待ち人来たれり
作者: くれたけ   2008年01月11日(金) 19時44分17秒公開   ID:frFMfwE1zC6
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 ――晩には戻りますから、待っていてくださいね――
 病床に臥す私に、女はそう告げた。
 病に侵され、四肢を動かすどころか口をきくことも出来なくなった私と、病に侵されながらも私を救おうと、今日もまた、商いに出掛ける女。
 ……救うべきは女の方であっただろう。この私はどうあっても手遅れなのだ。助かる見込みなどありはしない。
 ――やめてくれ――
 眼球だけで語る。朽ちていく肉体と罪悪感に苛まれ、私の精神は崩壊しかけていた。
 ――晩には戻りますから、待っていてくださいね――
 その言葉を聞く度、何もできない己を呪い、せめて女が無事であるよう祈る。
 同じ境遇を持つ女、共に異国の地へと渡り、互いの命運を分かち合った。
 あの五月雨の日も、苦しげな吐息を漏らし、女は出掛けて行った。


……どうやら、もう外は晴れているようだ。
 椅子に深く腰掛けた怠惰な姿勢のまま、読み飽きた本から、視線はこの場を外と区切る境界へ移る。
 正午過ぎから降り始めた雨は、日付変更が近付くにつれ徐々に弱まり、今は風雨が空気を震わすこともない。しとどに濡れそぼった地上を残し、空は澄み渡っていることだろう。
 その判別が鈍ったのは、単に外が暗すぎたせいだ。無論、地上からの光は周囲を仄明るく照らしてはいる。だがそんなもの、この夜を過ごすための肴になりはしない。古くは神秘の象徴とされ、今では単なる天体へと成り下がった月の光が、今夜はないのだ。陽光のない日々が人々の心を鬱屈させるように、やはり月光のない夜というのも、暗闇をこそ自らの住まいとしている私にとっては気だるさを誘うものなのである。それ故、外に目を向けることを忘れていた。
 だがおかしな話だ。私の在るべき場所はここであり、そう望んだのも私自身なのだ。閉ざされたこの箱の中で、永遠に途切れた過去を模索しながら、二度とは訪れぬであろう再会を待ち続ける。――元は願いを叶える手段だったそれは、いつしか目的にすり替わり、願い続けることこそが私の存在理由となっていた。故に、今の私が欲すところはこの世界の継続と固定である。外の景観など無きに等しい。
 しかしそう思えるのも、あとほんの僅かな世代の移り変わりの中でだけだろう。……この場所は変わった。未だ青々と茂る森だけは、かつて私がこの地にやって来た時の名残を残してはいるものの、いつか必ず人の手が入る。発展を望む人間は、その領地を広げることに何のためらいもない。だが、それを咎める気も私には毛頭ない。変化し、成長していくのが人の生だというのならば、この発展もやはり必要なことなのだろう。この世の継続と固定を望む私にとって死は好ましくない。少なくとも、私の精神に根付くこの世の概念は、人が生きる世界なのだ。景観は変わっていくが、そこに未練が無ければより安楽な生活を助けてくれるものとなるのだろう。だが逆に、そこに何らかの未練が――想いが残されているのであれば、苦しみを伴う永訣となる。
 故に、その想いで形作られたこの身が霧散してしまう日まで、あと幾許も残されてはいないのだ。私がこの場所を、かつて私が過ごした場所だと認識できなければ、この世に留まる理由もありはしない。
 
 ……さて、本の続きを読むとしよう。
 もう何百回と読み返し、見飽きた内容ではあるが、それは幾度となく移り変わる文明も同じことだ。此度の物語が終わる頃には、おそらく私の世界も終り、永遠に同じ環の中を回り続け、継続を求めながら停止してしまった私の願いも終焉を迎えることだろう。
 
 ――客が来た。
 この店を改築してから十数年、未だ慣れることのできない無音の扉の開閉は、目を伏せていれば気配のみが扉をすり抜けたように感じさせる。私はいつものように、この時の流れを滞留させた空間との境界を踏み越える物好きに一瞥よこした後、無愛想に読書に耽る。……そのつもりだった。
 
 視界の端を砂金が流れてゆく。まるで舞い降りた幻惑のように、それはこの私という存在自体を強力に引き付けて離さない。知らず、私は麻薬を喰らった病人の様で、初見のはずのその客に過去の幻想を抱いていた。
 見たところ子供ではない。私の胸まで至らぬ程の矮躯ではある。しかし、瑞々しくも内に秘めた蠱惑的な風情が、肉体の未熟さを完全に裏切っている。鋭く大きな目を飾るストーンブルーの輝きは無機質なものだが、血色のよい色白の肌とブロンドの長髪は煌びやかで、どちらかといえばその美しさは華やかなものである。ところがその反面、着けている衣服はまるで英国紳士のようで色気が無い。ドレスでも着ていた方がよっぽど違和感が無いのだが、そうでなければ流行りの服でも着ていればいいものを……。
 そんなちぐはぐな印象を持つ客は、店に入るなり興味深そうに棚を見て回った後、ふむふむなどと一人納得し、何事かぶつぶつと呟き始めた。…意味が分からん。
 だが、それすらも珍しい。この客に関して、私は未だ何も読めてはいないのだ。加えて、内に秘めたものの醸し出す雰囲気に、目前の立ち居振る舞いが重ならない。その一点だけに於いても、この私を引き付ける要因としては十分であった。
 だが、それにしても――

 ――何故、入って来れた?

