ヒトリ 6 | |
作者:
トーラ
2008年07月01日(火) 18時51分18秒公開
ID:KvBgjdlPPKE
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6―1 誠司が飛び降りた。私は何も出来なかった。ただ飛び降りる様を間近で見ているだけだった。私は誠司を見殺しにしたのだ。 そして何故か、私は元の場所に戻っていた。どうやって戻ったかも分からないまま、むしろ初めからどこにも行っていなかったのかも知れないと思える程呆気なく、私は華に認識されていた。 久しぶりに戻ってきた世界がこんなにも居づらく、苦痛を感じる場所だったことに、何故早く気付けなかったのか。逆に誠司と一緒にいたあの場所がどれだけ心地よい場所だったかに気付かされる。 誰かに見られる、認識されることが当たり前だと思っていた。それが一番の苦痛になるなんて。 何で戻ってきたの? お前、いたんだ。 口を開かなくても分かる。そういう眼差しばかりが送られてくる。 皆、私をおかしな物を見るような視線を送る。目で邪魔者だと語っている。 他人の視線が、意識が、刃物を突きつけられているように恐ろしく感じる。 物を考えるようになってから、ずっと私はこんな毒気に囲まれて生きていたのか。何年間も、ずっと。 世界を包む悪意、毒気のない場所を私は知ってしまった。誰にも認識されないことは、独りでいられることは幸運なことだったのだ。 どこで私は勘違いをしたのだろう。どこで間違えたのだろう。 こんな地獄に、私が望む物があるのだろうか。 母親に連れられ、私はなんとか学校から家に逃げ込んだ。怯え震える私を保険医は体調不良と判断し、家に帰されることになった。どうやら私は学校に行ったが授業には出ず、屋上にずっといたことになっているらしい。授業を無断欠席していたことに対して、母は何も言わなかった。 母を怖いとは感じなかった。だけど一緒にいたいとは思わなかった。独りでいたいと思った。 家に戻ってからはずっと部屋に閉じこもった。蹲って、鈍感になろうと努力したけど駄目だった。痛いという感覚はなくならない。辛いという気持ちは薄まらない。ただただ不安だった。私が生まれた場所なのに、皆と同じ筈なのに、私だけが違うみたいで。 頭の中は、大地震が起こったみたいに騒然としている。 誠司の投身、突然の帰還、認識されること、皆の視線、集団、孤立。 他にもたくさんの言葉が思い浮かぶ。それらがどう関係して、どのように私の心を追い詰めているのか、それが分からない。上手く整理が出来ない。 積み木を積み上げては崩れてを繰り返していた。脳は熱暴走を起こすくらいに稼動し続けていて、このままずっと覚醒が続きそうな予感がした。 不安の理由、悲しさの理由、恐怖の理由、何か一つでも分かれば、もっと別の事に頭が使えるようになるだろうか。 誰の視線も感じないことが、唯一の救いだった。 一夜明けて、華に会いたいと願っていたのを思い出した。それは無謀な願いだったのかも知れない。 会ってどうするつもりだったのだろう。何も考えていなかった。私に会いたいと泣き崩れた華を見て、単純に会いたいと思っただけだ。 あの時は、会いさえすれば何とかなる。喧嘩する前に戻れるかも知れないと期待していたのに、今はどうしてもそんなに都合よく考えられなかった。 誠司を見殺しにしたような人間を誰が受け入れてくれるというのか。仮に受け入れられたとしても、誠司のように望まない一方的な別れが訪れる可能性だってある。あんな思いは二度とごめんだ。きっと私は耐えられない。 ならばいっそのことヒトリでいた方が楽なのではないか。元々私はヒトリだったのだから。 だから、部屋の外で私に語りかける声に返す言葉は決まっている。 「会いたくない。帰って」 華と会っても、辛くなるだけだ。外に出たところで、充満する毒気に怯えなくてはいけない。 会いたくない、会えない。会うのが怖い。 「どうすれば出てきてくれる?」 気遣いに溢れた声で華が言った。私ではない誰かに向けたような声だった。 どうすれば部屋から出られるのだろう。それは私にも分からない。無理して答えを探して、答えてあげる義理もない。 「返事くらいしろって。彩音」 次に聞こえたのは航の声だ。