その想いを知っている
作者: くれたけ   2008年01月28日(月) 06時27分03秒公開   ID:frFMfwE1zC6
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 ――たすけて――
 救済を求める声は届かず、濁流となって押し寄せる数多の意思に封殺される。
 ――踊り狂う。
 タガの外れた道化の様に、魂もろとも切り裂きながら、今日も虚しく刃を振るう。
 破壊された肉体、霧散する魂、それは煩わしく混濁する意思を抹消した結果に過ぎない。
 ……屍の山に感慨はない。迸る鮮血も、理性を焦がす苦悶の声も、生の奔流でありながら後に訪れる死の象徴だ。他者の存在を嫌悪しながらも、僕はどうしても他者の死を快く容認することができない。
 相克する感情は、螺旋を描かず孤立する。矛盾する二つの想念に、一つの器は耐えられない。
――たすけて――
 やめてほしい。僕にはそんな願い叶えられない。他をあたってくれ。
 ――たすけて――
 喧しい。そのどこまでも清純な声は、僕の純真を呼び覚ます。もはやそれは害悪でしかない。マトモになったら破綻する。今さら自分の心が、この世のしがらみに耐えられるはずがない。
 流し見れば血肉の宴。その香りにあてられて、くらり、くらりと眩暈に耐える。
 ――たすけて――
 誘蛾灯に誘われる羽虫のように、僕はその声のもとへと進んでいった。


 ――誰かに呼ばれたような気がして、僕は目を覚ました。
 ぼんやりとした意識が、薄く開いたカーテンの隙間から差し込む、既に朝陽とは違った朗らかな陽光を捉える。布一枚分半端に遮られた光は、気分の高揚とは程遠い今の自分を更に沈ませるように、陰鬱な色彩で部屋を埋めていた。とりあえず、枕元に転がっていた時計は見なかったことにして、寝起きのだるさに苛まれながらも、ベッドから起き上がり、ノイズ混じりの頭を振りつつ洗面所へと向かう。
 軽くため息をついて、鏡に映った自分の顔を眺めてみた。白髪の、全体的に退廃的な色彩をした男が、気だるげな眼差しでこちらを睨んでいる。憂鬱な朝の気分に拍車がかかるようで、本当に、こんな時は大きな鏡が恨めしく思える。
 いつまでも問題を先送りにしても仕方がないと、覚悟を決めて寝ぼけ眼をこすってみれば、鏡に映った時計の針は、午前九時まであと数分といったところ。どんな情報と照合してみたところで、その事実は変わらない。
 文句無し、言い訳無用の遅刻である。
 とりあえず現実逃避でもしてみようかとも思ったけど、あまりの生産性のなさに気付き、途中で挫折した。覚醒しきらない頭は、余計なところに思考を飛ばすばかりで、全く役には立ってくれない。筋道を立てた思考よりも、ただ怠惰な眠りをご所望のようだ。こうしてぼんやりと鏡を見ていると、そのまま夢の世界に飛び立って行きそうになる。
 ――茫洋とした意識に、また、眩暈のようなノイズが混じった。くらり、と、洗面台に手をつく。
 未だまどろみに浸っていたい気持ちも残ってはいるが、観念して、一刻も早く支度しろと危険信号を発しっぱなしの僕の思考に従うことにした。
 いつもの鞄に荷物を詰め、急いで事務所に向かう。玄関を出るとき、あの時計、今だけ反対に回ってくれないかな、なんて思ったが、すぐに愚考だったと気がついた。起きたことは覆せない。時間を遡ったとしても、そこには変わらない、寝ぼけた自分がいるだけなんだから。

