クロス 4 | |
作者:
トーラ
2008年02月09日(土) 15時29分29秒公開
ID:KvBgjdlPPKE
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4―1 懐かしい声が私の名前を呼んだ。声がそっと抱き上げるようにまどろみから私を引き上げた。 「来ちゃったんだね……」 「マユ……さん?」 瞳には繭乃が映っていて、何故かとても悲しそうに見えた。 視界が広がる。色彩を取り戻していく。 「ごめんなさい」 状況を把握出来ていない私にお構いなしに、繭乃が抱き付いてきた。彼女を受け止めて、何かに座っているのだと分かった。 繭乃を胸で感じながら何処にいるのかを確認する。どうやらここは無人駅の待合所のようだ。古めかしい作りの木造の建物の中に私はいる。向こう側に来られたのだと理解した。こちら側に来るのに心の準備なんて出来ないようだ。いつも突然に迷い込む。今みたいに。 「なんで謝るの?」 「もうこっちへは呼ばないつもりだったのに」 胸に顔を摺り寄せて繭乃が言った。何故彼女がこんなにも取り乱しているのかがさっぱり分からない。彼女の気持ちに共感出来る程情報も多くない。 「惟ちゃんはもう、こっちに来ちゃいけない」 摺り寄せていた顔を上げ必死に訴える。こんなにも濃い繭乃の表情を見るのは初めてだ。 「いけないの……」 「落ち着いて。よく分からないよ」 少しでも繭乃が落ち着けばと笑ってみせた。効果があったのか分からないけれど、雪解けみたいにゆっくりと繭乃の表情が緩やかになっていく。それでも、彼女の表情は陰ったままだった。 「惟ちゃんが、帰れないかも知れないの」 ぼそりと零した一言が、彼女の焦りの原因だったのだ。 繭乃は、こちら側の雰囲気が変わったのだと言う。こちら側が、以前にも増して閉鎖的になったらしい。入りづらく、戻りづらくなったのだと。 「もうこっちへは呼ばないつもりだったのに……」 私の隣に座った繭乃が、泣きそうな顔で俯いている。 「我慢、出来なかったの。ごめんなさい」 「いいって。そんな顔しないで。きっと大丈夫だよ。どうせまた気がついたら戻ってるって」 帰れないかも知れないと言われても、全然実感が湧かなかった。帰ろうと思って帰ったことがないし、一度も帰った実感もない。だから、どうしても深刻に考えられなかった。 「……ねぇ、聞いてもいいかな。マユさんは、その、私の側にいるマユさんと、元は一つだったのかな」 「……そうだよ」 数秒悩むような素振りを見せて繭乃は頷く。マチの言葉が真実だったのだと確認できた。繭乃の口から肯定の言葉を貰えたのなら信じられる。 もう、現実離れした事にも耐性が出来てきた。一人の人間が二人に分かれるなんて有り得ないけれど、実際に繭乃の片割れが目の前にいるのだから認めるしかない。 繭乃の心の一部の人格。言葉にしてみるととても安っぽく聞こえた。 幻想的な事が本当に起こっても頭は無意識に適応し始めていて、感動は抑制されているようだった。 彼女が繭乃の片割れと分かっても、それで何と話しかけたらいいかが分からなくて、会話が止まった。久しぶりに会ったのにも関わらず、何と声をかけたらいいかが分からないなんて。 「向こう側の繭乃には私は必要ないの。いらないものだから、私たちは分かれたの」 繭乃が沈黙を破る。空気の震えはナイフみたいに鋭い。鋭く空気を切り裂き雰囲気を変える。 抽象的過ぎてはっきりと理解出来ないけれど、声音も、声音に乗せた意味も軽いものではないと分かった。 「いらないもの……?」 私が繰り返して聞いた質問を繭乃は答えなかった。黙る繭乃に追求出来ず、私も口を閉じた。 私の手に繭乃の手が重なる。手を繋ごうと誘われる前に、彼女の手を握った。その行動はきっと間違いじゃない。それに、繭乃と手を繋ぐのも嫌いではない。 「ごめんなさい」 私の手を握り返して、何故か繭乃が謝った。「いいよ」と答えるしかなかった。 ――すぐにそこから出るんだ。崩れるよ。 「な、何?」 頭の中に声が響いた。驚いて待合所を見渡すが誰も見つからない。ここには繭乃と私しかいない。 「ここから出ろって」 「マユさんも聞こえたんだ」 「……うん」 自信なさげに繭乃が頷いた。 ――急いだ方がいい。 もう一度聞こえた。