羽のある生活 2 | |
作者:
トーラ
2008年09月02日(火) 17時32分50秒公開
ID:.lzhbfUwqkE
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2―1 明樹市は海に面しており、海岸付近は工業地帯に発展していった。工業地帯には民家も少なく、工場の従業員以外に立ち寄る者は殆どいない。 そんな人気のない工業地帯の路地裏に黄昏の灯りが差し込み、アスファルトを隠す黒羽を照らす。羽が光を吸い込み、色彩を強めているように見えた。 一見羽が敷き詰められているようにしか見えない。だが、その場所に充満する咽る程の強い匂いの説明がつかない。 密度の高い匂いが脳をかき乱し、内から外に響く鈍い痛みに襲われる。その香りに身体が反応していた。そうなるように身体が作られているのは分かっている。何の匂いに反応しているかも分かる。 鮮やかに届けられる血の香り。それが頭痛の元凶だ。鼻腔だけでなく皮膚から、服越しにも血の香りを感じる。 血の匂いがするのは黒羽が赤い水溜りを隠しているからだ。羽に埋もれかけているヒトの死体も確認できた。 鈍痛に耐えかね、額を押え叶は目の前の異空間を眺める。命が失われていなければ絵画にも見えなくもない。紅と漆黒で彩られた幻想的な芸術作品。だがこれはそんな見栄えの良いものではない。ヒトの死体に堕天使の死体が重なっているだけの惨状だ。 ヒトの死も、堕天使の死も叶には見慣れたものだが二つ同時に起こるのは珍しい。 堕天使はヒトを殺す。目の前の死体も堕天使に襲われたのだと分かるくらいに形が崩れている。だが、何故堕天使の死体も一緒にあるのか。第三者がいたというのか。 ここで考え込んでも答えなど出そうになかった。頭痛に耐え続けることが最善の選択肢だとは思えない。それに、時間が余っている訳でもない。 パートタイムの時間まで後数分。本来は寄り道などする予定はなかった。遅刻は免れない。 叶は携帯を取り出し二箇所に連絡をした。一つ目はパート先のスーパーマーケットに遅れるという事を伝え、二つ目は警察に殺人が起こったことを伝えた。 仕事が終わるのは基本午後一〇時。閉店が九時三〇分。片付けの進み具合で仕事の終了時間は異なる。今回は少しだけ早く帰ることができた。 家に中に入ると、奥のダイニングキッチンで退屈そうに肘をつき、テレビを見つめる詩縫の姿が見えた。昨日もこうしてテレビに噛り付いていた。詩縫の隣には夜乃がいた。二人とも同じ姿勢をしている。 二人の仲の良い姿を見ていると気持ちが安らぐ。疲れも彼女たちが癒してくれているようだ。 「ただいま戻りました。今日はコロッケと鶏の唐揚げがもらえましたよ」 叶の帰りに気付いた詩縫たちが振り向き、綿のような笑顔で叶を出迎える。 「あ、お疲れ様です叶さん。おかえりなさい」 「おかえりなさい。まぁ、今日もごちそうね」 詩縫と夜乃が並ぶと詩縫の方が幼く見える。完全に土産に喜ぶ子供と化していた。それが詩縫らしさだと叶は知っている。そういう純粋な所が彼女の魅力だ。かなりおっとりとした母のせいで、夜乃は人一倍しっかりとした性格に育ったのだろう。 「さっそくお夜食にしましょう」 叶がぶら下げていたビニール袋を取り上げ、詩縫が電子レンジの中に入れる。 「ちゃんと晩御飯食べたのに。なんか節操ないよお母さん」 「えー、だったら夜乃ちゃんの分も私が食べるわ」 「そういうことじゃなくてー。全部食べちゃ駄目だからね」 レンジの中で回る皿を新種の動物を見るみたいに目を輝かせて見つめる母と、呆れた顔で母を見つめる娘。 「あの、詩縫。お夜食の前にお話ししなければいけないことがあるのです」 「あら、何かあったの?」 「今日の夕暮れ時のことなのですが、人間が堕天使に殺されたようなのです」 「……それはまた物騒ね。加害者の方は見つかったの?」 詩縫の雰囲気が変わっていく。表情も態度も見た目には変化はないが、叶は変化を感じ取った。 「いえ、それはまだ見つかっていません」 かん高い電子音がなりレンジの回転が止まる。詩縫は中から湯気を放つビニールパックを取り出しながら叶の方を向く。 「夜乃ちゃん、お箸取ってくれる?」 「ちゃんと聞きなよ。真面目な話なんでしょ」 「わかっているわ。でも、食べながらでも聞けるでしょう」 「それが駄目だって言ってるの。