ヒトリ 2、3 | |
作者:
トーラ
2008年04月07日(月) 20時01分20秒公開
ID:KvBgjdlPPKE
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2―1 空は曇っていた。雲が鮮やかな赤色の光を遮っていて、夕暮れ時なのに面白みのない薄暗い空しか見えなかった。窓から入り込む光もない。蛍光灯の灯が無ければ教室は真っ暗になるだろう。 黒板の文字を消す私の背に視線を感じる。刺すような物ではなく、見守ってくれているような、柔らかな視線。 視線を送っている人物を私は知っている。小野彩音。私が初めて好きになった女の子。今、教室の中には私と彩音しかいない。二人きり、二人だけの空間、二人で過ごす時間。私たちだけに用意された、特別な場所。 私が日直の仕事を終わらすまでは彩音と二人で過ごせる。邪魔者は現れない、と根拠のない自信があった。 「こんなに綺麗に掃除するのって、華だけなんじゃない?」 「だって、気持ちいいじゃん」 「そうだね」 背後で彩音が笑ったのを感じた。私も彩音に背を向けて笑った。彩音も私の表情の変化に気付いているだろう。顔を合わさず笑いあう。 「手伝っちゃいけないんだよね」 「そう。二人でやったらすぐに終わっちゃう」 「私が日直の日は手伝ってくれないの?」 「手伝ってほしい?」 「ううん。一人でするよ」 「どうして?」 「二人でやったらすぐに終わっちゃうから」 また笑いあう。じゃれあいながらも手を動かし、いつかは掃除も終わる。 振り返り、彩音の座っている席に座る。口が渇いた。緊張しているのが分かった。 私の気持ちを彩音に伝えたい。 「どうしたの?」 「ん、何でもない……」 何でもないことはないのだけど、そう答えるしかなかった。 真っ直ぐに彩音の顔を見られない。好きだと伝えたら、彩音はどんな顔をするだろう。不思議そうに笑う彩音は、どんな風に表情を崩すのだろう。 気持ちを伝えることで今の関係が壊れる可能性だってある。当たり前のことが、一番の障害だった。 同性から告白される彩音の反応を考えると、何も口にしないのが最善の方法に思えた。 伝えたいと思う気持ちは、いつも臆病な気持ちに負けている。今日こそはと思った今は何度目だろうか。 「何でもなく、ないよね」 「……分かるの?」 「なんとなく」 確信めいた瞳で射抜かれる。磔にされた蝶になったような、自由を奪われる感覚。 彩音は卑怯だ。なんとなくでいつも気持ちを悟られる。 嘘がつけなくなった。逃げ道を塞がれる。ぶつかって砕けようが、前に進むしかなくなった。 「ちょっとね、話したいことがあるんだよね。実は」 「うん」身体をこちらに向けて私を見た。 彩音の真剣な態度に、私も答えなくてはいけない。やっぱり何でもない、では彩音は逃がしてくれない。 伝えるべき言葉は決まっていても、声にならない。 「あのね」 「うん」 「その……」 「うん」 「彩音の事がね」 「私?」 「……うん」 彩音の表情が変わる。真剣な表情が崩れ、驚いたような、緊張が切れたような間の抜けた顔だった。 「……好きなの」 口にした瞬間、体温が一〇度くらいは上昇した気がした。熱くて、熱くて、じっとしていられない。 もう、泣きそう。 「私、女だよ?」 「分かってる。でも好きなの」 彩音が黙り込んだ。黙って両手で顔を押さえた。困惑しているのがよく分かる。私の言葉には予想通りの破壊力があった。 「ごめんね、こんなこと言って」 「いいよ。その、それって、つき、付き合おうってこと?」 戸惑いがちに、彩音にしては珍しく歯切れ悪く言った。 「……そういうことに、なるのかな……? いいの?」 「……うん」 始まりは、晴れた日の青空のように穏やかだったのに、これからの出来事が、私に予測出来ただろうか。 2―2 彩音がいなくなった。それに気付いた人は誰もいなかった。最初から彩音という人物がいなかったみたいに、皆の記憶に彩音は存在していない。家を訪ねてみたけれど、親でさえ彩音の存在を忘れていた。 いつ彩音がいなくなったのかは分からない。そういえば彩音が学校に来ていないと思い出し、彩音を意識し始めた時には、彼女の席はなくなっていた。転校したとか、学校を辞めたとか、そういった話は担任から聞かされない。