僕は地下鉄のホームが好きだ
作者: 国村 裁臣   2009年03月17日(火) 19時33分08秒公開   ID:./hD4fJD4PA
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 ――地下鉄のホームの匂いが、僕は好きだった。
 
 地下鉄のホームは幻想的な場所だ。
 薄暗い電灯に、景色なき風景。電車を待つ人々も、どこか哀愁が漂っている。
 どことなく暗い雰囲気は、正に「異界の入り口」だ。都心の中で一番不思議なこの場所で、何かがおきないはずがない。電車が知らない世界に運んでくれるのか? それとも地下の異世界に引きずりこまれてしまうのか? 少なくともこんな退屈な日常に終止符を打ってくれることは確実だと思っていた。
 でもそれは、現実ではない。それでも信じずにはいられない僕はどうすればいいのか。
 僕には友達がいない。学園生活で面白かった思い出なんかなく、むしろいじめに関する嫌な思い出しか出てこない。
 親もオヤジしかいないし、その人を僕は嫌っている。母さんは僕が小さい頃にオヤジの浮気が原因で離婚して、その話し合いの際に事故死した。それ以上は知らない。
 つまり、僕は孤独な身なのだ。
 今年、僕は大学生になった。十八歳を過ぎた奴が、異世界だの何だの言うのは変かもしれない。でも小さい頃から思い続けてきたのだ。そして今日もまた、僕は地下鉄のホームにいる。
「まもなく、三番線に電車がやってまいります。黄色い線の内側までお下がりください」
 時間帯は昼ごろである。僕の大学の授業は午後からだから、何の問題もない。
 辺りを見渡すと、ほとんど人がいなかった。

「ねえ、お兄ちゃん?」
 突然、後ろから声がした。振り向くと、色白な女の子が立っていた。長く伸ばした黒い髪に、赤いワンピースを着ていた。年齢は小学高学年か、もう少し下ぐらいだ。
「なんだい?」
「私のコーちゃんが、いなくなっちゃった」
 目を潤ませながら、少女は僕を見ている。僕は電車が出てしまったことを背中で感じながら、ため息をついた。
「ごめんね。お兄ちゃんは忙しいんだ」
 少女の人形探しに付き合えるほどの時間はない。異世界にいく時間ならあるけど。
「コーちゃん、どこにもいないの」
「お父さんお母さんはいないのかい?」
「……いない」
 どうやら悪いことを聞いてしまったようだ。少女は小さいながら傷ついている。それにズカズカ入りこんだ僕は、最低だ。
「ごめんね」 
「許さない。探してくれなきゃ」
 僕は困ってしまった。大学に行かなければならないというのに、少女の人形を探すなんてあり得ない話だ。
 だがここで大泣きされればそれもそれで困る。とりあえず、電車はまだ来ないことを確認してもう少し話を続けた。
「ねえ、コーちゃんはどうしてなくなったの?」
「持ってっちゃったの。仲良しの男の子が」
 その男の子に言いたい。悪戯でじゃれ合うのは大いに構わないが、僕を巻き込むな。それに、何となく羨ましい。
「その子がどこにいるか、わかるかい?」
「うん。この駅に来る電車に乗ってくるんだって」
 なるほど。
 しかし偉い子だ。一人で調べて、地下鉄の駅に来るなんて。まあ親がいない子だ。一人で出来ることも多いんだろう。
 少女は、「コーちゃんをどこに隠したのか?」ということを、その男の子から聞き出したいだけらしい。ちょうどいい、次の電車に乗り込めば大学にも間に合う。
「ねえ、お兄ちゃんなんていうの?」
「え? 僕は美作幸平、みまさかこうへいだよ」
「じゃあ、お兄ちゃんもコーちゃんだね!」
 まあ、どうでもいい話だ。昔そんな風に呼ばれていた気がしないでもない。
 僕と少女はホームの椅子に座った。一呼吸してから、僕は自動販売機まで行きコーラを二本買って、少女に一本投げて渡した。
「これもコーちゃんだよな?」
「うん!」
 軽いシャレのつもりだったが、少女はすごく喜んでくれた。その笑顔には、少しだけ懐かしさがあった。
「あれ? 釣り銭が……ない!」
 さっきまで握っていたはずの百円玉がなくなっていた。大学生にとって百円玉とはダイヤモンドのようなもの。僕は急いで椅子の下を探ってみたが、なかった。
「ねえ」
「何?」
「探し物ってさ、驚くほど自分の近くにあるんだよ?」
 そう言われてみると……服の辺りを探すと、ジャンバーとシャツの間から百円玉が出てきた。
 にっこりと笑う少女に、僕はありがとうと言っておく。おかげでオニギリ一つを失わずに済んだよ。
 コーラを飲み終えるか飲み終えないか辺りで、電車がやってきた。僕が立ち上がると、少女はジャンパーを掴んで首を振った。
「この電車じゃないよ」
 
