‥‥ありがとう、御剣。」 見慣れた幼馴染みの苦笑に成歩堂は安心して話し始める。 角砂糖を一つ、紅茶の中に入れた。 「真宵ちゃんが、家元になるために里に戻るって話は聞いてる?」 「ああ。私は、てっきりキミが止めるのかと思っていたが。」 「まさか。」 一つ目の角砂糖が溶けきったところで、成歩堂は二つ目の角砂糖を入れて、かぶりを振った。 「止められるわけ、ないよ。彼女には、彼女の選ぶ道がある。」 「‥‥‥‥‥‥。」 「それで、正しいと思ってたんだ、ぼくは。けど‥‥‥‥。」 「けど?」 御剣は先を促しながら、紅茶を一口飲む。『紅茶はストレートで』というのが彼の持論だ。 「彼女、笑ってたんだよ。」 そう、あの時――――彼女は笑っていた。泣いて、叫んで、離れたくない、と主張するかと思いきや、彼女は笑っていた。 哀しみは、その胸に押し隠して。 「それは‥‥‥‥。」 御剣が躊躇いがちに口を開く。 「彼女は無理をしているだろう。」 「うん‥‥。彼女は、妙に大人になってしまったんだと思う。」 成歩堂は二つ目の角砂糖が溶けきった紅茶に三つ目の角砂糖を入れた。 そして、独り言のように、ぽつんと呟く。 「本当に、三年間もぼくはナニをしてきたんだろうね。」 誰よりもきっと、傷つきやすい彼女が、いつだって本音を言える立場でいたかったのに。 三つ目の角砂糖は、いくらスプーンでかき混ぜても溶けなかった。 「‥‥‥‥そうか。」 御剣は天井を見上げると、眉間のヒビを一層深くした。 「‥‥彼女は、大人になったな。いつの間にか。だが、だからこそ。」 ――――分かっている。そんなこと、くらい。 「だからこそ、キミは止めるべきだった。」 たどり着くのは、いつだってキミと同じ結論。 ‥‥きっと、自分が止めても、彼女は行くだろう。‥‥それでも、良い。 「御剣。」 彼は、いきなり立ち上がった幼馴染みに、驚いて顔を上げる。 「ぼく、行ってくるよ。」 呆けたような顔の幼馴染みは、暫く成歩堂を見上げていたが、やがてゆっくりと微笑んだ。 「行ってこい。‥‥出発は、今日の夜なのだろう?」 「うん。」 無駄だと分かっていても、やらなくてはならないことがある。 きっと彼女は、ぼくが止めても行くだろう。‥‥だけど、それが自分の心を出さないことの免罪符にはならない。 ――――それは、哀しすぎるから。 成歩堂が出ていった後、御剣は苦笑して小さく呟いた。 「‥‥全く、素直になれない奴等だ。」 そして、成歩堂が置いていったカップを片付けようとして気がつく。 成歩堂のカップの中で、溶けきらなかった三つ目の角砂糖が、いつの間にか溶けていた。 里へ帰るために乗る電車のホームで、真宵はいつまでも秋の月を見上げていた。 倉院行きの最後の電車がホームへ滑り込む。 駅の電光掲示板が、涙で滲んだ。 (――――結局。) 結局、彼は最後まで止めてはくれなかった。 いや、たとえ彼が止めたとしても、真宵は行くだろう。だから、実際のところ彼が止めても、止めなくても、結果は変わらないのだろう。 ――――結果は。 けれど、止めて欲しかった。自分は彼に必要とされていると、感じたかった。 そうすれば‥‥‥‥そうすれば、せめて笑顔で行くことが出来るのに。 真宵は、小さくため息をつき、薄暗いホームから明るい電車の中へ、一歩踏み出す。‥‥‥‥いや、踏み出そうとした。 実際には、出来なかったのだ。後ろから、誰かに抱き締められたから。 (‥‥え?) ――――鼓動が、跳ねる。 「真宵ちゃん。」 