クロス 3
作者: トーラ   2008年01月22日(火) 22時49分29秒公開   ID:KvBgjdlPPKE
【PAGE 1/3】 [1] [2] [3]



 3―1

 私は海にいた。海に訪れたのではなく、気付いた時には海が見えたから、海にいるのだと思った。
 細かい砂の上に裸足で立って、波のない奇妙な海を眺めていた。時間が止まっているみたいだ。
 私の隣には当たり前のように繭乃がいた。彼女も私と同じく海を眺めていた。平べったい水溜り。無機質な青色が広がっている。きっと、私たちは視界を共有出来る。だって青しかないのだから。些細な見え方の違いはあるかも知れないけれど。
「変なところ」
 私の声は繭乃に届くだろうか。声は真っ直ぐ進むけど、彼女は私の横にいる。本当に伝えたい言葉が思いついたら彼女に向かって声に出そう。
「どこが変なの?」
 心配しなくてもちゃんと声が届いていた。こちらを向いて繭乃が言った。私が違和感を口にすると、繭乃はどこが変なのかと質問をする。もう慣れたやり取りだ。
「波がないもの。私が知ってる海はね、ずっと水が動いててさ、なんていうか……見守られてる感じかな」
「そうなんだ。何だか凄いね」
 聞き慣れた落ち着いた声を聞く。凄いと口にしても感情が表情に出ない。彼女の表情は薄い。
 砂の上に座る。砂場に座り込むのと大差なかった。繭乃も私の隣に座った。
「うん。海は凄いと思う」
「そっか……」諦めたように繭乃が呟いた。繭乃の声はひどく寂しげに聞こえた。
 波のない海は静かだ。私たちが黙るとすぐに静寂に包まれる。あまりに静かだと落ち着かない。何度もこちらには訪れているけれど、どうしても静か過ぎるのには耐性が出来ないでいた。
「惟ちゃんの話は面白いね」
 静寂を繭乃が切り裂く。ほんの少しだけ、その日の気分で印象が変わるくらいに些細な変化だけど、楽しそうに見えた。
「私の知らないことばっかりだ」
「見てみたい?」
「そうだね。けど、もういいの。惟ちゃんが会いに来てくれるから」
 繭乃が私の手を取り笑った。彼女の手に付いた砂が私の手にも貼りついた。
「でも……」
 私は彼女の笑顔に応えることは出来ない。私に向けられた笑顔が、伝わる手のひらの温もりが、少しだけ辛い。
「ずっとここにはいれないし……」
 繭乃の期待を裏切ることが後ろめたくて、手を握り返すのを躊躇う。
「何時これるかも分からないし……」
 だから、そんな風に私に微笑みかけないで欲しい。お互いにつらいだけだ。
「ずっと一緒にいれたらいいのにね」
 はち切れる寸前まで張り詰めた糸を弾いたような、澄んだ声で繭乃が言った。
 心から残念がるような繭乃の表情が、私を責めているように見えた。

 3―2

 夏休みに入って数日して、繭乃と連絡が取れなくなった。メールを送れば絶対にその日のうちに返信してくれていたのに、一週間前に送ったメールの返事は未だに返ってこないでいた。電話にも出ない。
 夏休み前は一緒に出かけようという話で盛り上がっていたのに、夏休みに入ってから一度も繭乃の顔を見ていない。寂しい気持ちを否定はしない。繭乃に会いたい、という気持ちをしっかりと自覚していた。
 繭乃に何かあったのだろうか。私とメールするのが嫌になったのだろうか。私以外の人と遊ぶ予定があって、私の相手など出来ないのだろうか。初めのうちは特に気にならなかったが、そろそろ不安になりはじめていた。不安な気持ちは私を後ろ向きにさせる。
 若者が一番活発になるこの時期に、じめじめと家で悩んでいるのは時間の無駄遣いだと気付き、行動を起こすことにした。
 冷房の効いたバスの中から、焼けたアスファルトが流れるのを見る。紫外線に肌を晒し自転車を漕ぐ学生の姿を見ると頭の下がる思いだった。
 バスの行き先は、繭乃のバイト先だ。



