ヒトリ 5 | |
作者:
トーラ
2008年06月15日(日) 00時57分40秒公開
ID:KvBgjdlPPKE
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5―1 教室の中から窓を覗くと、第二校舎の屋上に人の姿が見えた。その姿が彩音だという根拠は何一つなかったけれど、トイレと行って教室を抜け出し、屋上を目指していた。 途中、航にメールを送った。彩音が屋上にいるかも知れない、と。 仮に屋上に見えた人影が彩音だったとしても、屋上にいる理由がたたない。何でそんなところにいるのだろうと疑問を抱えて走り、屋上に向かっている。そもそも、第二校舎の屋上はフェンスが破れているから立ち入り禁止になっている筈なのに。 教室からある程度離れた。トイレに行っていないのがばれる心配も薄れただろう、と足音を気にせず走った。 屋上と校舎を隔てる一枚のドアの前に辿り着く。錠が壊れて床に落ちていた。ドアも半開きになっていて太陽の光が漏れている。誰かが屋上に入った形跡に違いない。 ずっと走っていたせいで激しく揺れる呼吸を軽く整えようとしたけれど、別の要素が胸の高鳴りを強くした。ドアを開いたら彩音がいるかも知れない。そう思うだけで息苦しくなる。 ドアノブを握るまでに数十秒かかった。大きく息を吸って吐いてを繰り返して、覚悟を決める。 ドアを開く。薄暗い校舎内に光が溢れる。眩しさに目を瞑りながら屋上に進む。 天井がなくなり全身が光に晒された。ゆっくりと目を開く。景色の半分が青く見えた。 その真ん中に、一つの女性の後姿があった。 見覚えのある背丈。見覚えのある髪の色、髪型。 誰が立っているのか、振り向かなくても分かる。 目の前の彼女の名前で頭が埋め尽くされる。 空気を精一杯吸い込み、彼女の名前を叫んだ。一度だけ、一度で肺に溜め込んだ空気を吐き出すくらいに力を込めて、「彩音」と叫んだ。 私の声が彼女に届いた。彼女が振り向く。どことなく硬い表情で私を、見ている。 彩音が私を、見ている 悩むことなんて何もなかった。棒みたいに立つ彩音に向かって走った。転びそうになりながら、前に進むことだけを、彩音に近づくことだけを考えて走った。 彩音に辿り着く。勢いをそのままに彼女に飛びついた。一瞬彩音の身体に力が入ったが、私を支えきれず二人で倒れこんだ。 彩音の身体に触れている。彩音が呼吸をしているのが分かる。温かさが伝わる。 彩音がそこにいる。 彩音を力強く抱けば抱く程。彼女の存在を間近に感じられた。 「やっと……やっと会えた……」 彩音の背中に顔を擦り付けた。同時に溢れる涙を彩音の背で拭った。 私の心を支えていた彩音の記憶が溢れ出した。空っぽになった心に新しい彩音の姿が詰められていく。もう昔を思い出して彩音を感じなくていい。彩音を見て触れるだけで、もっと簡単に、もっと強く感じられるのだから。 彩音が小さな声で何かを口にした。よく聞こえなかった。 「離して! お願い! でないと、誠司が行っちゃう! 華!」 私から逃れるように彩音が前に手を伸ばす。その先にはフェンスの穴がある。 「嫌……。もうどこにも行かないで。離したくないよ……。落ち着いて。誰もいないよ。私たちしかいないよ。誠司ってだれ? そんな人いないよ」 彩音が何をしたいのかが分からなかった。彩音が誠司と呼んだ人は何処にもいない。彩音が手を伸ばした先にはフェンスの穴しかない。何を、言っているのだろう。 彩音を抱き留めている実感が沸いてきて、気持ちが少しだけ落ち着いてきている。 「目の前にいるじゃない! そのフェンスのところに立ってる。飛び降りちゃう!」 ずっと彩音は手を伸ばし続ける。彩音は何を見ているのだろう。交差しない気持ちと会話で不安が生まれた。 校舎の方から駆け足の音が聞こえた。きっと航がこちらに向かっている音だ。 予想通り、入り口に現れたのは航だった。 「……何が、どうなってんだ」 肩を揺らしながら航が言った。 「何でお前がいるんだよ……」 そう続けて、航も彩音と同じくフェンスの穴に視線を送った。私だけが置いていかれている。航も、彩音と同じ物を感じているのか。だとしたら、何があるのか。何もない筈なのに。ただのフェンスが破れて出来た穴があるだけなのに。 彩音の身体が止まる。