 愛車のストラトスで山道を駆け下り、ふもとの街を目指す。家から事務所までは二十分足らずの道のりだが、この山道はその半分ほどを占める。自然保護区となっているこの森は、今の時代にしては珍しく、ありのままの姿を残していた。いつもなら陽光に照らされる木々の、陰影と光彩の対比を楽しみながら、爽やかな緑の香りを満喫しているところだが、今はそんな場合でもない。
 フィアット製2.4Lエンジンが、高らかに歓喜の咆哮を上げる。タイトコーナーが迫る度に、軽くリヤタイヤをスライドさせながら走る様を故人が見たなら、この車のかつての隆盛を思い出すことだろう。……なんて、法定速度の五割増しで猛進しながら、運転している僕の方は冷や汗ものだ。急いでいるとは言っても、こいつと心中したくはない。
 せめて手元が狂いませんように、と祈る中、不吉なものが視界をかすめる。あまり凝視はしたくないが、道の往来を妨げる黒猫のようなものだ。魔的な空気に、意識だけが吸い寄せられる。
 時が止まってしまったかのような静謐と、病的なまでの停滞感。森を背にした暗がりに、今日も変わらずその店は佇んでいる。幽霊屋敷という言葉がしっくりくるような店だが、驚くことなかれ、あれはあらゆるニーズに応えた品揃えを持ち、日が沈んでいる間なら、何があっても年中無休という、なんとも粋な店なのだ。
 そんな便利な店なのだが、閉まっている間はただの廃墟同然である。気分が殺伐としていくので、これから一日頑張るぞというこの時に、あまりにも精神衛生上よろしくない。……まあ、毎朝のことだから仕方ないんだけど、今日は特に縁起が悪いのでやめてほしい。
 そんな光景も、流れゆく景色として遥か後方へと過ぎ去っていった。
 二年前までは、物珍しさによく足を運んだものだったが、もう、人外が発する不気味さに、なんら感慨も浮かばない。今の僕にとって、その雰囲気は得体の知れないものではなく、慣れたものとなってしまっていた。
 ――ところで、なんだかあの店、雰囲気が微妙に違うのは気のせいだろうか?
「……ん」
 脳髄が微かに膨張するような感覚に、おぼろげな疑問がかき消された。PCに着信があったことを知らせるアラートが鳴っている。視覚ウィンドウは運転中につき、オフにしているため、発信元が表示されることはない。
 メモリを検索すると、アドレスは事務所のもののようだ。……しまった。慌てていたもんだから遅刻の連絡を入れ忘れていた。
 何気なしにアクセスを許可しようとしたところで、はた、と思い至る。事務所からのものだからといって、その全てが業務連絡だとは限らないのだ。大体、そんなものは滅多に来るものじゃない。
 では、誰なのかと考えれば、自分のPCではなく事務所のものを使っているあたり、おそらく奴からの通信だろう。
 気を付けなくてはならない。アクセスを許可した瞬間、脳機能を阻害する超音波を流されるかも知れないのだ。それは比喩でなく、この間本当に実行されたいたずらである。――まったく冗談じゃない。僕を殺す気か。
 溜息をつく。これはあの店の呪いか、それとも普段の所業の報いなのか、どちらにせよ泣きっ面に蜂というものだ。
 ――アラートは鳴り続けている。……ともあれ、このタイミングでかかってきた通信を無視するわけにもいかないだろう。
 僕は魔女との戦いに備え、ストラトスをオートドライブに切り替える。戯れで事故を起こすのは御免だ。自動的にGPS衛星通信と接続され、視覚ウィンドウにマップが表示されたところで、僕は行き先を告げた。
 さあ、朝のコーヒー代わりというか、眠気覚ましにはなるかなと、仕方なくアクセスを許可する。

