ヒトリ 7 |
作者:
トーラ
2008年07月04日(金) 21時18分03秒公開
ID:KvBgjdlPPKE
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7―1 細く、笛の音のような吐息が顔にかかる。冷たいような、暖かいような優しい風を感じる。 吐息にくすぐられ目を開くと、華が子猫のように眠っていた。 何故私の布団の中に華がいるのか、と一瞬考えたが、昨日一緒に寝ることになったのを思い出す。 そうだった。華は私の家に一泊することになった。華の分の布団も用意したのだけど、結局二人で一つの布団で眠ることになった。 少しでも顔を近づければ鼻が触れ合うような距離で華の寝顔を見つめる。緊張しているのか眠気が引いてくる。 顔の前に華の手が見える。そっと、花びらを撫でるみたいに手の甲に触れてみた。私の指が触れているのを感じているのか、華が軽く身を捩った。子猫の欠伸のようだ。 素直に可愛いなと思った。愛らしくて、見ているだけで幸せな気持ちになれる。 次に頬を指で突いてみた。柔らかな頬に指が埋まっても反応はなかった。調子に乗って二度、三度と突く。突きながら、華の寝顔に集中していた。 だから、華の手が服の中に忍び込んでいたことに気付けなかった。 「ひぁっ!」 華の手が私の横腹を掴む。突然に訪れた耐え難いくすぐったさに、飛び魚みたいに身体が跳ねた。 「起きてるよ」 愉快そうに笑う華の顔を間近で見た。頬を突いていた片腕は華に捕縛されている。 「寝たふりしてたの?」 「してたの」 もう一度、更に愉快そうに華が笑った。 別世界にいるような幸せな時間を感じながら、ふと一人の男性を思い出す。誠司のことを。 こうして華と笑いあえるのも誠司のおかけだ。もう誠司を感じることは出来ないけれど、不思議と寂しくはなかった。一応、お別れが出来たからだろうか。 今になって思えば、誠司の行動はすべて、私をこちら側に戻すための物だったのかも知れないとさえ思う。 誠司がいなければ今の私はいない。華とも一生再会することもなかっただろう。 人の気持ちが分からないなんて嘘だ。私の気持ちを分からないのに、私が望んでいたことを実現させられる訳がない。 「どうかした?」 「……ううん。なんでもない」 私は誠司を忘れない。ずっと、記憶に留めておきたい。 7―2 学校までは母が送ってくれた。正門からは華と二人で校舎に向かった。 多分、ヒトリでは学校には来られなかったと思う。今も少し、怖い。 数日前に感じていた吐き気を覚える程の毒気にも、あの時と比べて鈍感になれている。だけど完全に意識しないでいられる訳でもない。居心地の悪いのは変わらなかった。 悪い意味で私は有名人になっている。顔も名前も知らない人が殆どでも、誰かが私を責めているのではないかと不安になり、足場が脆くなっていくような幻でも見えそうになる。 華が無言で私の手を握る。蓄積されていた負の感情が、華の手を通して発散されていくような、いらないものがなくなっていく心地よさを感じた。 「大丈夫」 「……うん。ありがとう」 大丈夫。これもとても心地のよい言葉だった。華がいるから、きっと大丈夫。 「あ」と華が声を上げて前方を見ていた。前方の生徒の固まりの方に視線が向いている。男子生徒、女子生徒、上級生、入り混じっている。 「航君!」 その一団の中に航がいた。華の、半径5メートル以内の人ならはっきりと聞き取れるくらいの大きな声で航の名前を呼び、手を振った。 「おはよー」 「あぁ、おはよう」 面倒そうに振り返って手を振り返した。一度航と目が合って、すぐに反らした。 私が航に言ったこと、したこと、させたこと。大体を覚えている。航も、多大な迷惑をかけた人の中の一人だ。 やはり、どうしても、気まずい。 「その、おは、よう。色々、ごめん」 「何が? まぁいいけど、ちゃんと仲直り出来たみたいだな。よかったじゃん」 まるで、華との喧嘩が昨日のことのように航が言う。昨日、明日から学校に行くと航にも連絡していたから、私が外を出歩いていることに航は驚いたりはしない。 「おかげさまでね」 返事をしたのは華だった。華のように接せればいいのにと思う。 私を最も気まずくさせることは、華が言った、航が私を好きだという言葉だ。航の口から直接聞いた訳ではないけれど、華が言うのだからいい加減な話ではないだろう。 「俺は何もしてないけどさ」 「そんなことないよー」 照れくさそうに笑う航と華がじゃれあっている。