 独りでショッピングセンターに訪れるのもなかなか悪くないな、とも思う。基本連れがいないと来ない場所なだけに、独りで人ごみの中を動くのは新鮮に感じられた。案外、独りで歩いている人も多くて、少数派だけれど仲間はずれではないのだと安心できた。
 今日は繭乃の職場にしか用事はないので真直ぐ店に向かう。
 時間は午後三時過ぎ。一応暇な時間を選んだが、今度はちゃんとした客として訪れるのだからあまり気を遣わなくていいだろう。
 店の中に入り店員が出てくるのを待つ。予想通り、店の中に客は少ない。繭乃と一緒に来た時と殆ど変わらない。外国語の歌も変わらず流れている。
「いらっしゃいませ」
「どうも。お久しぶりです」
 私を案内するために現れたのは一度話したことのある原だった。知り合いに会えて、かなり気分が軽くなった。
「あれ、君は確か……」
「篠村繭乃の後輩です。田村惟です」
「あぁ、惟ちゃんね。そうそう、そんな名前だった」
「思い出してくれました?」
「うん。久しぶりだね」
 他人行儀な笑みから、親しみのある笑みに変わっていく。私の気持ちの余裕も笑みに変わり、彼と一緒に笑った。
 とりあえず第一関門は突破。次の段階に進まなくては。
 再度店の中を見渡した。何処かで期待していた繭乃の姿を見ることはできなかった。
「繭乃は休みだよ」
「……そうですか。何時だったらいますか?」
「それがね……」
 私の質問は原の表情を曇らせた。原の顔は深刻そうで、彼の顔を見ると繭乃に何かがあったのだとすぐに分かった。
「あいつね。今入院してるんだよね。知らなかった?」
「入院、ですか……。知らなかったです。メールも電話も繋がらなくて。マユさん、大丈夫なんですか」
 入院なんて言葉は異世界のものだ。それくらい馴染みがない。友人が入院した記憶は殆どない。テレビや、漫画の中の出来事だと思っていた。
 身近な人が入院している。とても重たい言葉だった。浮かびかけていた気持ちが沈み始める。
「ちょっと分からないんだ。医者が言うには身体に異常はないらしいんだけど、目を覚まさない。去年も同じことがあったんだが。……心配だね」
 苦しげに原が笑った。今も繭乃のことを気にかけているのが分かる。特別な人を想うみたいな、苦痛の滲んだ表情だ。
「今日は話をしにきただけ? それとも何か腹に入れてく?」
「冷やかしは申し訳ないんで、ちゃんとご馳走になりますよ」
 原が仮面を被ったように明るく笑い直した。私も、失礼にならないよう、笑顔を取り繕った。



 挽き肉のようなどろどろとした考え事が頭に詰まって蠢く。これではせっかくの料理が台無しだけれど、挽き肉をハンバーグにしてこんがりと火を通す術を私は知らない。挽き肉はこのまま挽き肉のままで、きっと頭の中で臭いを発して腐っていくのだ。
 目を覚まさないという繭乃の症状は、一ヶ月前にもあったことだ。あの時は深くは考えていなかったが、あれが前触れだったのかも知れない。だけど、過去に戻って自分に今の繭乃の状況を伝えたところで何が出来るのか。どうせ何も出来ない。
 更に記憶を遡る。マチの言葉に辿り着く。一度バス停で話しただけで、二度と私の前に現れなかったおかしな男は私に言った。
 何かが欠けている状態にある筈だ。それは彼女にとっても望ましいことじゃない。
 その言葉は何を意味するのか。望ましくないことが繭乃に起こるという意味なのか。本当に不親切な男だ。謎々のような言葉ばかり並べて去っていくだけだなんて。
 マチの言葉の意味するものが、今の繭乃の状況だったとしたら、彼女の一部と呼ばれるもう一人の繭乃も何か関係があるのだろうか。
 自分独りで考えても先の見えない道を歩き続けるようで虚しい。少し冷めたトマトソースのパスタをフォークに巻きつけ口に運んだ。トマトの酸味が頭をすっきりさせてくれる。冷めていても、ここのパスタは美味しい。
 この後の予定は考えていなかったのだけど、原の誘いに乗って一緒に繭乃が入院する病院に行くことになった。車で送ってくれるらしい。四時半に今日は仕事をあがるので、それまでは何処かで時間を潰さないといけないが。
 もう一口パスタを食べる。お昼ご飯を親に作ってもらわなければよかったと後悔した。パスタの量が重たい。満腹が近づいているのが分かる。
 冷水で喉に引っかかる麺を流し込んだ。



