忘却の書 #2
作者: Mistress   2008年05月07日(水) 01時43分39秒公開   ID:OQJxgFJyfkQ
名を呼ぶその声は悲痛の叫び。 或いは、断末魔。
「ああ、――――」
遠く懐かしむような目を向けたのは如何なる感情によるものか。
入り混じるものは多かったけれど、その声音に乗っていたのはきっと……
「そうでなければ満ちぬと思い込んでいた。
 恐らくは―――愚かだった。 あの頃から、今でも変わらず」
きっと、後悔。 永遠を体現するその身だからこそ。
……伸ばした指先は頬をなぞり、しかし何の感触をもそこに残さず。
実体を失った存在と理解はしていても、今はただその事実が悲しかった。
彼の死とはこういうことだ。
そして、いずれ自身に訪れる終幕もまた。
存在は消え、透明な風に薄れていく余韻さえ儚く。

…この物語は記憶の断片。
ここに終わり、この先も続く空白までの道程。



――――― 故に、その名を『忘却の書』。





第二話 〜Despair〜



包む宵闇にその色を誇るが如く、暴虐の王は軽く右腕を掲げて。
しかしあの暴風で迎撃することはせず、先の言葉の通りに手を抜いて眺めているのみ。
…魔力を解放したエレーネが手元に呼び出したのは身の丈を超える無骨な槍。
否。先端に己にも似た片刃を持つその凶器は、本来馬上で使われるべきハルバード。
召喚した其れを重力に引かれるに任せて振るえば、切っ先が狙うは黄金の標的、その右腕を。
「―――ふん」
対し。 つまらなさそうに鼻で笑った黒衣姿は、深く一歩を踏み込んで。
右の裏拳を柄に叩きつけると、そこから真っ二つに折れてしまうハルバード。
金色の暴力は何も風を紡ぐだけがその能力ではない。
そこから直接注がれる破壊の力を前に、砕けぬ物などこの世に存在しようはずも無いのだ。
「良い策だ。 貴様にもう少し技量があれば、な」
またもあっさりと…文字通りにその攻撃を打ち砕かれて。
同時に砕かれたのはその心もか。 次の行動に―――移れない。
そんな隙を王が黙って見逃すはずは無く、硬い軍靴のつま先が娘の鳩尾に叩き込まれる。
鎧を纏うわけでもなく、重い衝撃は殺されることも無く其処を貫いて。
「かは、っ……!?」
残された柄がトサリと地に落ちる。
悲鳴を塞ぐように溢れる呼気。刹那見開かれた目には困惑さえ宿る。
膝から力が抜けそうになるのを懸命に堪え、両手で腹部を押さえながら息を整え…
しかし、魔王は非情。そんな有様の娘の手首を掴み上げ、高く掲げてはその身を宙吊りに。
「く、っ …!  この、……!!」
強く握られた手首の痛み。それを堪えながらに、自由な方の手を突き出して雷撃を叩きつける。
弾けるような音が魔術を遮ったのはその至近距離でのこと。
割って入った魔王の片手がたった今放った雷撃を受け止め、そして―――蒼電を帯びる。
バチバチと手のひらに宿すのは『雷帝』が残る力を振り絞って放った一撃。
威力の程は語るまでも無いそれを、笑いながら……娘の腹に押し当てる。
「あうっ!  ―― あああああああぁぁ!!」
びく、と糸で引かれたように仰け反った全身。
跳ね返すと言うよりも掴んで突き返すと言った乱暴なやり方で浴びた自身の魔術。
注ぎ込まれた電撃に打ちのめされ、駆け巡る痛みに悲鳴が上がる。
……そのまま脱力し、項垂れる様子を見届けると、満足げに娘の身体を投げ捨てる魔王。
「――― 、  ん ……。 っ … 」
うつ伏せに地に叩きつけられた身にはまだ時折電流の散る様が見える。
それに合わせて痙攣するように四肢が震え、受けたダメージの大きさを物語るかのよう。
闇に落ちそうになる意識を繋ぎ止め、何とか身を起こそうとするけれど…力が入らない。
目を閉じかけたその瞬間、土を踏む足音がゆるりと近づいてくるのを聞いた。
――――そう、敵はこの程度で決着とする手合いでは無い。
「逃がした鼠が女王を連れてくるまでにはもう暫くかかるだろうな。
 ……さあ、どうする。 このまま殺されて終わりか」
