羽のある生活 3
作者: トーラ   URL: http://sky.geocities.jp/dabunaikoukai/   2008年09月25日(木) 23時11分49秒公開   ID:.lzhbfUwqkE
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 3―1

 ホームに滑り込んでくる電車は夜乃との別れを告げる。電車のダイヤの関係上、葉子の乗る電車は夜乃の乗る電車よりも早くホームに着く。
 電車の中で一人になった葉子は、夜乃に向けていた一番の笑顔を剥がす。そうすることで一日の疲れが全身に均等に沁み渡り、結果的に疲れが和らぐのだ。
 貼り付けた笑顔が偽りの表情だとは思っていない。夜乃の前だから見せられる、とっておきの、満ち足りている時にしか浮かべられない特別なものだ。
 葉子が自分の中で一番好きな表情は、夜乃と一緒にいる時に自然と浮かぶ笑顔だった。
 電車に揺られながら、今日一日で聞いた夜乃の声と、見つけた新しい夜乃の表情を思い浮かべ、控えめに笑う。一緒に浮かんでくる寂しさも、心地よい刺激だと思える。
「楽しそうね、お姉さん」
 線路を走る音の中に別の音が混じる。血液に別の液体が流れ込んだかのように葉子は違和感を覚えた。緩んだ笑顔も霧散するように消えていた。
 さっきまでの緩んだ表情を忘れさせるために、冷静な顔を努めて脇を見た。そこから声が聞こえたからだ。
 中学生くらいの背丈の女の子が、セーラー服姿で葉子を見上げていた。少し嫌味な笑顔に見えた。見覚えのある制服。葉子が通っていた中学校の生徒のようだ。
 黒髪をボブカットにし、細い眉毛の下にある釣り目な瞳がとても印象的だった。
 何時からそこにいたのだろう、と葉子は考えた。席に座る時は左右に誰もいないことを確認してから座ったのだが、いつの間に隣に座ったのか。
 隣に座られたのにも気付けない程、夜乃の事を考えていたのかも知れない。心が散歩に出かけるまで他人の事を考えるなんて、我ながら痛々しいなと心の中で自分を戒める。
「そうかな……。君はいつからそこにいたの?」
 苦笑で少女に対応する。葉子には警戒心が薄く張られている。隣に座る少女を、葉子は不気味に感じていた。
「ずっと前から」
 目を細めて笑みを深くした。動きのなかった作り物のような笑顔に、命が宿ったように見えた。
「お姉さん、好きな人がいるのね」
 その瞳はまるで、ガラス玉でも見ているかのように、すべてを見ていた。大きさも中身も、形も。むしろ、自分が透明になったかのような錯覚を葉子は感じていた。衣類をすべて剥ぎ取られたような。
「い、いきなり何?」
 隠しきれない動揺が滲んでいくのを感じる。信号の色が黄から赤に変わるように、明確に少女を強く警戒し始めた。
 何かがおかしい。
「私には分かるのよ。好き好きで仕方がなくて、でもどうしようもなくて、お姉さんがずっと悩んでるって」
 花弁が舞うように軽く、少女の手が葉子の頬に添えられる。熱いような冷たいような、奇妙な刺激が頬から伝わっていく。
 視線を逸らせなくなっていた。添えられた手が枷にでもなったかのように、完全に自由を奪っていた。
 モニターに映る映像を見ているような気分だった。無機質なというか、上手く現実味を掴めない。
 最大まで警戒レベルが上がっているのに身体が動かない。遠くの喧噪でも聞くみたいに、その子は危ない、という自分の声を聞く。
「私ならお姉さんの願い、叶えられるわ。大好きなあの人の気持ちを、お姉さんの物にだってできるわ」
 軟体生物のように少女の唇が動く。
「――嫌!」
 断線していた回路が繋がる。塞き止められていた嫌悪感が一気に流れだした。力任せに少女を押し退ける。
 腕を押し出した筈なのに、手ごたえがない。何かを押した感覚というものが感じられなかった。
 はっきりとした自我を取り戻した時にはもう少女の姿はなく、本当に映像の相手でもしていたように、忽然と少女の姿が消えていた。
 帰ってきた意識はまだ安定せず、小刻みに揺れながら葉子の中に収まろうとしている。葉子は寝起きのようなはっきりとしない気持ちのまま落ち着くのを待った。電車の揺れが覚醒を手助けになった。窓から潜り込む光、葉子だけがいる車両。窓の中で流れていく電線。風景。
 葉子の脈拍と呼吸は微かに荒く、喉の渇きも感じていた。
 少女の声と同調する葉子の記憶が、夜乃の姿を映し出す。作り物のような素敵な笑顔を見せる夜乃の姿が、瞼の裏でちらつく。
 少女の声が心にささくれを作り、そこから良くないバイ菌が入り込んでいるみたいだ、と葉子は感じた。