私を振り払おうと必死に暴れていたのに、空気が抜けたみたいに動かない。 空気の質が変わった気がした。 抱き留めていた彩音の身体が突然震えだした。怯えているのではなくて、身体に異常がある時のような震え方だった。尋常ではないくらいの、震えを通り越して痙攣していると言っても言い過ぎではないと思う。 「だ、大丈夫? 彩音?」 私の声に応えるように彩音が胃の中の物を吐き出した。粘ついた透明な液体が口から漏れた。 「どうしたの! 彩音!」 私は混乱して意味のない言葉を投げかけるしか出来なくて、彩音は言葉を話さず動こうとはしなかった。震えも止まらなかった。 どうすればいいか何一つ思いつかなかった。 彩音と再開すれば何もかも上手くいと思っていたのに、私たちの再会は言葉も殆ど話すことなく、訳の分からないままに完了した。 私は何を期待して屋上に向かったのだっけ。それすらも思い出せないくらい、彩音は私を意識していない。見えない何かをずっと見つめていた。私を見てはくれなかった。 これからどうなるのかとか、先の事を考える余裕なんて欠片もなかった。今は彩音の背中をさすって、名前を呼ぶだけで精一杯だった。 5―2 クラスメイトの口から彩音の名前を聞く度に不愉快に思う。聞きたくもないくだらない噂話が一緒に聞こえてくるからだ。 顔も知らない人間のことでよくもここまで面白可笑しく楽しめるものだ。このクラスは馬鹿の集まりだ、と自分の事を棚に上げて彩音の名を口にする者全員を蔑んだ。 俺の頭の中だけの呟きは誰にも聞かれることはないし、目の前の机を蹴り倒してやりたい程の苛立ちもきっと誰も気づかない。 何が自殺未遂だ。どう考えたらそんな答えが出るというのか。どうせ、面白がって適当に考えた結果だろう。噂話に花を咲かす連中にとって真実かどうかなんて関係なく、噂に根拠がなくても楽しめるのだろう。 馬鹿が一人、俺に近づいてくる。 「なぁなぁ。お前昨日屋上にいたんだって? 何があったんだよ、教えろって。自殺を未遂にしたってマジ? なぁなぁ」 苛立つ俺の神経を逆撫でするような愉快そうな声で和弥が聞いてくる。俺の不愉快な気分が倍増された。 「あぁ? なんだよ。鬱陶しい奴だな」 出来るだけ不快な感情を表に出して、警告のつもりで言った。二度とその話題を俺に振るな、と。 「そういうなよー。こんなイベントもう二度とないかも知れないんだぜ? 楽しまないとさ。一番詳しいのってお前じゃん」 俺の心遣いは無駄になった。話題を変える気配もない。和弥はそういう人間だった。こいつの空気の読めない発言に何度腹を立てたかなんて数え切れない程なのに俺は何を期待したのか。 今回の発言は、聞き逃せなかった。我慢してやる気にもなれなかった。 俺が彩音をどう思っているかなんて知らないのだから仕方がないのかも知れないが。 「ちょっとトイレ行かね?」出来るだけ怒りを隠して和弥を誘う。 「いきなりかよ。まぁいいけど」 和弥は疑いなく俺の誘いに乗った。トイレに、出来るだけ人がいないことを願う。 胸倉を掴んで力任せに個室のドアに和弥を叩きつけた。背がぶつかった瞬間和弥が顔を歪めた。不意打ちだったお陰で簡単に和弥をドアに押さえつけることが出来た。 「ちょ、ちょ! 何だよ。どうした!」 「お前が知りたがってた昨日の話だよ。惚れた女をネタにされて何も感じないような人間じゃないんだよ。俺は」 青ざめていく和弥の顔を見ながら告げる。ここまですれば俺の怒りは伝わるだろうか。 トイレに入ろうとした学生が俺を見て出て行くのが見えた。あまり長い間いると迷惑になるか。 「二度と俺にその話をするな。答える気もない。分かった?」 本当は殴りつけてやりたいと感じていた筈なのに、行動に移せたのはドアに叩きつけて脅す程度のことだけだった。 人を傷つけてはいけないと幼い頃から洗脳されてきたせいか、殴ってやろうと拳を握れば理性が静止させようと働いている。 「あ……悪かった。悪かったから、放せって。苦しい」 両手を挙げて、降参という仕草を見せて和弥が言った。喉に俺の拳が当たっているからか、息苦しそうに見える。 和弥の襟を握り締めていたのを思い出し、腕の力を抜いた。俺の腕から開放された和弥が大きく呼吸をする 自由になった腕が震えていた。他人に暴力を振るうのは小学生以来だろうか。本気で殴りあうような喧嘩もしたことがない。