食べたいなら自分で取って」 「夜乃ちゃん、別に気にしないでいいんですよ。詩縫はちゃんと聞いてくれていますから」 叶は詩縫を庇ったが、結局温めた夜食は箸はまだつけられず、テーブルの中央で芳しい匂いを発し続けていた。 夜食を囲んで三人がテーブルに着く。 「ほらぁ、叶はちゃんと分かってるのよ」 「叶さんが良いって言っても駄目。基本的な礼儀の問題でしょ」 夜乃は一歩も引く気はないようだ。だが、食べながら話を聞く聞かないで議論をしていては話が前に進まない。夜乃もそれを理解しているようで、さっきの言葉を最後に何も反論はしなかった。 「それでですね、ヒトの遺体と一緒に、堕天使の遺体も一緒にあったのです。天使様の方からは何か報告等ありましたか?」 詩縫は明樹市に存在する天使たちの長である。天使が堕天使を倒したとしたら、その旨を長である詩縫に報告が入る筈だ。 「いいえ、そんな話は何も聞いていないわ。だとすると、堕天使が仲間割れでもしたのかしらね」 「そうですか。何にせよ、気をつけなくてはいけませんね。堕天使ではない可能性もありますし」 「報告ありがとう。ちゃんと皆には知らせておくわ」 「はい、お願いします」 会話が途切れた。報告すべきことがあると言っても、叶も多くの情報を持っている訳ではない。 「それじゃあ、今度こそお夜食の方をいただきましょうか」 「どうぞ。時間を取ってしまってすみません。私は先にお風呂をいただきますね」 お預けを解禁された詩縫は、余り物の総菜を誰よりも美味そうに食べる。その顔は見ていて気持ちがよい。 2―2 夜乃が学校に行った後、八時過ぎになると詩縫の身体は動き出す。今朝は夜乃と朝食を食べることなく眠り続けた。叶が用意しておいたトーストと目玉焼きは冷めていた。 普段よりも少しばかり多く寝たにも関わらず、詩縫は普段の朝と変わらないふやけた顔をして目を擦る。テーブルに着いたらそのまま二度寝しそうだ。 「少し温めましょうか」 「――うーん。そのまま食べるわ……」 叶の声には答えることができた。一応頭は覚醒しているらしい。 草を頬張る牧牛のようにもそもそと冷めたトーストを齧る。口は動いているがなかなか噛みちぎることが出来ない。 そんな詩縫の仕草を、洗い物を片付けながら眺めるのが叶の朝の日課だった。 緩やかに、叶たちの一日は始まる。 すべての家事を叶がこなしているので、詩縫に仕事はない。基本的には暇を持て余している。叶も、洗濯、掃除等主な家事を済ませば暇になる。仕事が終われば淡い眠気に任せ、眠気に支配された時はダイニングのテーブルでうたた寝をすることも多い。 一方、時間があり余っている詩縫は、小学生向けの計算ドリルを説くことで時間を潰していた。現在、九九を暗記中である。 詩縫が下界に降りた目的は、サンダルフォンの魂が宿る夜乃を育てるためだった。なので、幸人や、晴、陽のように学校に通うタイミングがなかった。 天使に学問に触れるきっかけなど殆どない。歴史などは人間の短い歴史程度ならば諳んじることもできるし、読み書き、様々な言葉も扱うことができる。だが、数学、物理、化学辺りは馴染みもない。知らなくても問題がないからだ。それらを知らなくてもヒトを守ることはできる。堕天使と戦うこともできる。 詩縫が暇を持て余して、勉強に目覚めたのは夜乃が高校に進学した時だったように思う。それからゆったりとした速さで、小学校の勉強内容を習得していった。 「叶、聞いて! 私、とうとう七の段を全部暗記したのよ。聞いてくれる?」 ベランダに洗濯物を干していた叶を捕まえ、詩縫が無邪気にはしゃぐ。手には可愛らしいキャラクターがプリントされた縦長い冊子を持っていた。小学校低学年向けの計算ドリルだ。 「それはおめでとうございます。聞かせてくれますか」 「ええ。こっちに来て。ちゃんと聞いてほしいのよ」 強引に叶の腕を引っ張る。洗濯物はまだ全部干せていないが、詩縫のささやかな願いは断れない。詩縫に引き摺られ、ダイニングに連れてこられた。 「それじゃあ行くわね」 「はい」 早く告げたくて我慢できない、と弾けそうな果実のような顔をして詩縫が息を整える。 「なないちがなな、ななにじゅうし……」 ぎこちなく、たどたどしい舌使いで順に諳んじていく。今のところ順調だった。