顔の真横で止まった歩み。背に降る言葉に悪寒が走る。
この国に攻め入る者が居ないのは、何も「暗黒卿の娘」が統べているからというだけではない。
領内に聳える魔城ブラニスリンクに居する不死の女王。
同盟などと堅苦しいものでは無いが、戦の折に手を貸すのは目に見えている。
それ故にラインフェルスに手を出すのは自殺行為とされているのだが、
この王は女王を誘き寄せるために敢えてこの城を攻めたと言うのか。
確かに無策で敵の本拠地に乗り込むよりは理に適った方法だが……
それでも、失念してはいないか。 かの女王は死を知らぬ身。
打倒する事など何者にも出来はしない存在だという事を。
「貴方は、っ ……何を、企んで…」
ただ、知っている。 眼前の戦争狂は決して浅はかではない。
彼が動いたという事はそれなりの策が用意してあるということ――――
…苦痛が色濃く滲む声音を嘲るように息を吐き。
黒衣の魔王は娘の黒髪を掴み、脱力したその身体を持ち上げる。
「さあな。 ……それよりも貴様、時間潰しにもならんではないか」
冷ややかな目はその心さえも抉らなければ気が済まないのか。
返す眼差しに混じるのは怯えの色。
髪を引かれる痛みなど忘れてしまうほどに、目の前のこの男が怖い。
もはや今のエレーネに魔法は紡げなかった。
先程よりも威力を抑えれば当然同じことの繰り返しになってしまう。
かと言って先程以上の威力を注ぐのは―――もし、それが自分の身に返ってきたら。
それを思うだけで身は強張り、とてもではないが呪文を口にする事が出来ず。
……彼女の無抵抗をいいことに、魔王はもう片方の手をそっと腰に回して。
戸惑う声ごと殺すが如く、加減の一切を知らないその膝が柔らかな腹に叩き込まれる。
「―――― !?  か、     …ぇ、はっ …!」
後ろから押さえるその手が衝撃の逃げ場を与えず。
全身を支配する重い痛みは、一瞬頭の中を白く染めるものの気を失う事さえ許さない。
「げほ、 げほ…!  ごほ、っ……!!」
「俺の策よりも自分の身を案じる事だ。そら、死ぬぞ?」
肺の奥底からせり上がるような咳。息を吸うことが…できない。
そんな様子に向けられる愉悦の目。冷酷に添えた言葉に合わせて再び叩き込まれる膝。
「あ、 …! ――――、 ぁ、   …――!」
もはや悲鳴もまともに声を成さない。
手を持ち上げて腹部を庇おうとするのだが、先程の電撃による痺れが残っていて上手く動かせず。
魔王の両手は塞がっており、今魔法を放てば或いは通じるかもしれないのだけれど。
そんな考えなど浮かぶ余地も無い。頭の中で繰り返されるのは、ただ…「助けて」、と。
「……や、   っ 、ぇ ―― !  ………ぁぐっ…!! ―― 、…!」
さらに何度も繰り返される拷問のような責め苦。
幾度目かの咳には鮮血が混じり、白いブラウスを汚していく。
気付けば――――息の詰まる声も途切れ。死んだようにぐったりと動かなくなった魔族の娘。
腋と膝裏に手を差し入れて抱き上げると、王はその身に目線を落として。
暴れるような鼓動が腕に伝わる辺り、どうやらまだ死んではいないらしい。
「―――は。 ……ははははは…!」
抗う術の一切を失った今、こうして腕の中で眠る姿は人間の少女と何ら変わらず。
それでも、……まだ愉しめる。
嗜虐心を隠しもしない笑い声を零すと、半壊した城へと向けて歩き出す。
紅月の灯る夜、幕が下りる気配は――――未だ。







不吉の魔城、ブラニスリンクには一人の王が住まう。
神代より永遠を生きる吸血鬼。その名を……エリザベート。
一般に不老不死と言われる吸血鬼も、その不死性には何らかの例外がつきものである。
心臓に杭を打たれれば死ぬ。太陽の光を浴びれば死ぬ。首を落とされれば死ぬ。
長い年月の果てに劣化した種などは、銀の武装や十字架すらも天敵としている。
故に……「不死」とはこの世界においてもただの幻想に他ならなかった。
ただ一つの例外、ロードオブブラニスリンクの存在を除いては。