二度目で声がマチの物だと分かった。響いた声を疑いながらも、私たちは建物の外に出た。 駅の外は殺風景で建物が殆どなく、アスファルトの敷かれた道路に何も植えられていない畑と田んぼが見えるだけだった。まさに無人駅だ。 背後から轟音。飛び散る砂埃。木材が割れる小気味いい音が混じっていた。 いきなり響いた轟音に身体が引かれて振り向く。 「……な、どうなってんの」 待合所が木材の山と化していた。一瞬で、前触れもなく崩れ落ちた。後数秒送れていたら私たちは山に埋もれていた。死んでいたかも知れない。 繭乃は怯えた様子で私の手を握っていた。私も怖くて彼女の手に縋った。 「危ないところだったね」 また背後から音がする。今度は声だ。さっきまで頭に直接聞こえていた声だ。 もう一度振り返ると、マチがいた。 「ちょっと、何がどうなってんの! 何でいきなり建物が崩れるの!」 有得ない。そんな簡単に崩れる筈がない。崩れる要素なんて何ひとつなかったのに、何故あそこまで完全に壊れるのだ。 「街の意思だよ」短くマチが答えた。 「街の意思?」 「そう。こちら側にとっての異物を排除しようとしたんだろうね」 異物、という単語に繭乃が敏感に反応した。手を強く握られたのを感じ彼女の表情を見ると、まるで自分の事を言われているかのように挙動不審だった。怖がっているような、震えているような、小動物のような表情だ。 「異物っていうのは、そこの彼女の事なんだけど」 「マユさんのこと?」 マチの視線に繭乃が更に怯える。マチの視線から逃れるように私の後ろに隠れた。 「そういうことだ。どうやら街は彼女を容認するのをやめたらしい。強硬手段を取り始めた。例えば、建物を壊して異物ごと消してしまう、とか。直接的な行動は取れないだろうけど、そういったことが起こるから気をつけることだ」 「消すって……死んじゃうじゃない!」 「消すってのはそういうことだよ」 あと一歩で殺されそうだったのに、マチはどこまでも他人事のように話す。私たちの命に興味がないのがひしひしと伝わってくる。 「こっちで死んだらどうなるの?」 「さっきも言ったけれど、消えてしまうんだよ。意識が。そうなると向こう側にも帰れなくなるから、ずっと眠ったままになるだろうね」 「……笑えない冗談じゃない」 こんなこと聞いてない。何故命が危険に晒されないといけないのか。死ぬかも知れないだなんて、そんなのってない。 「まぁ、出来るだけ危険が少なくなるように僕も努力するさ。僕も一応街の意思だからね。それに、街だってこの広い空間の中、二人を的確に狙ったりは出来ないさ」 当てに出来ない薄ら笑いを張り付けてマチが言った。入試の合格発表の何倍も不安だ。 「それでね、君に伝えることがある。彼女の片割れは病院にいる。ここから帰りたいのならそこに彼女を連れて行くことだ」 「どうして?」 「病院にいる彼女が最も向こう側に近いんだ。そこからなら恐らく、向こう側に帰れると思う。言わば彼女は扉みたいなものだね。そして、こちらの彼女は扉の鍵だ」 何だか回りくどい言い方だと思った。だけど、言いたい事は分かった。マチの言う病院は多分、向こう側の繭乃が入院している病院のことだろう。 「彼女が帰りたいと思わなければ扉は開かない。君たちをここに繋ぎとめているのは彼女だから。何か聞きたいことはある?」 マチの質問を受けて頭の中を整理した。行動を起こすために必要な情報は揃っているかを考える。確か、元々の私の目的はこちら側の繭乃の説得だった。それは今も変わっていないだろう。マチの言うとおりこちら側に私たちを繋ぎとめているのが繭乃なら、それをなんとかするしかない。方法なんて分からないけれど、どうせマチだって教えてはくれない。聞くだけ無駄だ。 「ないよ。私たちは病院に行けばいいのね」 「そうだね。帰れる可能性はそこにしかないから。それじゃあ頑張ってね。僕は扉がなくならないように努力してくるよ」 気の抜けた声で、ちょっとコンビに行ってくるくらいの調子でマチが私たちから離れていく。頼りない背中だった。 マチの姿はすぐに背景に混じるように消え失せた。人は忽然と消えても違和感なく眺める自分がいた。 静けさが帰ってくる。背後の廃材の山が妙に哀愁を誘う。 「とりあえず、どうしたもんかなぁ」 病院に行けというけれど、ここから歩いていくとしてどのくらい時間がかかるのだろう。