両手に愛を、幸せを |
作者:
トウコ
URL: http://www3.to/retouko
2008年02月14日(木) 23時56分45秒公開
ID:KRdqg2wCzok
|
私はとてもちっぽけな存在でした。でも私はとても大きな幸せを知っていました。それを届けてくれたのは紛れもないあなたです。 今日もあなたは私の元にやってきます。だってほら、あなたの足音が聞こえます。不揃いで、引きずるような足音です。他の人より少しだけ間隔の広い音――ここまで着くのに、あと十五秒ほどでしょう。 私はあなたが作ってくれた、あったかな紙の小屋から顔を出しました。するとあなたは足音を止めて、上ずった声で言うのです。 「オレが来たってわかるんだな、さち。お前超能力者だな」 私が見上げたあなたの顔は、とても柔らかく綻んでいました。人はこれを『ほほえむ』と呼ぶことを私は知っています。 「さち、今日はお前の大好きなかにかまだぞ」 まぁそれはすごい。私はあなたの足もとにすり寄りました。かにかまというものはとても美味しくて、私はそれが大好きです。 「さち、ほら」 あなたは私の目の前にかにかまを3切れほど置きました。とても美味しそうな匂い。 「おいおい、もっと落ちついて食えよ、さち」 あなたは私の頭を撫でてくれました。私は食べるのをやめてあなたを見ます。 もちろんかにかまが食べたくて食べたくて仕方がないのですが、私はかにかま以上に、私を呼んでくれるあなたの声が好きなのです。さち、あなたが私にくれた名前はもっと好きです。 だから私は食べるのをやめて、あなたを見ます。あなたは眩しそうに眼を細めて、愛おしげな、哀しげな視線を私に向けました。 「ごめんな、連れて帰ってやれなくて」 それはあなたがいつも呟く言葉。あなたの声が僅かに低く、口調がゆっくりとなる瞬間です。 「畜生、何で大家はネコアレルギーかな」 そう、あなたはいつもふて腐れて呟くのです。 いいえ、いいえ。いいんです。あなたが作ってくれた紙の小屋は暖かで、とても心地がよいものだから。私はこれ以上のものなんていりません。 更にあなたは私にネコカンというもの与えてくれました。あぁこれもとても美味しいですね。 「おぉ、美味しいか?」 はい、とっても。私が頷くと、あなたはもう一度、私の頭を撫でてくれました。 それからあなたは沢山の話を聞かせてくれます。今日も上司が頭ごなしに叱りつけてきて腹が立った、どうして理由を聞かないんだろ。オレの同僚が飲み過ぎて、飲み屋の障子に突っ込んだ、頭から。本当に面白かったんだよ。あとはそうだな、違う部署の夏美ちゃんが今日も可愛いかったよ、なんて、あなたは笑って、 「でも、さちはもっと可愛いけど」 ぽつり、小さな声であなたは呟きました。その声は風に紛れて消えてしまいそうなほど、弱々しい声でした。 私は知っています、あなたは幸という名前を、ひどく愛おしそうに呼ぶことを。同時にその声に、哀しげな響きが混じることも。 元気を出して。私はそんな想いを込めて、あなたに寄り添うことしかできません。それでもあなたは少しだけ高くなった声で、「ありがとう」と言ってくれました。 こんな風にあなたは来る日も来る日も、私の元へとやってきてくれました。雨の日も、風の強い日も、そして白く小さな雪が降り積もる日も。そういえば私があなたと初めて会ったのは雪の日でした。 音もなく降り積もる雪の中、親とはぐれた幼い私はどうすることもできなくて、ひとり、寒さに震えて縮こまっていた時でした。お腹が空いて動けない。このまま私は雪の中に溶けて消えていくのだと思いました。 そんな私に手を差し伸べてくれたのがあなたでした。 突然異質な繊維の感触を覚えて、私はびくりと体を振るわせました。あなたは一度手を引いて、けれどすぐに私の体を持ち上げると、自分の胸元に引き寄せました。 寒さが一気に和らいで、かわりに私を包む暖かさ。あの時のあなたは少し、変わった香りがしました。いつもは花の香りがするあなた。でもあの時は木を燻したような匂いがしました。 なにかが焼け落ちていく匂い。とても悲しい匂いだと思ったのは、あの時のあなたの声が低く、絞り出すような声だったからかもしれません。 「お前、震えてるな。寒いか」 あなたの口元が白くなって、あなたの唇が僅かに震えて、それを押さえ込むようにあなたは、唇を噛み締めた後に言いました。 「それとも寂しいのかな。オレは、寂しいよ」 寂しがる資格すらオレにはないけれど。最後に小さく、そう付け足して。 あなたが最後に呟いた言葉の意味は、私はよく理解ができません。でもあなたが私をなでる指先がとても優しいことはわかります。 あの時の私は寂しくてたまりませんでした。でも今は寂しくなんてありません。私にはあなたという人がいるからです。 ――――けれど。 ある日のこと。あなたがぱったりと私の前に姿を現さなくなりました。いえ、きっとあなたにも都合というものがあるのでしょう、それはちゃんとわかっています。 しかし、あなたが居ない時に限って、私は体調をくずしてしまいました。 体調を崩してしまっては、食料を探しに行くことができません。大変です。もしここであなたが居れば、あなたが食べ物を与えてくれたことでしょう。でもそのあなたはいない。 更に空腹が私の体調を悪化させます。