なかないで!なかないで!わらって!
作者: トウコ   URL: http://www3.to/retouko   2008年02月24日(日) 01時35分46秒公開   ID:KRdqg2wCzok
【PAGE 1/2】 [1] [2]



 そういえば『あの日』もこんな日だった。
 雨は激しく車窓を打つ。降っても降っても曇天は重たい灰色のまま変わらない。窓から見えるグレースケールの景色に、少しだけ私は偏頭痛を覚えた。目に入るもの全てが、灰色の水彩絵の具を足したように彩度を失い、明度が少しずつ落ちている。
 いい加減、空も泣くのに飽きないのかね。揺れる電車の座席に座り、私はため息をついた。車内の冷房の風が私の前髪を揺らす。
「何か妙な感じだな」
 不意に隣に座る遠野がぽつりと呟く。
「こんな時間に家に帰るなんて」
 ほら俺、帰るのいっつも遅いから。
 隣を見れば、遠野は真っすぐ前を見つめていた。多分窓の外の景色を見つめているんだろう。車体に張りつくように作られた座席に、遠野は深く、背筋を真っすぐに座る。
 それを言うなら私だってそうだ。遠野の家へ向かう電車に、私はここしばらく乗った記憶がない。普段ならそもそも電車に乗らないのだ。高校からひとり暮らしを始めた私は、学校から徒歩十五分圏内に住んでいる。
 学校終了後すぐの電車は学生達で混み合っている。席は満席で、出入り口付近には二人から四人ぐらいのグループが幾つか、せめぎ合うように並んでいた。
 時折私達学生と乗り合わせたサラリーマンが、傍らの学生の声量に顔をしかめるのが目に入った。でも肝心の、騒いでいる彼らの視界には入らない。彼らの世界は彼ら中心に回っている。隣の人間は彼らの世界を艶やかにするための役者達で、傍らのサラリーマンは役者ですらないだろう。背後のセットか、下手したら邪魔臭い廃機材くらいに思っているかもしれない。
「冴、おウチ、カエリタイ」
「似てね」
 浅く、ふんぞり返って座って私は言う。小さい頃に観た映画の宇宙人のモノマネだ。遠野は大声で笑った。遠野の声に、サラリーマンの目がこちらに向いた。遠野は彼に気がつくと、小さな声で「すんません」と呟いて頭を下げた。そして私に咎めるような視線を向ける。なんだ、笑ったのは遠野だ、私のせいじゃない。
「お望み通り帰ってんだろ」
「帰りたいのはそっちのお家じゃないのさ、ベイベー」
「何だそれ」
 遠野は僅かに笑み浮かべた。今度は笑い声をあげない。
 遠野の口元から、歯磨き粉のコマーシャルを思わせるような白い歯が覗く。焼けた肌に遠野の白い歯はよく目立つ、と私は思った。
 遠野は高校野球男児だ。我が高校の野球部はとても優秀で、本来なら雨の日もトレーニングルームで練習があるところだが、本日は顧問の先生が出張となったらしい。テスト週間以外で、野球部が授業終了後すぐに帰ることは本当にない。だからこそ油断した。テスト週間の間なら、私は遠野に捕まるまいと必死に逃げ、今までも遠野に捕まったことはない。
 折角の休みをわざわざ私と帰らなくてもいいのに、と思う。
 決して遠野と一緒にいたくないわけではない。でも遠野が私に気を使っているのが分かるのが嫌だ。
「よし、そんな仏頂面の冴にいい物をやろう」
 仏頂面で悪かったわね。
 ふてくされた私を笑いながら、遠野が大きな肩掛け鞄から取り出したものは一つの扇子。差し出されたのを受け取ったが、何の変哲もない扇子だ。広げてみろと言われ、言われるままに広げてみる。白の和紙が貼られた扇子、それにはでかでかと墨字印刷の文字が書かれていた。

『笑って』と。

 笑えるか、馬鹿。



 彼、遠野大成は私の幼なじみだ。しかも家がお隣というベタもベタな幼なじみときた。だから遠野の家に向かうというのは、確かに自分の家に帰るという図式が成り立つ。
『お望み通り帰ってんだろ』
 この言葉は、嘘ではないというわけだ。
 けれど進学時から下宿を始めた私が、『そっちのお家』に帰るのは一体どれくらいぶりだろう。入学してからずっと帰っていないから―― 一年くらいか。遠野にそれを言ったら「この親不孝もんが」と怒られた。でも、だって仕方ないじゃない。帰らなかったのは面倒だったからじゃない。私は、ただ――
 しかしながら今逃げ出すと、遠野に盗られたお財布の中身が、遠野の大食いチャレンジに消え失せるらしい。せめて実用的な物に使ってくれればいいものを。財布の中には生活費全てが入っているのだ。遠野の馬鹿食いのために生活できなくなるのはなんとも空しい。だから私はこうして逃げ出さず大人しく家路を行くというわけだ。
 でも、逃げたい。帰りたくない。きっと遠野はそれをよしとしないだろうけど。
『可哀想にねぇ』
 不意に、私の脳裏にその言葉が蘇る。私は思わずかぶりを振った。