 原の車は黒い軽自動車だった。いざ車に乗り込む時になって、私は考えが浅いなと反省した。あまり親しくもない成人男性と二人きりで車に乗るのは若い女として無用心過ぎるのではないか。原は繭乃の信頼も厚いだろうから、信用出来る人間だと思うけど。
「なんか、図々しくてすみません」
「気にしないで。ついでだから」
 ハンドルに手を添え、前を見たままで原が笑った。渋滞のない道路を、制限速度を守って原が車を走らす。制限速度を守ると、結構ゆっくりと走っているように感じる。
「タバコ臭いのは勘弁してね」
「全然大丈夫です。気にしないでください」
 原の車の中は綺麗に掃除されていて新車のようなのだけど、ソファに染み付いたタバコの臭いがかなり特徴的だった。布が吸ったタバコの臭いは嗅ぎなれている。両親の車も原の車と同じくらいにタバコの臭いが染み付いているから。
「惟ちゃんは繭乃と仲が良いんだね」
「友達ですから」
 会えなくて寂しいと感じたなら、友達だと思っても許されるだろう。繭乃が私をどう思っているかは知らないが、私の仲の認識では友達で、むしろそれ以上の存在になっていた。
「そう。それはよかった」
「どうしてですか?」
 あまりにも優しい顔で原が言う。繭乃の話をする時はいつも表情が変わる。
「あいつ、友達少ないみたいだから」
「そんなこと、ないと思いますけど」
「だったらいいんだけどね。昔は全然いないみたいでね、大人しい性格だったし」
 繭乃は誰にでも好かれる人間だと思う。だけど、確かに学校で彼女が自分以外の誰かと話している所を見たことはない。原の言葉をはっきりとは否定できなかった。
「今は明るく見えるけど、あいつ絶対無理してるから」
「どうして?」
「勘だよ。なんとなく」
 誤魔化して、逃げるように原が笑った。この話はこれで終わりという合図に見えて、私はそれ以上質問するのをやめた。



 原と一緒に入った病院はホテルのように大きくて、一度もお世話になったことのない所だった。ドラマでよく見かけるような形のものだ。
 静かで独特の匂いのする病院の中を歩き、エレベータに乗り、繭乃が入院している病室に向かった。彼女の病室は四階にあった。
 病室のベッドに横たわる繭乃は原の言葉通り眠っていた。窓から差し込む日差しに照らされても、瞼を震わすことも、唇を震わすこともない。穏やかに呼吸を繰り返すだけの人形のようだった。
 彼女の寝顔はとても綺麗で、見知らぬ女性が横たわっているみたいでひどく私の感情を揺さ振った。
 保健室のベッドで眠っているのと、病院のベッドで眠っているのとではまったく違って見えた。はっきりと繭乃に異常があるのだと告げられているようだった。
 病室には繭乃が独りで眠っていた。この時間に私たち以外にお見舞いに来た人はいないらしい。
 原がベッドの傍に置いてある三本足の椅子に座った。「座りなよ」と私の分の椅子も用意してくれたので、私はその椅子に座った。
 何を話せばいいのか分からなくて、黙ったまま繭乃の寝顔を眺めた。原も黙ったままだったから、無理して沈黙を破ることもない。空気は重いが気まずいこともなかった。
 原が繭乃の髪を撫でる。少し乱れた前髪が整えられる。子供をあやす父親のような手つきだ。きっと心地よいのだろう。表情は変わらないけれど、繭乃なら恥ずかしがりながらも喜ぶと思う。繭乃にとって原は特別な人で、原にとっても多分同じだ。お互いに特別とは口にしていなくても、お互いの事を話す時の表情や仕草を見ていたら、何となく分かる。最初から疑っていたが、繭乃から原の話を聞く度に疑いは確信に変わっていった。
 私は二人にとって邪魔者でしかない。繭乃と原の間に出来上がった空気は、私が吸い込み慣れている窒素や酸素、二酸化炭素以外に、科学では証明出来ない何かが確かに混じっていた。
「前にもこんなことがあったって言ったね」
 この時間がきたら喋ろうと決めていたみたいに原が言った。こちらを見ているが、視界の半分で繭乃を気にかけているようだった。
「交通事故に遭ったっていうのは繭乃から聞いたかな」
「あ、はい。それで足を折って、それで留年しちゃったって」
「その時に目を覚まさなくなったんだ。入院よりも、そっちの方が留年の原因だと思う」
 他人の過去なのに、淡々と原が語る。昔話を聞かせるみたいに。口調と内容の釣り合いが取れていない。
「そんなこと、私に話していいんですか」
 今は「勘弁してくださいよ」と繭乃は笑ってくれない。笑い話にはならない。
「惟ちゃんだったら繭乃も許してくれると思うんだけどね」

⇒To Be Continued...

■一覧に戻る ■感想を見る ■削除・編集