ヒトリ 1
作者: トーラ   2008年04月07日(月) 20時07分43秒公開   ID:KvBgjdlPPKE
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 静かな廊下に足音を立てて歩く。同じ形の窓が並んだ壁に見つめられながら自分の教室を目指す。すれ違う教室からは教師の声が聞こえる。授業中に、廊下を堂々と歩いている私に誰も気付いていない。
 自分のクラスの教室に着き、扉を開く。サッシと扉が擦れて少々耳障りな音が授業中の教室に響いた。だけど、誰も私に振り向かず、何事もなかったように授業は進んでいる。
 時計を見た。三時間目の最中だった。遅刻した私を教師は咎めることもせず、私に見向きもせず黒板に文字を書き込み、黒板に書いた文字を解説している。
 私を無視しているのではない。

 皆、私に気付かないだけなのだ。

 昨日も、一昨日も誰も私に気付かなかった。挨拶をしても、身体に触れても、私の名前を呼んでくれた人はいない。見てくれた人はいない。
 何故こんなことになったのかは分からない。私に出来るのは今の状況を受け入れることだけだった。無視されている訳でもなく、いじめられている訳でもなく、ただ誰にも気付かれない異常な状況を。
 気付かれなくなって数日が過ぎた。話しかけようという気もなくなった。家族も私に気付かない。家族、クラスメイト、すれ違う人、誰も私に気付かない。透明人間のようだった。私はそれを自覚している。何をやっても無駄なのだと悟って、諦めた。
 何処にいても同じなのだ。家にいても、街中をうろついても、学校にいても。なのに、私が学校に来た理由は授業が聞けるから。私に気付かなくても、教師の解説を聞いて、ノートを取っていると、自分の慰めになる。
 一番後ろの窓際の席に荷物を置く。
 私は本当に諦めているのか。いや、諦めようとしている最中だ。希望を見苦しくも捨て切れていない。
 思いっきり机を倒した。授業中に起こる筈もないけたたましい金属音を生み出す。
 授業は中断されない。誰も私を見ない。
 無駄だと分かっていても、足掻きたくなる時があった。さっきみたいに。
 騒音は一瞬でなくなり、黒板にチョークがぶつかる音が聞こえてきた。
 虚しさを抱きしめながら、教室を見渡した。他人だらけのクラスメイトの中に一人だけ、友人と言える人物がいる。いつも、無意識に彼女の姿を視線に捉えていた。
 もう、友人ではなくなったけれど、私は今でも彼女が大好きで、大切な人だ。彼女が私を嫌っていても、憎んでいても、この気持ちは変わらない。
 誰にも気付かれなくなる前から、彼女は私の事を避けていたから、今の気付かれない辛さにも何とか耐えられている。
 真っ直ぐに黒板を見つめる彼女、尾崎華(オザキハナ)の横顔を見て思った。