二人だけで話していてくれた方が有難い。 「まぁ、お前が元気で何よりだよ。それじゃ」 航が私を見て言った。そして、駆け足で私たちから離れていった。 少し距離が離れてから航が振り返り、 「それと、お前が引きこもってた時に言ったこと、全部忘れろよ。はずいから」 そう言い残し、正門に向かっていく。唐突過ぎてすぐには理解できなかったけど、紙が水を吸うみたいにゆっくりと飲み込んでいく。 何だか、航らしい。だけど、忘れてあげない。そんな恩知らずなことは出来ない。航の前では忘れたふりをすればいい。 航が求めているのは謝罪ではなくて、何も触れないでいることなのだろう。 「航君って格好いいね」 「そうかな? ……でも、そうかもね」 小さくなっていく航の後姿を見た。華が言わんとしていることは多分、内面的な部分の事なのだと思い、彼女の意見に頷いた。 確かに、そんな気もしてくる。 「私たちも行かないとね。遅刻しちゃう」 「……うん」 指先の繋がりを再認識する。彼女の手を握り返す。航との再会で気持ちも和んだが、私を囲む環境は何も変わっていないのだ。 上履きに履き替え、廊下を歩き、階段を上る。人の目が気になって、華の手は控えめに握った。本当は握り締めたい程に心細いのだけど、注目されるのも避けたかった。 三階まで上がる。私たちの教室が見えてきた。 すれ違いざまに私を見て通り過ぎる人が何人かいる。そのどれもが見覚えのある顔、クラスメイト。 驚いたような視線もあれば、気色の悪い物を見るような視線もある。 忘れようとしていた毒気が思い出される。私を異端のように見る瞳が私を責めている。 気にしてはいけない、と自分を叱咤する。ここで踏ん張れるくらいは耐性は出来ている。これは空気のような物だから、気にしていたらきりがないのだ。 そう言い聞かせるが、足が震えていた。立ち止まってしまう。華の手がなければどうなっていただろう。 「彩音……」 「ごめん」 控えめに握っていた手を強く握りなおした。こうしていないと、何かが途切れそうだから。 俯いたまま動けないでいる私に付き合って、華も一歩も動かず私の傍にいてくれる。こうして立ち止まっているだけで、廊下を歩く人たちの中で孤立しているように感じる。 ――頑張って。 隙間風が吹き込むみたいに人知れず、何処からか声が聞こえた。反射的に首を動かし辺りを見た。 「誰……?」 「どうしたの?」 「さっき、声が聞こえたの」 「私には何も聞こえなかったけど……」 華の声を上の空で聞いていた。声の元が見つかって、華の声に意識を傾ける余裕がなくなっていた。 私のすぐ後ろに、黒い塊が見えた。 私を悩ませ続けた影がまた、私の前に現れた。 影は私に纏わりつくことなくその場で漂いながら、人の姿を形作っていく。 出来上がったのは私だった。 「今の貴方なら大丈夫。怖がらないで」 初めて笑ったような気がする。自分の顔ではないようだった。こんなにも私は繊細には笑えない。 もう一人の私が一歩近づき、私の肩を押した。 「私は孤独。私なんていない方がいい。だけど、孤独を感じなければ、誰かと一緒にいようとは思えないわ」 押されるがままに一歩前に進んだ。まったく動かなかった足が動いた。 ――今の貴方は人と触れ合うことを望んでいる。ヒトリを望んでいた時の貴方ではないもの。だから、大丈夫。 声が頭の中に響いた。音が空気に紛れて消えていくように、もう一人の私の姿も消える。 「彩音! 大丈夫……?」 華が私の手を引いた。華の声が耳を通って、私に伝わる。これは現実の声だ。華の声と一緒に足音や話し声も聞こえてくる。 「彩音?」 心配そうにもう一度私の名前を呼んだ。やっと、華の声を音ではなくて、言葉として認識できた。 「……うん。大丈夫」 もう一人の自分が押してくれた背中にまだ感触が残っている。 自分の力で踏み出せた一歩ではないけれど、私は前に進めた。この一歩を、大切にしたい。無駄にしないためにも、更にもう一歩進まなければいけない。 大丈夫。この言葉を私は信じたい。私の言葉を信じたい。 「行こう。遅刻しちゃう」 初めて華より先を歩いた気がする。いつまでも華に引っ張ってもらう訳にはいかないから、私だって歩かないといけないから。 ヒトリでは、生きていけないのだから。 もう一人の私の後押しを力に、私は群れに混ざる。皆と一緒なら、寂しくはない。 ヒトリは、寂しい。 |
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