「ほら、冴。降りるぞ」
 遠野の声に私ははっとした。気がつけば、窓の向こうに木製の柵と柵にかけられた駅名看板が見える。最近は口にすることもなかった、私の家の最寄り駅の駅名だ。
 電車を降りると雨音は一層激しさを増す。駅のトタン屋根に雨があたって、そのうち穴が空くんじゃないか心配になるくらいだ。
 人の声はない。ここは小さな駅だから、駅員さんは改札口に一人、座っているだけだ。改札を出た先には「タイムマート」という個人経営のコンビニ――というのもおこがましいほどの小さなお店が建っている。それ以外は何もない。
 一年前と何も変わらない風景に私はぞっとした。ここはあの時からなにも変わっていない。私自身、何も変わっていない。同じ舞台セット、同じ役者。もしかしたら、ここから繋がるストーリーも同じかもしれない。
 あぁ、やっぱり、逃げたい。
「冴」
 自然と足取りが重くなった私に、遠野は左手を差し出した。遠野は私の右手をそっと握って、
「大丈夫」
 とても優しく微笑んだ遠野に、私は小さく頷いた。おずおずと手を伸ばし、遠野の手を握り返す。遠野はすごい。遠野が大丈夫と微笑んでくれると、本当に大丈夫な気がしてくるんだから。
 大丈夫なのかな。私は帰ってもいいのかな、あの家へ。

 それからしばらく遠野は何も言わなかった。私も何も言わなかった。二人して黙々と帰路を歩む。
 傘は二人で一つの傘を差した。きっと遠野は気を使ってくれたのだ。足取りの重い私を勇気づけるためにもすぐ近くにいた方がいい、遠野が考えそうなことだ。気を使われるのは嫌だったけど、遠野と離れたくなかった。だから私は何も言わず、遠野の好意に甘んじることを決めた。
 遠野の傘は鮮やかな水色だった。傘は、寄り添って歩く遠野と私をすっぽり包むくらい大きい。水色の傘は濃い灰色によく映える。遠野が差してくれた傘を見ながら、そう思った。逆に灰色の空の濁った感じも際立ってしまうけど。
 家まであと少し。あの角を曲がれば私の家が見えるはずだ。私の心音がどんどん大きくなっていく。本当に帰っていいのかな。私はあそこに居ていいのかな。心音と共に不安もどんどん増していく。
「ねぇ遠野」
 もう一回、大丈夫って言って?
 そう言おうと思った。遠野の言葉さえあればなんとかなる気がしたから。だけど、それは他の言葉に遮られて言えなかった。
「あら、冴ちゃんじゃないの?!」
 ――よりにもよって。
 私の心臓が一際大きな音を立てる。甲高い女性の声に、私は自分の身が強張るのを感じた。何で、よりにもよってこの人に会ってしまうんだろう。私は自分の運のなさを呪いたい気分だった。
 けれど無視をするわけにはいかない。私はゆっくりと振り返った。その先にいた女性は私を見ると、「あらやっぱり!」と一際大きな声を上げる。
「伯母さん、お久しぶりです」
 私は言う。からからに喉が渇いたときに、水を求めて絞り出したときのような声だった。
 五十歳前後、痩せた体に花柄のワンピースをまとった女性。彼女は、出目金の目みたいにこぼれおちそうな目を更に真ん丸に見開いて、ついでに口も真ん丸にしてぱくぱくさせている。本当に金魚みたいだ。灰色の池の、混濁とした泥の中に住う金魚。
 彼女は父の姉にあたる人だった。伯母さんはすぐに私に駆け寄って、強く私の肩を叩く。肩が痛い。
「本当にねぇ。大成君もこんにちは」
 こんにちは、と遠野は笑顔で会釈した。伯母さんは私と遠野を交互に見やり、仲がいいわねと笑う。
 早くここから去りたい。伯母さんに愛想笑いを返しながら、私はそればかりを考えていた。伯母さんの声はあの言葉を思い出せる。それもひどく鮮明に。
「冴ちゃん、本当に久しぶりだわ。どうして帰って来なかったの?」
「色々と忙しくて」
 私は曖昧に笑う。私の体はすでにじりじりと後退しつつあった。早く、早く。
「忙しいって言ったって、帰ってくる時間くらいあったでしょう?」
 伯母さんはあからさまに顔をしかめて、ため息をついた。その通りだ。確かに帰る時間はあった。けれど私は帰らなかった。
「まぁまぁ、いいじゃないですか」
 私の様子を見かねたのか、遠野が会話に口を挟む。遠野は苦笑いを浮かべながら、私と伯母さんの間に立った。
「今、こうして帰って来たんですから』
 遠野は、私の手を握る力を僅かに強めた。大丈夫。遠野はそう言いたいんだろうか。
 しかし、遠野のフォローも伯母さんには通用しない。伯母さんは遠野の背後に隠れた私を見て、もう一度ため息をついた。呆れているような、怒っているような、そんなため息。
「冴ちゃん、修二は一人っきりにあの家に住んでいるのよ? 佐枝子さんはもう居ないから」
 修二は父の名前で佐枝子は母の名前だ。私は俯き、唇を噛み締めた。この人から母の名前は聞きたくなかった。
 母がいないことなんて、誰よりもよくわかっている。母が私を呼ぶ声、少し塩辛い母の料理、私を咎める母の厳しい言葉、暖かい笑顔――あの日から私が失ったものは数知れない。
「何も冴ちゃんまで修二のもとから去らなくてもいいじゃない。冴ちゃんがいないから、あの広い家に一人なのよ。あの子も寂しいでしょうに」
 この人なりに父を想った言葉なのだろう、これは。でも父だけを想った言葉だ。彼女の世界だけの言語だ。私には無神経なものでしかない。
 同時に嫌な予感がした。この話の展開、この口調。やめて、やめて。私の手のひらに汗が滲む。ごくりと私は唾を飲み込んだ。嫌だ、あの言葉は聞きたくない、聞きたくないのに。
「本当、弟が『可哀想』だわ」
 ――――何よ、それ。
 ため息まじりに呟いた彼女の言葉は、それ以外の全ての音を消した。頭の中が真っ白になって、彼女の言葉だけが私の脳裏に反芻される。何度も、何度も。沈澱した泥が舞い上がって池の水を汚すように、奥底から舞い上がってくる記憶に私は激しくかぶりを降った。そして、私は走り出した。遠野の手を激しく振払って。
 背後で「冴!」と呼ぶ声が聞こえた気がした。だけど私は振り返らなかった。