 そんな感じで、僕たちはずっとホームの椅子に座っていた。もう今日は大学無理だなあ、と思いつつも、少女といられる嬉しさを感じていた。何故だかはわからない。
「ねえ、君の名前はなんていうの?」
「私? 私は……マリちゃんって呼んで!」
 惜しかったな。もう一文字あれば……まあ、そんなことはどうでもいい。今はマリちゃんが早く意地悪なガキにたどり着くことが先決だ。大学をさぼってまで付き合ってやってるんだから、僕としても、ちゃんと見つけてもらわなきゃ困る。
「私、あんまりここが好きじゃないの」
「どうして? 僕は好きだな。この匂いに、雰囲気に」
 少女はしょんぼりとうな垂れた。僕の意見を押し付けるつもりはない。これ以上は何も言うまい。
 それからは他愛もない話をした。
 どうやらコーちゃんというのは「男の子」だそうだ。まあ意地悪な男の子が、好きな子の男型の人形を取るなんていうのは、マジで他愛もない話だ。
 呆れるくらいに、コーちゃんが大切だそうだ。どんなにボロボロになっても、絶対に離さない、そんなことを言っていた。
「私ね、コーちゃんが世界で一番好き」
 人形に愛情を持つなんてな。まあ、恐らく中学くらいになれば、コーちゃんは飽きられる。そしてマリちゃんはリアルな恋を始めるんだ。もしかしたら、意地悪な子との青春が始まったりして。
「――まもなく、三番線に電車がやってまいります」
 アナウンスを聞いたとたん、少女は立ち上がった。そして、僕を見て、驚くほど冷静な顔をして言った。
「この電車だよ」

 少しの疑問と安心感を持って、僕は少女とともに電車に乗り込んだ。適当な車両に乗ったので、どこに意地悪な男の子がいるのかはわからない。だがマリちゃんは、黙々と車両を移動していく。僕は黙ってそれについていった。
 ――何者なんだ? この子。
 だがそんな疑問が沸いて来るか来ないかで、マリちゃんは立ち止まった。
「見つけたよ。ヨウ君」
 僕たちに背を向けて立っている、背広を着た男にマリちゃんは話しかけた。その声は、さっきまでとは違った。
 デジャブ?――



「――当駅にて、人身事故が発生いたしました。繰り返します、当駅にて――」
 地下鉄のホームに、警察官がうろついている。赤ん坊を抱いている男の人は、目から涙を流していた。



「返してよ。私のコーちゃんを」
 気がついたら、僕は電車の中にいた。辺りを見渡すと、人はほとんどいなかった。
 さっきのは何だったのか? 分かることは、地下鉄のホームにいたということ。後は、何が何だかよくわからない。
 マリちゃんは僕の前に立っていた。そして、背広を着た男が振り向く。
「お、オヤジ……」
 その男は、オヤジだった。かなり高収入なサラリーマンとして働いている。でも僕は、オヤジが大嫌いだった。
「……幸平か。大学はいいのか?」
「あんたには関係ないだろ?」
「……そうだな。すまん」
 確かにオヤジは、僕を大学まで行かしてくれたし、何不自由なく育ててくれた。だが中学生の時、オヤジからお袋のことを聞いたときから、僕はオヤジを憎み始めた。
 だがマリちゃんとオヤジに何の関係があるのだろうか?
「その子は、お前の知り合いか?」
「いや、今日会ったばかりだけど」
 マリちゃんはずっと、オヤジを見つめていた。
「コーちゃんを、返して」
「何を言ってるんだ? コーちゃんなど知らな……」
 言い終わる前に、オヤジは急にマリちゃんから後ずさった。その顔は恐怖で一杯だった。
「ま、真理子!」
「返して。コーちゃんを、返して」
 声が段々と、低くなっていく。でも僕からは、オヤジがどんなマリちゃんを見ているかわからなかった。
 僕は動けなかった。何故だろう? 懐かしい匂いがしてきたからか?
「何故だ! お前はもう……」
「返してよ。コーちゃんを返してよ、返せええ!」
 マリちゃんはどんどん、オヤジとの距離をつめていく。一度尻餅をついたオヤジはそのまま立ち上がって、一目散に逃げ出した。
「返して、返して」
 マリちゃんもそれを追う。とても小学五年生とは思えない速さだ。僕も全速力で追いかけた。
 車両を一つずつ、通過していく。だが不思議なことに、いくら通過してもなかなか先頭車両まで到達しないのである。客も一人もいなくなっていった。
 やがて、マリちゃんはピタリと止まった。その先を見ると、オヤジがうつ伏せに転んでいたのがわかった。
「た……助けてくれ!」
「コーちゃんを返して」
「う、うわあああああああ!」