 私は、どうしようもなくヒトリた、と。

 1―1

 華は私を好きだと言ってくれた。友達としてではなく、恋愛対象として。
 どちらにしても嬉しかった。私を好きだと言ってくれる人がいるのだと分かって、救われた気分だった。
 私は彼女を友人としか認識していなかった。初めは、華を好きではなかったのは確かだった。
 だけど、華が私を好きだと言ってくれたように、彼女を本気で好きになろうと思った。誰かを好きになるのに男も女も関係ない。この気持ちも確かだった。
 好きになった理由がないという負い目を除けば、華との関係は上手くいっていた。私が我慢すれば済む話だから。
 そう、ずっと我慢し続けて、黙っていればよかったのに、何で私は。
「それって、どういうこと?」
 後悔と格闘しながら、感情の薄い声を聞いた。抑揚のない声で話す時は、華が怒っているか、それ以上だと知っている。華の怒りの原因が自分なのも理解している。
 私と華だけが残った教室で、私たちは立ったまま見つめあう。ウェーブのかかった黒髪を肩にかかるくらいまで伸ばした背の低い女の子、華が私を悲しく責めるような視線を私に送っている。
「……華に好きって言われるまで、華のこと意識してなかったの。ごめんなさい。でも、華が好きって言ってくれて嬉しくて、華のこと好きになろうって……」
「そんなの、私じゃなくても良かったってことじゃん。私より先に誰かが彩音に告白してたら、付き合ってたかも知れないんでしょ」
「それは……」
 否定できなかった。華の指摘があまりに的を射すぎていた。放たれた矢が喉を貫いたみたいに、声が詰まった。
「誰でも良かったんだ……! 私じゃなくても良かったんだ……!」
 涙を混じらせた声を私に浴びせる。私に原因があるとはいえ、あんまりな仕打ちだった。
 だけど自分に向けられた責めから逃げるために、華に嘘を吐く気にはなれなかった。
「ごめん」
「なんでそうじゃないって言ってくれないの?」
 可能性はある。誰でもよかったのかも知れない。自分の中でそれが分かっていて、白々しく「そんなことはない」だなんて答えられる訳がなかった。
「嘘、吐きたくないから」
「……何よそれ。じゃあ全部本当なんだ。誰でも良かったんだ。私じゃなくてもよかったんだ。私のこと、好きじゃなかったんだ」
「好きだよ。最初はそうじゃなかったけど、今は違う。華のこと本当に好きだから」
「言い訳だよ。どうでもいいって思ってた相手を好きになれるなんて信じられない」
 鋭い声音が私に刺さる。華の言うとおりだと思った。確かに言い訳だ。信じてもらおうだなんて虫のいい話だ。
 私の言葉は信じてもらえない、と気持ちを伝えることに諦めかけている自分がいた。どんなに華のことが大切で、大好きでも、私にはその気持ちを華に伝える術を知らない。
「私がどんな気持ちで彩音に告白したか分かる? どれだけ悩んだか分かる? なのに、彩音はそんな気持ちで付き合おうって言ったんだ。酷いよ……」
「……ごめんなさい」
 華の平手が私の頬を打った。完全に不意打ちだった。衝撃で身体が揺らぐ。咄嗟に頬に手を添えていた。叩かれた箇所だけが別の細胞に生まれ変わったみたいに強く脈打ち、焼けるような熱を生み出していた。
「謝って欲しいんじゃない! もういい!」
 涙で目を沈没させた華が叫び、私の前から駆けて消えた。
 遠くから荒い足音が聞こえた。私は教室に独りで残された。何もする気が起きなくて、ただ棒立ちしていた。誰も訪れる気配のない教室の中で独り佇む。
 頭の中に華の声が響く。華の罵声が全身を引き裂きそうな勢いだった。
 外面的な痛みには耐えられても、内面的な痛みはどう対処したらいいか分からなかった。感情が悲鳴をあげ、涙を流す。ささやかに数滴だけだったが。それでも、泣く程辛いのだと涙が教えてくれた。
 この涙が、華の前で流せたなら、少しは自分の気持ちを伝える手助けになっただろうかと考えた。私の涙にも、価値はあるだろうか。
「……なんで、こうなんだろう」
 涙を拭った。更に涙が溢れた。小川のような小さな流れだった涙が、気付けば滝に変わっていた。必死になって涙を拭う。擦り過ぎて瞼が痛くなった。それでも拭った。涙が床に零れたら死んでしまうと暗示をかけられたみたいに一心不乱に。
 その日、私はどうやって家に帰ったかを覚えていない。



 夏休みが明けて九月中頃。まだまだ日差しは強く、気温は高い。肌を湿らせる不快な汗を感じながら、日を浴び続ける。
 陰鬱な気持ちで高校に向かっていると、懐かしい顔に出会った。幼馴染の河端航(カワバタワタル)である。小学校からの付き合いで、十六になっても一応の交流は続いている。
 学校指定の詰襟の制服の第一ボタンを外している。男子生徒の中で一番多い格好だった。
「なんか、久しぶりだな」
「そうだね。クラス、違うから」
「そうだな」
 航の言うとおり並んで歩くのも、話すのも久しぶりだった。何を話せばいいか分からない。むしろ、気分の問題で明るく会話をしようと思えなかった。航と仲が悪いことはない。話しかけられるのも嫌ではない。今日はそんな気分ではない、それだけの話だ。
 航だって、私に期待なんてしていないだろう。私がつまらない人間なのを航は良く知っている。楽しい話をしたいなら他を当たればいい。私に出来るのは相槌を打つか、同意するか、否定するか。質問に答えるか。自分から話題を出したりなんてしない。出来ない。
「なんかあった?」
「友達と喧嘩した」
「……そっか」
 何かに納得したように航が頷いた。何が「そっか」なのか。
「喧嘩じゃないね。私が全部悪いから。私が友達を怒らせただけか」
「ちゃんと和解できそう?」
「……多分、無理」
「そんなこと言わずに頑張れよ」
「頑張っては見るけど、無理だと思う」
「最初っから諦めんな」
「うん」
 航は、昨日の華を知らないから言えるのだ。他人事だから、簡単に難しいことを言ってのける。航には分からない。分かってくれない。
 昨日で、修復不可能になるまで華に嫌われたし、傷付けた。謝罪はする。出来ることなら何だってしよう。私がしていいのはそれだけだ。友達に戻ってくれだなんて、私が言えた義理ではない。
「まぁ、頑張れって。それじゃまた」
 靴箱についた。航は私から離れて自分の靴箱に向かう。
 華はまだ学校に来ていなかった。