だが、どこででも引っ掛かりそうな危うさもあって、叶は微かに不安を抱きながら、詩縫の挑戦を見守る。 「ななろくよんじゅうに、なななな……よん、じゅう……」 零れた硬化が転がるような速度で流れていた詩縫の声が澱んだ。 「よんじゅう……」 「四十九ですね。まだすべて暗記出来たとは言えないみたいです」 「……うん」 首が頭を支えるのを拒否したみたいに、詩縫の頭がテーブルに自由落下する。落胆、という言葉がよく似合う。 「頑張りましょう。一の段から初めて六つ段を暗記できたじゃないですか。焦らず、のんびり行きましょう」 「そうね。こんなことでへこたれてはいけないわね」 「はい。掛け算ができるようになったら次は割り算が分かるようになります。それができたら分数だってできるようになりますよ」 「分数と言えばあの棒で上下に数字があるものよね。あの記号は掛け算割り算が分からないと理解できないの?」 「えー、と、少し難しいと思います」 「そう。でも楽しみだわ。今日は七の段を完璧に覚えることにします。また聞いてくれる?」 「はい、喜んで。それでは、あの、洗濯物の方を干しに戻ってもいいですか?」 「あら、途中だったの。気付かなかったわ。ごめんなさい」 手品の種明かしでもされたかのように詩縫が驚いて見せ、その後に照れくさそう笑った。 「こちらの仕事が終わったら、一緒に勉強しましょう」 詩縫の笑顔は周りに伝染する。彼女と一緒にいるといつも笑顔が絶えない。それはとても素敵なことだと叶は思う。 洗濯物も残り少ない。掃除は、今日はまだ必要ないだろう。よって、洗濯物を干し終われば、昼食の時間までは仕事はない。 ベランダに戻った叶は詩縫の最終的な目標を思い出す。夜乃に勉強を教えたいのだと詩縫が嬉しそうに話してくれたことがあった。 和差積商が出来るようになっても、関数に図形、試練は多い。それらを理解する頃には、夜乃はもう学生ではないかも知れない。 だが、そんなことを、詩縫に言える筈がない。 仕事に行き、時間が来たら家に帰る。そのサイクルを繰り返すのが叶にとっての、本当に意味での仕事とも言える。服装はいつもと変わらずTシャツとジーンズだ。叶はあまり服装には拘らない。 月が見えないが、場所によっては明るい夜道を歩いて帰る。車の免許は持っているが、最近はガソリンが高くて乗っていない。電車が運休になった時に晴と陽、夜乃の学校の送り迎えに乗ったのが最後だった。 そもそも、車などなくても一人で移動するのには困らないのだ。走れば車並みとは言えないが走る事を仕事にしている人間よりも早く、長い時間を走ることができる。常人以上の動きは必要に迫られた時にしかしないようにと、叶は自分を戒めている。ヒトの生活に溶け込むこともまた重要なのである。 だが、今は例外だった。人の疎らな歩道を弾丸のような速さですり抜け、路地に潜り込む。 叶を遮る物がなくなり、より加速して走る。不吉な風が叶を誘っていた。 細く、左右を草花で挟まれ、更に柵で挟まれた遊歩道を走る。住宅街からも離れ、工場からも離れた道だった。普段は散歩道として親しまれている道である。人が三人も横に並べば狭く感じる程度の幅の道の中央を走る。注意するような物は何もない。道も殆ど直線なのもあり、叶は全力に近い速度を出していた。もし、この速度でヒトとぶつかれば相手は玩具のようにバラバラになるだろう。そんな心配も必要なかった。 風の濃度が増していく。それに比例して鈍痛も酷くなっていった。元凶は近い。 長い間隔で立てられた街灯の明りが叶の足元を照らす。幾つか先の街灯が照らす箇所に、灰色の地面ではなく人影が映っている。 ヒトでは人影しか認識できないだろう。だが、叶にはそれ以上の物が見て、感じることができる。 人影の足元に広がっているものが液体で、その液体が何色をしているかも、叶には見えるのだ。暗がりだろうが、どこであろうが。 生命の赤を見た。濁った色。醜いと感じてはいけない。それは尊い物だから。 下半身へ急停止の信号を送る。叶の命令に忠実に、足は動きを止める。常人離れした叶の肉体でも、慣性の法則を無視することは出来ない。超速度で運動していた物体の動きを止める。それ相応の力が叶に襲いかかる。 ⇒To Be Continued... |
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