 地下鉄のホームの匂いが、プーンと僕の鼻に入ってくる。隣を見ると、赤ん坊を抱えた女の人と、男の人が深刻そうな顔で話をしていた。

「なあ、わかってくれよ。真理子」
「いやよ、あなたのせいでこうなったんでしょ?」
「お前じゃ幸平を育てられない。お前にも分かってるはずだ」
 女の人は黙り込んでしまった。男は話を続けた。
「だからな、俺はあの女とも別れた。幸平を立派に育てることが俺の償いなんだよ。もちろん、お前が戻ってくれるならそれでいい。でもそれは適わないんだろう?」
 僕にはよくわからなかったが、女の人は唇をかみ締めている。
 しばらくの沈黙――そして
 一瞬のことだった。
 女の人は一目散に男に背を向けて走り出した。男も慌ててそれを追う。
「誰か! 誰か助けて!」
「真理子! わかってくれ!」
 男は必死で、女を追っている。僕はただ、見ていることしかできなかった。

「――まもなく、三番線に電車がやってまいります。黄色い線の内側までお下がりください」
 僕は彼らを追わなかった。ずっと向こうに行ってしまった彼らを見て、僕は少しだけ寂しさを感じていた。
 しばらくしても、電車が来ない。
 段々、駅員や警官が、さっきの男女が走った方に向かっていき始めた。もしかしたら、彼らが何かやらかしたのかもしれない、そう思って僕もついて行った。
 その時、アナウンスがホームに響いた。
「ただいま当駅で、人身事故が発生しました――」



 ふと、僕は我に帰った。
 そして、僕は全てを知ったことに気づいた。あの男女はオヤジと母さん、そして抱かれていた少年は――どう考えても、僕だ。
「コーちゃんを返して」
 ジリジリとオヤジに近寄るマリちゃん――いや、母さんは相変わらずこちらを振り向かない。オヤジはガタガタと震えながら、必死で立ち上がろうとするが、腰が抜けているのか何度やっても起き上がれなかった。
 
 マリちゃんは、母さんだった。
 そして母さんが探していたのは、人形ではなかった。
 ――僕だ。

 母さん、僕はここにいるよ?
「コーちゃんを返して」
 アンタが言ってたんじゃないか。探し物って案外近くにあるんだって。“コーちゃん”はアンタのすぐ後ろにいるんだよ。
「コーちゃんをかえ……」
 僕は思いっきり叫んだ。

「母さん!」
 
 母さんが振り向く。顔はマリちゃんのままだが、どことなく寂しげな顔だった。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「僕はここにいるよ。コーちゃんは、ここにいるんだよ」
「……違うよ、コーちゃんはおにいちゃんじゃない。もっと小さくて」
「僕は大きくなったんだよ! コーちゃんは今もちゃんと、こうしているじゃないか!」
「嘘だよ。お兄ちゃんは……違う」
 それだけ言って、母さんはまた僕に背を向けた。
 悲しいというより、悔しかった。
 僕は、母さんからすればただの「親切なおにいちゃん」でしかない。僕は地下鉄で母さんと別れて以来、母親を知らなかった。
 だから嬉しかった。
 でも違った。
 母さんの中の「僕」とは、小さな赤ん坊でしかない。「コーちゃん」であって、「美作幸平」ではないのだ。
 涙が止まらなかった。電車も止まらずに走り続けている。
「僕はここにいるから!」
 母さんの裾を掴んだ。僕は「マリちゃん」ではなく、母さんに言った。
「母さん! 僕がコーちゃんだよ!」
「離してよ!」
 母さんがもがく。だが、僕は裾を離さなかった。オヤジはといえば、まだうまく立ち上がれず、ジタバタしている。
「僕を見てくれよ!」
 無理やり、僕は母さんの前に、顔を覗き込むように回りこんだ。マリちゃん――母さんは顔を逸らしたが、僕ははっきりと言った。
「僕はこうして成長したんだ。そして、母さんとまた出会った」

⇒To Be Continued...

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