担任から小野彩音と発せられたことは一度もない。 昼休み、いつも視界の隅に捉えていた彩音の姿はどこにもいない。 「ねぇ、本当に彩音のこと分からないの?」 「またその名前―? 分かんないって。そもそもそんな人クラスにいないじゃん。名簿見れば分かるでしょうに。いい加減しつこいよー」 席が近くて、いつも一緒に昼食を食べている美奈にはっきりと知らないと言われる。何度か同じ事を聞いたことがあるせいか、返答に少し棘がある。 「……うん。そうだね。ごめん」 更に強く言われないように笑って予防線を張る。笑っていれば周りの雰囲気も和やかになる。だから私は笑うのが好きだ。 彩音の事は、彼女以外の友人にも聞いた。数回ではない。皆の認識では、存在しない人物の名前を聞いて回る私は変人として見られ始めている。周りから白い目で見られるのが怖くて、彩音について訊くことを躊躇っていた。 彩音よりも、自分を優先している自分がいた。 謝りに来た彩音を突き放したのは私の中で一番の過ちだと思っている。私こそ彩音に頭を下げるべきなのに。 彩音がいなくなり自分の気持ちも落ち着いてきた今、自分勝手な怒りの代償が後悔でしかないことと、自分の本当の気持ちを知る。 彩音と別れてから、彼女は一人になった。湖の上に一枚だけ浮かんだ落ち葉みたいにぽつりと、彼女はいつもヒトリだった。 彼女と友達になったきっかけは、出席番号が近かったことだ。最初の席順は出席番号順で、彩音の後ろの席が私で、話をするようになり、友達になれた。最初に声をかけたのは確か私だったように思う。 彩音はお喋りが好きな性格ではなくて、自分から話しかけることは滅多になかった。たまに彩音の方から声をかけてくれる時があって、その時は素直に嬉しかった。何だか、求められているみたいでくすぐったくて、気持ちがよかった。 彼女は私みたいに仲間はずれにされるのを怖がっていない。そこが私にはとても格好良く見えた。 私は彩音が好きだ。同性だとかは関係なく、彼女を好きになっていた。気持ちは今も変わらない。 本当の気持ちを告げる前に、謝る前に、彩音はいなくなったけれど。 会いたいと願う気持ちが治まることは一度もなかった。 彩音が気になっても、口に出せない日々が続いた。彼女を探すにしても、何もあてがなく何処を探せばいいかも分からない。私に何が出来るかを考えるか方が先だったが、そこから先に進めずにいた。 今のところ、私に出来ることといえば、彩音を忘れないでいるくらいのものだった。 ふと彩音を思い出す時がある。どんなに忘れまいと思っていても、彼女が記憶の中からすり抜けている。彼女を一時でも忘れることが、自分の意思の弱さの証明のようで、彼女を思い出す瞬間が何よりも怖かった。 彩音のいない教室の違和感も薄くなってきた。変わりつつある教室の中で今日も昼食を取る。 昼休みが始まって五分も経っていないのに私の教室を窓から覗きこむ男子生徒がいた。誰かを探しているみたいだった。見覚えのない顔だった。 「あの人、どうしたんだろ」 「さぁー。知り合いじゃないんだったら気にしないでいいんじゃない?」 美奈が男子生徒に興味がないのがすぐに分かった。大体予想はついていた。 「なんか、ぱっとしないね」 美奈の友達の香織が馬鹿にするように言った。目立たない人に見えるけれど、わざわざそんな言い方をしなくても、と思った。 彼が知り合いらしい男子生徒を捕まえた。 「小野彩音ってさ、学校に来てない?」 「は? 誰それ。そんな名前の奴うちのクラスにはいない筈だけどなぁ」 彼の声を意識して聞いていたのは三人の中で私だけだったらしい。誰も彼が口にした名前に触れない。 彼女たちの雑談が耳に入らなくなった。 彼は確かに言った。彩音と。 その名前を聞いた時、安堵したような、救われたような気持ちになった。 彩音は、私の想像上の人物ではなかった。彩音を知っている人がいる。それだけで十分過ぎるくらいに嬉しい。 彼と話がしたいと思考が強く訴える。衝動を抑えられない。 「ちょっとどうしたのー」 立ち上がった私に美奈が言った。 「あの、もしかしたら知り合いかも知れない」 咄嗟に思いついた嘘を答えて彼の元に向かう。彼は釈然としない態度で教室から離れようとしていた。 「待って!」 「え、何?」 