なんて悪循環。私はこのまま動けなくなってしまうのでしょうか。あの時のように少しずつ消えていくのでしょうか。あぁそれならば、最後に一目あなたの姿を見たかった。 私はもはや諦めていました。もうこのままあなたの姿を見ることができないのだろうと。 けれど、その時です。聞こえてきたのです、あの不揃いな足音が。足音はいつもよりも間隔が早く、振動が大きく、 「さち?!」 あぁその声も、ずっとずっと聞きたかった。あなたは慌てて、でもそっと私のことを抱き上げてくれました。 それからあなたは、私を連れてどこかへ走っていきました。あなたが連れて来てくれたのは白くて、不思議な匂いのする建物でした。アルコールの匂い、化学物質の匂い。なんだか嫌な匂い。 ダメです、ここはダメ。この場所は嫌な場所です。私はどうしても、この場所があなたを傷つけるような気がしてなりません。 けれど私には抵抗する力もなく、私はシンダイという場所に寝かされました。それからあちこち体を触られた後、白い衣服に身を包んだ人があなたに何かを言いました。 ほら、やっぱり。あなたの顔がどんどん苦痛に歪んでいく。あぁやめて、やめて。それ以上あなたを傷つけないで。そんなに哀しい顔をしないで。 あなたは白い衣服の方に小さくおじぎをして、私をまた抱き上げました。 「家に帰ろうか」 はい、帰りたいです。あの小屋へ。 けれど、あなたが次に訪れた場所はあの小屋ではありませんでした。小屋よりももっと大きくて、もっと暖かで、何よりあなたの匂いがいっぱいする、とても安らげる場所でした。 「あんまり物音はたてるなよ。大家には内緒だからな」 あなたはそう言って『ほほえみ』ました。 あなたは私を膝に乗せ、私の体を撫でてくれます。そして、あなたはまたゆっくりと話を始めました。 「ごめんな。出張中だったんだ」 はい、あなたはシュッチョウチュウだったのですね。それが何かは、私にはわからないけれど。私はゆっくり頷きました。 「また、仕事だ」 あなたはとても寂しい声で呟きました。 大丈夫ですよ、私は平気です。だから、そんな哀しい表情はしないでください。私は重たい体をなんとかお越し、あなたの手の平に頬づりをします。すると想いが伝わったのか、あなたは少しだけ笑ってくれました。 「あぁそうだ、さちにいいものを見せてやるよ」 そう言って、あなたが見せてくれたのは一枚の紙切れ。写真だ、とあなたは言います。 それにはあなたと、私が知らない人が描かれていました。写真に写るあなたは、ひときわ顔を緩めて『ほほえみ』をしています。 「幸だよ」 あぁこの方が。写真の中の幸さんは、とても幸せそうに『ほほえみ』を向けて、あなたの肩に身を寄せています。 そうですね、確かに可愛らしい方です。きっと、夏美ちゃんよりも、ずっと。 「俺の、妻だった人だ」 そう言ったあなたの声はまた弱々しいものでした。 幸さんはあなたとケッコンする前に、ニンシンをしたんだとあなたは言います。あなたは幸さんを幸せにしたいと思って、一生懸命働いたのですね。楽をさせてあげたいと、来る日も来る日も働いて、 「だけどな、突然幸の容態が悪くなって」 幸はニンシン中に病に倒れ、そのまま、この世界から消えてしまった。あなたは震えた声で言いました。 自分は仕事で最後を看取ってやれなかった。辛かったろう、苦しかったろう。けれど自分はそれを感じてやることもできず、 「世界の誰よりも幸せにしてやりたかった」 でも世界で一番不幸にしてしまった。あなたはついに大粒の涙をこぼしました。 いいえ、いいえ。幸さんは不幸なんかじゃありません。だってあなたにこんなにも愛されているのです。きっと幸さんはとても幸せだったでしょう。だから泣かないで。泣かないで。 私は重い体を押してあなたの掌を舐めました。精一杯舐めました。泣かないで。泣かないで。 「ありがとう、さち」 あなたは私の体を抱きしめて、それからしばらく泣いていました。ねぇほら、私はとても幸せですよ? こんなにもあなたは温かいから。 「さち、お前の最後は絶対に看取ってやるからな」 あなたは荒々しく涙を拭いて、とても誇らしげに『ほほえみ』ました。 それからあなたは毎日毎日、急ぎ足で帰ってきてくれました。なぜ急いだってわかるかって? だってあなたの足音がいつもよりずっと狭い間隔だったから。 「さち、帰って来たぞ」 おかえりなさい。あなたにその一言を投げかける時がどれだけ幸せだったか、あなたは知っているでしょうか。 私はあなたの声を聞き、あなたの温かさに包まれて、あなたの掌の感触を確かに感じながら――数日後、幸さんと同じく私はこの世界に溶けて消えていきました。 最後に感じたのはあなたから薫る花の香りと、ぽつり、私の体に落ちた水の粒。でも粒はあの時の雪とは全く違って、ちっとも悲しくなんてありません。だって最後のあなたは『ほほえみ』を私に向けていたのです。 ありがとう。ありがとう。どれだけ感謝しても足りないくらい。 私はとても、とてもちっぽけな存在でした。でも私はとても、とても大きな幸せを知っていました。それを届けてくれたのは紛れもないあなたです。 私はずっとあなたを見守るでしょう。遠く、遠くから祈るのです。大好きなあなたが、大きな幸せに包まれますよう。 |
|
■一覧に戻る ■感想を見る ■削除・編集 |