耳元から、聞き慣れた声が響いてきて、思わず涙が溢れた。 いつもの香り、いつもの温もり。 (――――ああ。) ――――いつもの貴方だ。 真宵は身体の前に回された腕をそっと掴んで呟いた。 「なるほどくん‥‥。」 「真宵ちゃん。‥‥‥‥行かないでくれ。」 ――――ずっと、貴方の傍に。 そんなことは、叶わない。叶わないけれど‥‥‥‥。 「もう‥‥止めてくれないかと思ったよ‥‥。」 せめて‥‥止めてくれてありがとう。 真宵は先程の御剣との会話を思い出した。 確か、訪ねて行った時、御剣は呆れたように苦笑したのではなかったか。 (「全く‥‥キミたちは不思議だな。ケンカしたり、離れている時でさえ、同じような行動をとる。」) あの時点で、彼の言っていることは、いつものように訳が分からなかった。 (「みつるぎ検事‥‥あたし、夢を描いてたんです。」) けれど、今なら分かる。‥‥はっきり見える。 成歩堂もまた、真宵と同じことを望んでいたのだ、と。 (「ずっと‥‥何年経っても、当たり前のようになるほどくんの隣で過ごしていけるって夢を。」) (「真宵くん。‥‥私も、当たり前のように、父と同じ弁護士になることを夢見ていた。だが‥‥‥‥。」) そう言って、御剣はあの時‥‥とても切なげに笑ったのだ。 (「一番当たり前のように願っていることほど、叶わないものだよ。」) 真宵は成歩堂の腕をギュッと掴んで呟いた。 「なるほどくん、それは出来ないよ。」 無理矢理に、手を引き剥がし、成歩堂の方を振り返る。 「だって、あたしは家元だもん。」 ――――そう。 あたしは霊媒師、貴方は弁護士。‥‥出会ったことすら、運命の悪戯。 「でも‥‥止めてくれて嬉しかった。」 (ずっと、止めて欲しかったんだから。) 必死に笑った。だけど、顔は涙でぐちゃぐちゃで、とても笑顔と呼べるシロモノではなかっただろう。 成歩堂も、そんな真宵を泣きそうな顔で見つめると、そっとその頬に手を当て、自分の方に引き寄せた。 ――――瞬間、唇が触れ‥‥また、名残惜しそうに離れる。 「‥‥じゃあ、ね。」 真宵が電車に乗り込むと同時にベルがなり、ドアが閉まった。 ホームに一人、取り残された成歩堂は、何故かとても小さく見えた。 ‥‥ねえ、なるほどくん。 あたしが、ずっと心に描いていた夢‥‥どうせ、叶わないと思ってた。‥‥貴方は、とても優しいから。 けれど、貴方は止めてくれた。 だから‥‥今なら、もう一度だけ描けるの。 いつか、どこか、遠い未来で‥‥貴方の傍で暮らすという夢を。 「真宵ちゃん、ナニ考えてたの?」 そんなことを思い出していたら、いきなり成歩堂が尋ねてきたので、真宵は曖昧に微笑んでみせた。 ――――あれから、七年。 真宵の描いていた夢は、成歩堂が弁護士を辞めるという思いがけないカタチで叶えられた。今、成歩堂は暇があれば倉院の里にやってきて、真宵と過ごしている。 「いや‥‥幸せだなぁ、って。」 成歩堂は、少し変な顔をした後、縁側で足をブラブラさせて、笑った。 「そうだね‥‥幸せだね。」 こうやって、日の当たる縁側で、貴方の傍で、何年経っても、ずっと変わらない気持ちで。 縁の下から出てきた猫が、一声「にゃあ」と鳴いた。成歩堂の左手が、真宵の右手に重なる。 あたしが、いつの日か描いていた夢は‥‥‥‥こうして、思った通りに叶えられていく。 ――――限りなく続く、貴方との幸せな時間の中で。 |
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