私にとって関係の深い二人が繋がっていて、私の知らない関係が出来ていた。二人にはどんな接点があったのだろう。 「おい!」 航の怒鳴り声がドア越しに聞こえる。 いつも航は、頼みもしないのに私に気を回す。一度も礼も言ったことも、感謝を口にしたこともないのに、いつも。今だって、航は私に関わってくる。 華だってそうだ。辛そうな声を出すくらいならやめてしまえばいい。 こういうの、正直、重たいだけだから。 私なんかに構わないで。お願いだから。 「いいよ。ごめんね。……また、来るから」 その一言の後は何も声は聞こえなかった。多分華の最後の言葉は嘘ではない。またドア越しに悲痛な華の声を聞く時のことを考える。 それだけで辛くなった。 その日の夜、母が声をかけてくれた。華のように怯えた声でもなく、航のように感情的でもない普段どおりの声だった。 「お腹空いてない? 大丈夫? 無理して出てくることないけど、身体壊さないようにね。何かあったら、メールでもしてね」 それだけを告げて、母の足音は遠ざかっていった。 出てこなくていいと言ってくれたのは母だけだ。耳に優しい言葉だった。無条件に甘えてしまいたくなる程に。 母の言葉に甘えていいのか、と疑問に感じる気持ちもある。私がそう考えることを計算しての言葉だったのかも知れない。ここから動く気にはなれないけれど。 ここから動くことが出来るのなら誰もいない場所を探すだろう。元の生活に戻るという選択肢はないし、部屋から出る気力すらない。それでも、罪悪感にも似た申し訳なさは生まれていた。 私は何をすればいいのか。私の気持ちは何をしたいと感じているのか。まだ分からないことは多い。 時間が足りない。迷路の入り口に立ったに過ぎない。 6―2 何度か華が私の部屋の前に立った。航も一緒だった。追い返す度に私の内側が軋む音が聞こえてきそうだった。 母も毎日声をかけてくれていた。ドアの前に食事を用意しているようだったが、空腹を感じなかったから食事に口をつけることはなかった。感覚の一部は向こう側に置いてきたような、妙な気持ちだった。それが好都合なのかそうでないのか、判断が難しい。 今日は航が一人で会いにきた。散々怒鳴って帰ったところだった。私にとって都合の悪い本音を言い当てるだけ言い当てて航は帰った。追い返したようなものだが。 華も航も追い返すのは辛い。このままでいいなんて思っていない。仲直りだってしたい。全部航の言うとおりだ。だけど、それが分かったところでどうにもならないのだ。理屈だけでは動けない。私の足を掴む恐怖は理屈ではなくならない。 航にはそれが私の我侭に見えるのだろう。航は分からないのだ。私が部屋から出られない理由に。私だって完全に分かっている訳ではない。だが航は欠片も気付く様子もない。 私の気持ちはただの我侭で片付けられる。どうして分かってくれない。触れないで欲しい本音には簡単に気付ける癖に、分かってもらいたいものには見向きもしない。なのに、航の言葉には私の事を考えてくれていると感じるくらいに熱がこもっていた。本気で私に怒鳴っているのが分かる。彼の本気に応えられないのが大きな負い目になっていた。 いっそのこと、誰も私に関わらなければ何もかも上手く行くのではないか、と思う。私がいなければ、誰も私のために傷ついたり、怒ったり、自分の時間を費やすこともない。 誠司と一緒に行っていればよかったのだ。こちらに戻ってきたせいで、私に関わる者すべてに迷惑をかけている。 私なんていなければいい。皆の記憶から消え去って、誰にも認識されなくなれば、今の状況から開放される。私の望む結果が得られるだろう。 誰にも認識されないことは、ある意味で幸せなことだったのかも知れない。 誠司の向かった場所へ行きたいとは言わない。せめて、誰も私に気付かなかったあの場所へ戻りたい。こんな思いをするくらいなら、まだそちらの方がましだ。 どうすれば戻れるのだろう。どうやって私はあそこに迷い込んだのだろう。 戻りたいという強い願望が生まれる。 「今の貴方じゃ何処にも行けやしない」 膨れ上がる望みをかき消すように、不意に自分の声が聞こえた。顔を上げる。そこには私がいた。 これが三度目になるか。もう驚くことはない。 もう一人の自分が冷ややかな視線をこちらに向けて立っている。