 3―2

 明樹市には一軒だけ図書館がある。本棚よりは通路の面積の方が広いゆったりとした閲覧室に、売店のある軽食コーナー兼談話室の二つのスペースで図書館は成り立っている。
 夏場は冷房が完備されていたりとそれなりに居心地のよい場所なのだが、市街地から離れた場所にあり、一部の人間にしか利用されていないのが現状である。人気のなさもこの図書館の魅力なのかも知れないが。
 葉子と夜乃は談話室にいた。午後三時とまだ外は明るい。普段は授業中の時間だが、二学期中間試験最終日ということで午後からは授業がなく、夜乃にとっては持て余している訳でもない時間を使い、葉子に付き合っている。夜乃と葉子はこの図書館の常連だった。試験中はいつもここで勉強をしていた。
 試験が終わっても、葉子には追試があった。数学の試験の結果について、試験返却の日よりも早く教師から呼び出され葉子は追試を言い渡されていた。
 追試日は三日後。試験が終わったその日に勉強を教えてくれと誘われた夜乃には迷惑かも知れないが、葉子にしてみれば、勉強をすることで夜乃と一緒にいられる口実が出来るのなら勉強もそれほど苦には感じない。
 テーブルの上には数学の教科書と問題集とノート。ジュースの入った紙コップがある。
「あのね、葉子ちゃん、聞いてる?」
 テーブルに肘を付き、右手にシャープペンシルを持った夜乃が葉子を睨んだ。本気で怒っている顔ではないと葉子には分かっていた。だが、これがイエローカードに変わる注意なのだ。もう一回カードを切られたら退場処分。今日の勉強会は終了する。
「もちろんですよー。でもちょっとぼーっとしてたかも。もう一回お願いしますー」
「もう。葉子ちゃんがどうしてもっていうから付き合ってるんだからね」
 少々嫌な顔をしながら、また最初から、公式の説明、例題の解説を繰り返してくれる。
 教科書に印刷されているU字型の曲線と円が交差しているのをシャープペンシルで指しながら夜乃が別世界の言語を操る。
 葉子は、普段よりは集中して夜乃の話を聞く。
 自分だけに用意された特別な言葉のようで、葉子には夜乃の声がとても心地よく感じた。
「頑張ってるね。毎日」
 夜乃と二人きりの空間に割り込む三人目の声。葉子が最初に感じたのは苛立ちだった。
 背後から聞こえた声に振り向くと、背の高い、茶色のロングヘアーの女性が立っていた。ベージュ色の綿のパンツに、ありきたりなプリントTシャツ姿だった。シンプルな服装だが、本人の魅力のためか、とても様になって見えた。美青年にも見えるような整った顔立ちだが、その人物が女性だというのを葉子は知っている。
 もう何度も会っているからだ。
 野川花音(ノガワカノン)。図書館の近くの大学に通っている学生だ。試験期間ずっとここで勉強していたのだが、毎日こうしてちょっかいを出してくる。
 葉子は花音の事をあまり好きではない。
「あ、花音さん。学校は?」
「サボったんですかぁ?」
「君たちと一緒に居られるなら講義なんてサボっても構わないけれど、今日は二時過ぎに講義は終わったんだよね」
 葉子は許可した覚えはないのだが、勝手に花音がテーブルに着いた。
「今日も試験勉強?」
「今日は葉子ちゃんの追試の試験勉強ですよ。試験は今日で終わりました」
「へぇ、葉子ちゃんも大変だね」
「野川先輩には関係ないです」
「確かに」とキザな笑顔を浮かべた。
 花音はいつも夜乃と二人で過ごす時間に割り込んでくる。葉子が花音を嫌う最もの理由はそれだった。
「夜乃ちゃんは、髪の毛弄ったりしないの?」
 遠慮なしに花音の手が伸びる。頬をかすめるくらいの距離で夜乃の髪に触れる。硝子のように艶やかそうな頬に、小さく、可愛らしい耳に、自分以外の人間の手が伸びている。
「えー、と、そういうのあんまり興味ないんですよー」
「お化粧もしない?」
 躊躇いもなく頬に掌が触れた。夜乃も嫌がるような素振りを見せない。
 もう、我慢が出来なかった。葉子がしたいと願っていることを目の前の女はいとも簡単に行い、それを見せつけている。

 ――何て、嫌味な……!