「あ、おはようございます」
 ――と、やや舌足らずなハスキーボイス。

「…………」
 強烈な肩透かしを喰らわされ、僕の脳は機能を停止した。なにせミサイルに備えていたところに柔らかな風が吹いたようなものなのだ。小規模すぎて逆に何が起こったのか理解できない。
「あれ? ちゃんと繋がってないのかな。おーい! 聞こえてますか? どーしたんですかー!?」
 僕が完全に沈黙してしまったため、相手方が狼狽した声で騒ぎ始める。耳にキンキン響いてあまりありがたいものじゃないけど、おかげでこちらの意識も戻ってきた。
 ……ちょっと遅めだけど、まずは朝の挨拶をしようか。軽く息をついてから、いつもの口調で、僕は挨拶を返した。
「やあ、おはよう。朝の始まりに聞けるのが君の声だなんて、僕はついてるな。気持ちが昂ってしょうがないよ。アドレスが事務所のものだったから驚いたけど、どうしたんだ? 君が個人的に僕に連絡してくるなんて」
 何故こいつが事務所のPCを使って連絡してきたのかは定かではないが、どうやら、魔女はお休みらしい。大方、昨日の騒ぎがあいつの仕業で、その責任を取らされているのだろう。
 ――昨日。依頼された仕事を済ませ、僕が事務所に戻った午後六時。事務所は阿鼻叫喚の地獄絵図となっていた。報告をしようにも、肝心の所長の居場所すら掴めず、あまつさえ事務所内の通信機器はオールダウン。周囲からは「死んじまう」だの、「周辺区域の被害は」だの不穏な声が聞こえてくるので、面倒に巻き込まれる前に、僕はそそくさと退散したのだった。
 何があったかは知らないが、事務所からの通信が可能となっている現在、現場は収拾したと見ていいだろう。危ない危ない。遅刻してしまうのは痛いけど、珍しく寝坊してしまったことが幸いだった。おかげでこうして状況を知ることができる。タイミングが悪ければ、混乱の渦中に飛び込んでしまうところだった。
 ……ところで、こいつからの通信だが、僕は嫌われたんじゃなかったっけ? 成り行き上仕方なかったとはいえ、あいつの新居になる予定だったアパートを吹き飛ばしてしまい、「もう絶交だよ!」と、一年余りの下積みを帳消しにする絶縁状を叩きつけられてから一週間。仕事のせいで顔を合わせることもなく、前回の仕事でもペアにはならなかったので、話もしていない。デジタルを変換した信号にすぎないその声からは、こいつの心境の変化を分析することは出来ないが、この一週間が冷却期間となったのだろうか。
 僕の質問に、機嫌を窺うような、ためらいがちな声でそいつは答えた。
「だって……僕の通信に出てくれなかったから、事務所のアドレスなら出てくれるかなって。それに、昨日はハントの報告が無かったって所長が言うし、今日も遅刻だし、どうしたのかなって」
 通信……? 確認してみると、確かに履歴がある。時刻は九時三十六分。……九時、三十六分?
 意識に膜がかかる。結論に到達するための道筋さえぼやけて、ただ空白だけが思考を埋めていく。
「……?」
 大したことじゃないはずだ。寝ぼけて何かに気が付かないなんてこと、誰にだってあるだろう。僕だって例外じゃない。
 ともかく、思った通りこいつは一週間前の話を蒸し返す気はないらしい。単純に僕を心配して連絡を入れてきてくれたようだ。
 ――相手には悟られないよう、小さく鼻を鳴らす。
 ありがたいことだ。とっとと要件を済ませてしまおう。
「僕を心配してくれたのか。本当にすまないね。実は単なる寝坊なんだよ。昨日のこともあるし、所長に連絡を入れたいんだけど、換わってくれるかい?」
「……寝坊、ですか?」
 僕の言葉に、何故か訝しげに疑問符を返された。こちらとしては一刻も早く所長に取り次いで頂きたいが、出勤時間は時の彼方だ。こいつとの無駄話に華を咲かせるのも悪くない。そう思い、僕は軽口で返す。
「どうかしたのか? まあ、確かに僕が寝坊するのは珍しいね。なにせ……」
 ……唐突に思考が停止する。その後に続く言葉が見つからない。
「なにせ……」
 おかしい。言葉が見つからないのなら、執着する理由は無い。別の会話に切り替えればいいだけだ。なのにどうして、こんなにも強迫観念にかられるんだろう。僕が寝坊をしない理由なんて、そんなもの……
「……!」
 ぼやけた意識が醒めていく。自分の軽口から、ようやく僕は、さっきの違和感の正体に思い到った。こいつが訝るのも当然だ。何故今まで気が付かなかったのだろう。こんなことはありえない。僕は寝坊しない。することができない。
 僕のPCは基が精神抑制のため、頭蓋に直接埋め込む医療用の物だ。脳内の分泌物制御、体機能の管理を行うこのPCは、僕に生活の乱れなんてものを許さない。
 迂闊だった……。朝に感じた眩暈のような感覚は、不調を訴えるPCのノイズ音だったらしい。
「あの、大丈夫ですか? なんなら、こちらから迎えに行きますよ?」
 心配そうな声が響く。苦虫を噛みしめるように、僕は答えた。
「いや、それには及ばないよ。今そちらに向かっている最中だ。――ところで、今の時間を教えてくれないか?」
「はい? 十時十八分ですけど……」
 嫌な予感は的中していた。家からここまではどう考えても五分弱。最後に時計を見てから一時間以上も、僕は何をしていたんだ?
「どうやら記憶障害がでているみたいだ。一応聞いておくけど、そこにあの魔女は居るかな?」
「いえ……。今あの人は本庁の方へ行っていて」
 僅かな期待も届かない。しかめた顔のまま、額に手をあてた。タイミングが悪すぎる。どんなに急いでも、あそこから呼び戻したのでは間に合わない。このPCの設定を行った本人であるあいつに修理を頼むのが一番安全なんだが……。いないのでは仕方がない。

⇒To Be Continued...

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