何もかも見透かしたような、冷たい瞳。 「貴方はここから動けないわ。だって、貴方がそう望んでいるから」 「どうして? 私はこんなところにいたくない……。ここにいたいだなんて望んでない……」 ここにいたいだなんて、望んでいる筈がない。こちらに戻ってきて良かったことなんてない。皆が私を気遣ってくれるが、そんなものは重荷にしかならない。 「戻りたいの。誠司君がいなくたって構わないから、またヒトリになりたいの」 「ヒトリは辛いからこちらに戻りたいと言ったのに? 望みどおり戻ってきたのに、今度は向こう側に行きたいの?」 我侭ね、と遠まわしに言われた気がした。私の言い分が勝手なのは自覚している。 「それも彼方は心から願っていないわ」 突き放すように私が続ける。それだけは理解できない。 心から願ってない? 自らこの状況を望んでいると私は言う。ありえない。そんなこと。 「どうして分かるの?」 「本当に心から願っているのなら、彼方はここにはいないわ。貴方の望む向こう側にいる筈だから」 説得力のある言葉だった。反論が出来ない。私がここにいるということは、ここにいることを願っているからなのか。塵程も思っていないのに。 「ここになんか、いたくないのに……」 「なら、どうして貴方は怯えているの? 集団に混ざっていけないのが怖いのではないの? 仲間外れが、一人ぼっちが怖いのではないの? ヒトリを認識するのが怖いから、誰とも関わろうとしないのではないの? ここにいれば、仲間外れにされて傷つくこともないものね。貴方は、ヒトリを恐れているわ。今の貴方じゃ、向こう側になんて行けやしない」 淡々と理由を並べていく。私の感情だけの頼りない反論が理論で捻じ伏せられた。この言葉たちは、もう一人の私の言葉だ。すべてを否定はできなかった。 「もう一つ、貴方は認めるべきことがある。貴方もそれは理解している。だけど認めたくないと否定している」 「……何を?」 何を伝えようとしているのか分からなかった。私の中に何が埋まっているのだろう。 私自身が遠ざけた一つの気持ちを、もう一人の私が指摘する。 「貴方が本当に恐れていること。それは誰も貴方に会いに来てくれなくなること。お母さんも、航も、華も。いつか愛想を尽かして誰も会いにこなくなる時が来る。それが貴方にとって一番の恐怖。逆に、誰かが会いに来てくれるのを期待している」 告げられた言葉は、螺子が噛み合うみたいに隙間なく私の中に入り込んだ。誰も来なければいいと願っていたのに、心の中では間逆の事を考えていた。本当かどうかを判断することなく、即座に否定したくなったことが、真実を言い当てられた証明だ。 真実だと分かっているだけに、反論の言葉が思い浮かばない。 「……でも、でも私がいなくなれば全部上手くいくのよ」 「それも貴方の本心だわ。だけど、すべてじゃない。それに、今の貴方はあの時の貴方ではないもの。貴方は変わったわ。それも向こう側に行けない理由なのかも知れない。だけど、貴方は入り口の前に立っているわ。向こう側に限りなく近い所に貴方はいる。気持ちが変われば、また戻れるかも知れない」 その声に続く物はなかった。声が聞こえなくなった時には、私の姿は消えていた。部屋の中にはうずくまる私が一人だけだった。 6―3 暫く誰も会いに来ない日が続いた。寂しくないとは言えない。だけど、誰も追い返さなくなったことで、心の負担は減ったように思う。 捻じ切れるような苦しさを感じる程の寂しさはない。許容出来る範囲の物だった。 何も話さず、何も見ず、一つの場所に留まっていると、自分が何処にいるのかが曖昧になってくる。風にさらわれる風船のように、浮かんでいるような気にもなる。 私はもうここにはいないのかも知れない、とすべてが曖昧に感じ始める頃に、いつも母の声が聞こえるのだ。その声が私をここに繋ぎとめている。母の声を聞いて、私は部屋の中にいること、膝を抱えてうずくまっていること、家の中には私と母がいることを実感する。 母の声がなければ多分私はここにいない。自分が何処にいるかすらも把握出来ない。 ⇒To Be Continued... |
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