エリザベートは支配や統治に一切の関心を示さなかった。
或いは気の遠くなるほどの昔、一国を統べたことがあったのかもしれないが……
記録に残っていないのだから今現在それを知る術は無い。
……ともあれ。そんな事情から彼女は領地を持たず、従える配下も持つことは無かった。
本来ならば血を吸った相手を己が眷属と変えるのが吸血鬼である。
しかし彼女はそうすることを嫌い、血を吸った相手は例外無くその場で殺してしまっていた。
永遠の時を生きる自身が、永遠には生きられないモノを従えることに抵抗があるのか。
自身の「子」とも言える存在を世に生み出すことを嫌悪したのか。
――――或いは、単なる気紛れか。
そんな孤高の吸血鬼は、魔界においては常に畏怖される存在だった。
なにせあらゆる手段を用いたところで死なないのだから。
それだけならまだしも彼女は強大な魔力をも兼ね備えている。
敵に回すのはあまりに愚か。目をつけられれば大人しく退くが身のため。
やがてその名を呼ぶ事さえ忌避され始め、決して崇拝されない『女王』が誕生することとなる。
いつしか――――エリザベート自身もまた、己が真名を告げる事は無くなっていた。
その名は疎まれ呪われた不吉の象徴。存在を望まれず、誰からも求められなかった一つの災厄。
故に、女王は仮の名を紡ぐ。 ブラニスリンクの主の名は、「ソフィエルト」であると。



鏡に映した自身の姿を眺め、灰銀の髪に櫛を入れる。
腰まで伸ばしたその銀糸は、窓から差す月光を宿して淡く輝いて見えるほど。
やがてその髪を梳き終えると……小さな音を添えて化粧台に櫛を置き、改めて室内を見渡す。
魔城の寝室には装飾が重ねられ、天蓋付きのベッドはそれだけで小部屋ほどの広さ。
ただ、何故だろう。 この部屋を形容するのに華美という言葉は似つかわしくなく。
言うなれば無機質。或いは殺風景。見る者に漠然とそんな印象を抱かせる一室。
その要因は決して見当たらず、何かしらの「嫌な予感」だけが宙に浮いている。
此処ブラニスリンクが不吉の魔城と呼ばれる所以であるが、当の女王には気にならないらしい。
一つ零した溜息はそんな部屋の様子にではなく、単に退屈を持て余すが故。
「――― ん?」
しかし、今宵の静寂を破る物音を聞いた。
……実はこの城には結界の類は張られていない。
戦乱の世ではないとは言え、かの魔王のように侵略を企てる者も時折現れるのが魔界である。
なので各々の城主は城に結界を張り巡らし、魔法による強襲への対策としているのだった。
言わば防衛の基礎。 ブラニスリンクも元々はそうしていたのである。
が、先に語った事情のおかげでこの城に手を出す者は皆無。
いつしか面倒になったのか、或いは誰か攻め込む者でもあれば退屈凌ぎになると考えたのか。
女王は結界を消してしまい、それ故に城に忍び込む者が居たとしても感知することはできなかった。
―――こうして足音でも聞かない限りは。
近づいてくるのは小走りなヒールの音。敵ではあるまい。
来客にしても珍しいことだと笑みを落とし、一歩扉へと踏み出したその瞬間。
「 っは、 …はぁ、  ―――ソフィアちゃん、助けて……」
乱暴に開け放たれた扉。此方の姿を見るなりそんな一言を。
……何よりも、この女王をそんな風に呼ぶ者など他に居ない。
エンパイアドレスの裾は擦り切れ、上がりきった息で床にへたり込む彼女は見知りの存在。
「テレジア…!?  一体何が―――」




■作者からのメッセージ
第二話の終わりにしてやっと出てきましたが、このお話の主役はソフィエルトさんです…!

相変わらず変則手法でお送りします。
シナリオ的にはどんなもんでしょうね。
今後の展開が読めちゃった人は……ご、ごめんなさい。

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