いきなり大声で呼び止められた彼は少し動揺しているように見えた。 「君、さっき、彩音って言ったよね。その、彩音のこと、分かるの……?」 「小野彩音のことだよね。最近顔見ないから、ちゃんと学校に来てるのか気になって見に来たんだけど、このクラスにはいないって。何組だったっけ?」 「このクラスだよ。間違ってない。皆がおかしいの。皆、彩音の事忘れちゃってる。もうずっと学校に来てないのに。誰も気付かないの」 「ちょ、ちょっと待ってって」 慌てた態度で私の声を遮る。一旦口を噤んでみて、私が滅茶苦茶な事を口走っているのを自覚した。 「ごめんなさい。でも、本当なの」 「……また後で話聞かせてくれないかな。時間、かかりそうだし」 一応、私の言葉を信じてくれているように見えた。自分でも今は興奮しているのが分かる。このまま話しても伝えたいことは伝わらないだろう。 「うん。分かった。今日の放課後は?」 「大丈夫だよ。授業終わったらここに来るから。待ってて。名前、聞いといていい? 俺は河端航。彩音と同じ中学だったんだ」 「そうなんだ。私は尾崎華」 「尾崎さんね、分かった。それじゃあまた後で」 ぎこちなく笑って航は教室に戻っていく。美奈たちを待たせていることも忘れて数十秒廊下に立ちっぱなしだった。 私以外に彩音を知っている人がいた。新種の動物を見つけたみたいに、私の心は躍っていた。 約束通り、放課後に航は迎えにきた。昼休みと同様に五分も経たずに教室に着いていた。授業が終わって真っ直ぐ教室に来てくれたのが分かった。 学校の近くのハンバーガーのチェーン店で話をすることになり、二人で学校を出た。一緒にいる様を美奈たちに見られたので、明日は航の事で色々とからかわれるだろうなと思った。 あまりお腹が減っていなかったので、とりあえずポテトと烏龍茶を注文した。彼はポテトとコーラだった。男の子だからもっと食べてもいいのに。私に合わせてくれたのだろうか。 「先に座ってなよ」 「分かった」禁煙席を探して座る。同じ制服を着た人を何人か確認した。皆、することがないのだなと勝手な感想を持った。 荷物を椅子に置いて、航が来るのを待つ。 思えば、異性と二人きりで店に入ったことなんて今までなかった。予期せぬことで一つの初めては消化されていた。もっと緊張するものかと想像していたけれど、何てことはなかった。男女二人きりという状況よりも、彩音の話が出来ることの感動の方が強い。 航がトレーを持って来た。お待たせ、と軽く会釈して私の向かいに座った。 どちらも、どう話を切り出せばいいか分からないみたいで、ポテトにも飲み物にも手を付けず黙ったままだった。 「……彩音のことだったっけ」 「うん」航が垂らしてくれた針を掴む。 「昼休みに言ってたさ、皆忘れてるって?」 「そのまんまだよ。名簿に名前もなくなってるし、机もなくなってるし、先生も何も言わないし。家にも行ってみたけど、お母さんもそんな子はいないって……」 航は黙って何かを考えていた。私は、彩音の母親に会った時のことを思い出して軽く気分が落ちていた。 航が真剣に受け止めてくれているように見えた。深刻な空気が生まれ始めた。 「尾崎さんは、彩音の事を忘れなかったんだ。ていうか、俺と二人だけなのかな」 「分かんない。あんまり聞いて回るとうざがられるし。でも多分、私たちしか彩音の事覚えてないと思う」 「そっか……。あいつ、何処行っちまったんだ」 荒く、怒ったように航が独り言を零す。私に話しかける時とはまるで違う態度だった。 「……私、どうしたらいいのかな」 「それは、分かんないけど」 「……うん。ごめん」 自信なさ気に航が言った。彼に聞くようなことではなかったと反省した。 「どうしたらいいかとかじゃないんだけど、彩音に似た奴を知ってる」 「どういうこと?」 「今の彩音みたいに、誰からも忘れられて、いなくなった奴がいたんだ」 「その人ってどうなったの?」 新しく垂れた針に即座に食らいつく。 「今も帰ってこない。誰もそいつの事を思い出したりもしない。俺しか覚えていないんだ。もう五年くらい経つけど」 「だったら、彩音ももしかしたらこのまま……」 ⇒To Be Continued... |
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