 だから嫌だったんだ。雨に打たれながら私は思う。『可哀想』――あの言葉は嫌い。大っ嫌い。
 母がこの世界から消えたニ年前、私に、父に、そして母に、一体何人の人がその言葉をかけただろう。可哀想なんかじゃない、母は最後まで笑っていた。
 母は乳ガンだった。人一倍のんびりとした性格の母は、病気の発見をするにものんびりだった。母が胸の痛みを訴え、病院へ駆け込んだときには、ガンは既に鎖骨上のリンパ節や乳房の周囲まで広がり、詳しく再検査を行った時には肝臓にまで遠隔転移していた。
 お医者様から聞いた言葉は難しくてよく覚えていない。ただ、彼が言った「お気の毒ですが」の一言はよく覚えている。それを聞いて私は、母のガンが既に手遅れであることを知ったのだ。
 母が治療を受けることになったのは緩和ケア科というところだった。そこは治る見込みのない患者が、できる限り幸せな最後を遂げられるよう、見届けることを目的に作られた場所だ。この緩和ケア科に私はとても感謝している。ガンは激しい痛みを伴うと聞いたが、ここでの治療のおかげで母は大分楽に生活ができた。
 もちろん母だって人間で、時折物憂げな表情を浮かべ、私の前ではなかったが、ひっそりと泣いていたこともあったようだ。けれど母は私に「できる限り生きるよ」と約束してくれた。実際、母は頑張って生きた。宣告を受けて半年、当初の三か月宣告の倍の期間を母は生きたのだ。
 最後まで私達は幸せだった。だけど私たちはいつも『可哀想』だった。そして、私は可哀想と言われる原因が何かを知っている。原因は、私だ。
『可哀想にねぇ』
 母の葬儀後、伯母さんがしみじみと呟いた、あの一言。
『あんなに大きい子供が居たら、修二は再婚も出来ないじゃないの』
 苦々しく呟いた、伯母の言葉が私は忘れられない。
 あぁそうか。『可哀想』ってそういうこと。私がいるから父は可哀想なんだ。
 帰らなかったのは面倒だったからじゃない。時間がなかったわけじゃない。ただ、私は、父が可哀想と言われることが許せなかった。私が傍にいると、父がどんどん可哀想になっていく。そんなのダメだ。だって父も母も可哀想じゃなかったもの。

⇒To Be Continued...

■一覧に戻る ■感想を見る ■削除・編集