人を傷つけるのを恐れて、暴力を振るったことは殆どない。 情けないがこの震えは興奮しているせいではない。むしろ冷静に和弥を見て、自分の身体に起こったことを分析しようとしている。 震えは恐怖が原因だ。理性に逆らったことに対しての恐怖。和弥の報復の可能性。恐怖の要因は幾らでも思いつく。 「いや、本当に悪い。すまん」 「知らなかったんだろ。仕方ないだろ。俺も興奮しすぎた。悪い」 馬鹿なことをした。出来もしないことを無理してやろうとしても、自分が惨めなだけだ。 片思いの相手を笑い話の種にされても、心の底から怒って殴りつけることも出来ず、理性は事なかれに走っている。 そんな自分が酷く情けなかった。 5―3 彩音が帰ってきた。今まで彩音の記憶が抜け落ちていたクラスメイトも彩音を思い出した。学級名簿にも彩音の名前が戻った。いなかった期間は出席になっていた。無遅刻無欠席だ。 何もかも都合よく歪みが解消されていた。 環境の歪みがすべて元通りに直っても、普通と感じられる時間が戻ってはこなかった。 彩音を求める日々の方が楽だったかも知れないと思う程、別のところで捩れと歪みは生じていた。 彩音が帰ってきてから、一度も彼女の顔を見ていない。まともに話も出来ていない。学校にも来なくなった。帰ってきた彩音は私の知っている彩音ではなかった。 今日も、部屋のドア越しに彩音に声をかける。 「今日も、やっぱり会いたくない……?」 「会いたくない。帰って」 本音にしか聞こえないような声が聞こえた。部屋に閉じこもったままの彩音の声音は、本当に別人の物に聞こえる。 拒絶される辛さが今なら分かる。 「どうすれば出てきてくれる?」 返事はなかった。涙声にならないように必死に堪えながら発した声が酷く空しい。 「返事くらいしろって。彩音」 私の後ろで様子を見ていた航がドアに向かって言った。航の声にも返事はなかった。私たちの声はドアを通り抜けていないのかも知れない。 「おい!」航が声を荒げた。 「いいよ。ごめんね。……また、来るから」 航が怒鳴るのを制する。私は航のようには怒鳴れない。怒鳴る気もない。怒鳴れる立場になんていない。 遮られたことに釈然としない表情を見せながらも、航は黙ってくれた。 彩音は何も悪くないのだ。怒鳴られ、責められるのは私。だから、そんな強く言う必要なんてない。 玄関で彩音の母親が私たちを見送る。 「お邪魔しました」 彩音と話が出来ないのも慣れた。また明日、明日が駄目なら明後日だ。私には、こうして毎日彩音に声をかけることしか出来ない。そのくらいしか思いつかないのだ。 「毎日ありがとうね」 私が毎日彩音の家に通うことが、彩音のお母さんを追い詰めることに繋がっていることを最近になって知った。私と航を見送る時のお母さんの自責する表情はとても痛々しい。 「いえ……ご迷惑をおかけしてすみません。その……明日も会いに来ても、いいですか?」 「来てくれた方があの子も喜ぶと思うから、良かったら、また明日も来てくれると嬉しいけどね。航君も、悪いね」 「そんな。気にしなくていいよ。腐れ縁だし」 気まずそうに航が笑った。お母さんも、疲れた顔で笑った。どんな笑顔にせよ、私は笑顔を返さないといけない。それが礼儀だと思うから。 「ありがとうございます。今日はありがとうございました。それじゃあ、失礼します」 頭を下げて、玄関から離れる。暫くお母さんは玄関の前に立って私たちを見送ってくれていた。 空を見上げる。日が落ちるのも早くなった。少し前までは、まだまだ明るいと思っていたのに、もう夕暮れ時だった。 「なんか、本当にさ、悪い……」 「何で航君が謝るの?」 「いや、せっかく毎日会いにきてやってるのにさ、彩音があんなで」 「変なの。航君は何も悪くないじゃん。それに、彩音に会いに行ってるのも好きでやってることだから気にしないで」 無表情に言うよりは、無理やりでも笑って言った方が説得力がある。 自分でも綺麗言だなと思った。心の底から気にしないでいいだなんて思っている筈がないのだ。心の何処かで何で会ってくれないのか、と納得出来ない自分がいるのに。疲れていない筈もないのに。それでも、そう言うしかなかった。 ⇒To Be Continued... |
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