 葉子は叫んでいた。
「馴れ馴れしく先輩に触らないで!」
 自分の声が聞こえた。まるで別人の声だった。こんな乱暴な声、夜乃に聞かせたことはなかった。
 怒りで蓄積された熱量すべてが声と一緒に放出されたみたいだった。全身で叫んだ後に残るのは、落ち着いた自分。頭は落ち着いているが、身体は小刻みに震えていた。目を中心に顔面が発熱しているのが分かる。拳は握り締めたままで、力が抜けそうになかった。
 集中する視線。静まり返るホール。驚き、怯えたような表情でこちらを見る夜乃。
「――帰ります」
 震える指先でテーブルに広げていた教科書とノートを片付け、強引に鞄に詰めた。上手く中に入らず、ノートは滅茶苦茶に折れ曲げて捻じ込んだ。
 床を殴りつけるように強く踏み込み、夜乃たちから離れる。後ろから夜乃の呼ぶ声が聞こえたが、葉子は振り返ることができなかった。一秒でも早くこの場所から逃げ出したかったし、自分でも晒すつもりのなかった激情を夜乃に見られてなお、彼女と一緒にいられるような性格をしていない。
 羞恥心や後悔、単純な言葉で今の葉子の気持ちを表わすことが出来る。そんな単純な気持ちが混ざり合って、複雑な色彩を心に作りだしていた。
 瞳に涙を浮かべながら、夜乃から離れることだけを考えて歩いた。



 案外、個人経営の喫茶店というものは探せばいくらでも見つかる物で、図書館の近くにも一軒喫茶店が見つかった。
 客は、学生風の青年と、幼い子供が二人だけと、寂しげな雰囲気を作り出していた。
「幸人君は心配症ねー」
「わざわざこんなとこまでお姉ちゃんを追いかけてくるんだもんねー」
「それが俺の任務です。万が一夜乃様に何かあったらどうするのですか」
 日に焼けてくすんだ白色をしたテーブルに三人が座っている。双子が並んで座り、対面に幸人がいる。
 双子の前にはオレンジジュースの注がれたグラスが二つと、三角形に切られたショートケーキが二つ。幸人の前には白いカップに珈琲が注がれている。支払はすべて幸人持ちである。
「何で俺についてきたんですか」
「楽しそうだから」
「幸人君一人だけだと心配だもの。図書館の目の前とかで夜乃ちゃんを見張りそうだし」
 図星だった。むしろ、二人についてこられる前まで、幸人は図書館の入り口で夜乃たちの護衛の任務についていた。
 傍まで近づかなくても、ある程度近い場所に居られれば、夜乃に異変が起きたとしてもすぐに対応できる。傍まで寄って夜乃の様子を探るのは幸人の個人的な趣向である。
「ばれたら夜乃ちゃん、すっごく怒るだろうなぁ」
「ですが、仕方のないことです」
「でも、図書館の従業員の中に天使はいるんだよ。そこまで心配することないんじゃないのかな」
「それはそうなのですが、少し、夜乃様から嫌な気配がしまして」
「男の子の気配?」
「は? その、ヒト以外の者の気配がするのです。堕天使のものとも違うようで、気にはなっているのですが……。どうかしました?」
 つまらなそうに晴と陽がオレンジジュースをずずず、と音を立てて啜っている。二人が無言の圧力を送っているように見えた。
 幸人は、何故二人の機嫌を損ねたのが分からなかった。
「べっつにー」
 二人が声を揃えて言う。二人の態度が気になるといえば気になるが、これ以上気にしていては話が進まない。
「ともかく、何かあってからでは遅いのです」
 冷めかけた珈琲を一口だけ口に含む。舌を刺激する苦さに少し顔を歪んだ。砂糖を入れるのを忘れていた。幸人は甘党である。ジュースを頼まなかったのは、見た目の上では年長者である自分の見栄だ。
「あれー、外歩いてるの夜乃ちゃんじゃない?」
「本当だー。お姉ちゃんだねー。知らない女の人と一緒だー。つまんないの」
 窓の外、車線も引かれていないアスファルトの道路を二人の女性が歩いていた。夜乃の隣について歩く赤茶の長髪の女は見覚えがなかった。
 女がこちらを見た。
 歯車の歯どうしが触れ合うように一瞬だけ、視線が重なり、そして、互いに離れていった。
 女はこちらの存在に気付いていた。恐らく、偶然ではない。
 幸人の網膜に女の微笑が張り付いている。
「――あの女だ」
 自身の中に燻っていた疑念が、僅かに燃え上がる。

⇒To Be Continued...

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