 教室に入って最初に華の姿を探した。いないのは分かっていても、探してしまう。
 私が教室に入っても誰も気付かない。雑談で皆忙しいのだ。私から挨拶をしない限り、自分から挨拶をする人はいない。華を除いて。
 窓際の最後尾の席に座る。
「おはよう」隣の女子生徒に声をかける。黙ったまま席に座るのは感じが悪い。
 彼女は、得に意識せずにおはようと返してくれた。友達ではないけれど、挨拶くらいは返してくれる仲だった。
 朝の小さな儀式を終わらせ、一時間目の用意をする。何もすることがなくなったら、黙って華が来るのを待った。
 朝から震える程に緊張しているのは私だけだと思う。私に流れる時間と、私以外の人に流れる時間で差が出来ている。教室で孤立しているように感じた。
 皆の姿、笑い声がすべて一枚のガラスを通して伝わってきている。私はガラス板に囲まれて、隔離されている。それに誰も気付かない。見えない壁は、あってないような物だから。私がないと思えば、それは壁でなくなる。だけど壁は私を囲み続ける。
 時間が過ぎていく。一秒ずつ決められた速度で針は回る。針が動く度に私の神経が揺さぶられていく。車に酔うみたいに、心の平衡感覚が乱されていく。俯き両手を握って、揺れをやり過ごす。
「調子悪いの? 顔が青いよ」
 さっき挨拶した彼女が私の顔を覗いてくる。
「大丈夫。ごめんね。なんともないから」
 大丈夫だと笑って見せた。優しい人だなと思った。彼女の気持ちは素直に嬉しかった。外見に変化が現われれば、ガラス越しにも気付けるのかも知れない。
「そう? だったらいいんだけどね」
 私の笑みと言葉に納得して彼女は引き下がる。大丈夫でなくても大丈夫と答えれば、大丈夫ということになるのを私は知っている。心配をかけないこと、面倒をかけないことが生きることの基本だ。彼女に、華と会うのに緊張していると告げた所で何になるというのか。相手が迷惑するだけだ。迷惑をかけるだけの行動に意味なんてない。
 雷に怯える子犬みたいに華を待った。数分経たずして華が教室に入ってきた。華の姿を見た瞬間心臓が跳ねた。
 華は私を見ずに席に向かう。影のかかった笑顔で数人と挨拶を交わしていた。
 華が席に着いたのを確認して立ち上がった。華に昨日のことを謝りに行く。
 周りのクラスメイトと談笑を始めた華に歩み寄る。言うなら、今しかないと思った。
「あ、あの、おはよう。昨日は、ごめんなさい」
 和やかだった空気は一瞬で消えうせた。椅子に座ったまま私を見上げる華と、談笑していた数人のクラスメイトから視線が送られる。
「もう、いいから」
 冷たい声音に諦めを込めて、はき捨てるように言った。飾りのない、華の本音に聞こえた。昨日の泣き顔の何倍も、今の言葉は響いた。
 血の気が引く感覚が、分かった気がした。
「……そう、分かった」
 なんとかそれだけを告げて、華の前から逃げた。後ろからクラスメイトの視線を感じたが振り向けやしなかった。ただ視線が痛かった。
 華にはもう話しかけてはいけない。近づいてもいけないのではないかと思えた。やはり、仲直りなんて無理なのだ。態度を見れば分かる。あからさまに私と話したくなさそうだった。きっと、私の顔だって見たくないだろう。
 大切な人を失ったのだという実感が沸いてきた。
 一人で勝手に絶望して、机にうつ伏せた。華の声が笑い声に乗って聞こえてくる。私の謝罪などなかったことにして、クラスは元の雰囲気に戻っていく。
 私は何をやっているのだろう。酷く惨めだった。華に近寄らないことが、一番の謝罪なのだと思った。

⇒To Be Continued...

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