というかここは何処なのだ、という話だ。街に無人駅があるのは知っていたけどそれが何処にあるかまでは知らなかった。 とりあえず、国道まで出ないと話にならない。 しかし本当に、どうしたものか。 「歩こうか。とにかく大きな道路があるところまで行こう」 「……いや」 繭乃が私の手を引き、杭のように私を繋ぎとめた。繋がれた身体を一歩も動かせなかった。繭乃に動く気配もない。 「どうして」 「……怖いの」 小さな声で、一言だけ繭乃が答えた。それからは何も口にしなかった。無理に問いただす気にもなれず、幼い子供のように俯いた繭乃の様子を見るしか出来なかった。 「私はいらないものなのに。私がいたら、あの子は幸せになれないのに……! きっとあの子は私を憎んでる。私がいなかったらこんなことにならなかったって。誰にも嫌われたりなんかしなかったって。私がいたから……」 「ちょ、ちょっと。大丈夫? 落ち着いて。泣かないで……」 突然繭乃がぼろぼろと雨を降らすみたいに泣き出した。こんな時どうしたらいいかを私は知らない。 繭乃以上に、私が混乱しそうだった。 ――どうしたら……どうしたら泣き止むのよ……。 「大丈夫だから、泣かなくていいから、ね」 「……うん」 涙を荒く拭いながら繭乃が頷いた。肩を震わせながら必死に涙を止めようとしていた。見ていて痛々しいくらいで、自分の感情が不意に掴まれるように驚き跳ねた。彼女の涙は感染しそうだった。 泣きやんでから繭乃は、何故自分をいらないものだと思うかを、苦しそうに一つ一つ語ってくれた。 繭乃が自分の事を話すのは初めてだった。私は彼女の話す事すべてを受け止めるつもりで聞いた。 ずっと付き合っていた彼氏に一方的に別れを告げられたこと。両親の離婚でどちらが学費を払うかで揉めているのを知ったこと。誰もが自分の事を疎ましく思っているように感じ、耐え切れなくなって、道路に飛び出したこと。そのショックでこちら側に迷い込み、心が二つに別れてしまったのだと。 人によってはその程度で、と聞き流すのかも知れない。だけど、繭乃にはそれが耐えられなかったのだろう。車に撥ねられ、死ぬことよりも嫌われることが恐ろしかったのだろう。 自分の立場になって考えてみて、罪悪感で喉が詰まった。私にはその出来事がどれだけの痛みを生むかは分からない。だけど、彼女の痛みも計り知れない。 彼女にしてあげられることは何かと考えて、私には強く手を握ることしか出来ないのだと諦めた。何と声をかけても薄っぺらな気休めにしかならない。そんなものを彼女が求めているだろうか。喉をせりあがってくる同情の言葉を必死に飲み込んだ。 彼女を楽にさせてやる術を持たない自分が憎い。目の前で、好きな人が苦しんでいるのに、私には何も出来ない。私は一体、何のためにここにいるのだろう。 これだけの事を内に抱えたまま、私を幸せにさせる笑顔を彼女は浮かべていたのだろうか。すごいね、と小さな驚きを見せた彼女、手を繋ごうと恥ずかしそうに言った彼女。その表情の裏には、どうにもならないような負の遺産が隠されていた。それにまったく気が付かなかった。完璧に隠していたのだろう。 彼女は、本当に強い人だと思った。私がここに迷い込むまで、ずっと独りで辛い思い出を抱えたまま、耐え続けていたのだから。 彼女は、切なくなる程に強い。 「……私がいるからみんなが繭乃を嫌いになるの……」 彼女の声を受け止めて、どんな表情をすればいいのか悩んだ。 繭乃はすべて自分のせいだと思い込んでいる。繭乃の口から語られたことだけで判断すると、繭乃に非など一つもないのにも関わらず、彼女は思い込んでいる。自分さえいなければ何もかも上手く行くと。自分はいらないもので、誰かも必要とされないのだ、と。 「そんなことない」 それだけは、絶対に否定したい。 その言葉だけは、受け止められない。 「みんながどうかは分からないけど、私はマユさんのこと好きだよ。嫌いになったりしないよ」 座り込み膝を抱え、雨の日の向日葵みたいに俯いた顔に向けてはっきりと言ってやった。届くまで何度でも言ってやる。 ⇒To Be Continued... |
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