 己の一挙一動を観察する目があることにも気付かず、客は更に奇行を続ける。そして、
「うぅ〜! この前世紀を思わせる古典的な商業様式と、もはやアンティークと呼ぶべき食品保存用機器類! 数々の歴史を歩み、使い込まれてきたこの店という空間が緩やかな時の流れを生み、心を退行させるような郷愁をさそうよぉ。……ああん、たまんない! ここはまさに置き去りにされた場所、もう重要文化財! やや、世界遺産に指定すべき場所だよぉ」
 突然、悶えるように声を上げた。
「…………」
 ――特に言うことは無い。長く生き過ぎた私は、感情の波も微々たるものだ。故にやたらめったら驚くということも無いのだが、……一つ言えるのは、このての客は初めてだということである。
 だが、それでも初見の判断を変えるには至らない。内に秘める自我が深刻なものであるが故、新たな自分という擬似的なもので覆っている。表面を覆うのではなく個々で成り立たせている両者は、表面上際立つものにだけ目を向けさせ、巧みにその奥深さを隠匿しているのだ。
 その奇妙な客は、数回、同じような狂乱を繰り返す。陶酔し、熱に浮かされるような様は淫蕩で、どこか病的ですらあった。何がそこまでこの客を狂わせるのか、それは判然としないが、流行りということでもあるまい。間違いなく個人的な趣向だろう。
 店の中を二巡ほどした後、ようやく気が済んだのか、僅かばかりの食材と雑誌を持って、客は勘定台の前までやってきた。
 ――歩み寄る姿に幻想が重なる。まるで壊れた映写機が異なる色彩の明滅を繰り返すように、その光景は私の意識を曖昧にしていった。
 それを悟られぬよう、私は平素の風で事務的に作業をこなしていく。何度も反復し、飽いた動作は、今の私の心に交らず、まるで浮遊するかのように現実性を欠いたまま進んで行った。
「…………」
 ――値段を告げただろうか。客は財布から小銭をとりだし、私に渡す。実際、その金額は品の値と釣り合っていた。
「君は――」
 不意に、
「――近くに引っ越してきたのかな」
 私はその客に声を掛けてしまった。
「……え?」
 客は訝しげに私を見返す。
 私とてこんなことは不本意だ。他人を知ることに価値を見いだせなくなって久しい。常に流動し、循環する人の情など、存在という現象に成り下がってしまった私にとってはあまりにも縁遠いものである。また、私は人に何かを尋ねるという行為自体得意とするところではない。ともかく目前で不審そうに首を傾げている客に何か言い繕わねばならん。
 なるべく平素を装い、私は口を開く。
「なに、そうたいした意味は無い。ここに来るのは近所の常連だけでね。でなければこんな不便な場所にある店になど誰も来ないんだ。だから、もしかしたらと思ってね」
 私の言葉に得心したのか、先ほどの不信感を払拭するように二、三度頷いた後、客は答えた。
「いえ、そういうわけではないんです。僕、今度この街で働くことになってアパートに引っ越してきたんですが、色々あってそこがドッカンしちゃって……。行くあても無くて彷徨ってる最中なんです」
 自らの言葉で己が困窮していることを思い出したのだろう。爛漫さをその顔から消し、客は深いため息をついた。――しかし、「ドッカン」とは……。やはり堅気の人間ではないらしい。まあ、私には関わりのないことだが。
「そうか、それは気の毒に」
 至極当たり前な言葉で、私は締めくくった。
「はい……。だから物件探し、また最初からやり直さなくちゃ。それじゃ、また。――僕もここの常連さんになりますから、これからよろしくお願いします」
 そう言って、客は背を向ける。
「ああ……」
 拍子遅れの私の返事は、結果、その背中に掛けることになってしまった。
 物憂げに去っていく背中を無言で見送る。幾年月を重ね、摩耗しきった私の心に、誰かを振り向かせる力など残っていようはずもない。
 ……そう、あの姿が私の願いを模すものであったとしても、所詮私の妄執が生み出した幻想を駆り立てるものでしかないのだ。故に、その背中を引き留める意義など微塵もありはしない。
 客が敷居を越えていく。結界で覆われ、時が滞留したこの箱から、流れ過ぎ去る外の世界へと。
 ――その刹那、情の波が微かに粟立つ。
 私がこの世に留まったとき、一体何を渇望していたのか。……この世の継続と固定だと? 矮小な人間のまま概念となったこの魂が持ったのはそんな高尚な願いではない。
 私は……私は唯一の待ち人をここで待っていたのだ。かつての契りを果たすため、私はこの身を保ってきた。
「――君、ちょっと待ちなさい」
 幻想でも構わん。既に世界から見捨てられた契りだ。それを知りながらここに居続けたのは幻想をこそ求めたからやも知れぬ。
「はい?」
 再度、そのストーンブルーの輝きが私に向けられる。それに怯むことなく、私は、私を知る者が見れば滑稽に思えるほどの愛想で、客に話しかけた。
「住む場所を探していると言っていたな。――もし君がよければなんだが、ここに住んではみないか?」
 私の言葉に目を丸くし、そのままこちらまで駆け寄ってくる客。その整った顔を更に近づけるように私の顔を覗き込むと、滲む期待を隠すこともなく私に問うた。
「あの、ここに住むっていうのは、えっと…ここってお店ですよね?」
 どこに住むのか、と聞きたいらしい。私は簡単に説明する。
「この店は住居も兼ねていてね。裏は人が住むようになっている。……とは言っても、私はほとんど使うことがないんだ。手入れはしているんだが、普段使わないのでは管理が行き届かない。そこで君に住んでもらえないかと思ってね。なに、家賃などは取らんよ。裏と表の作りは別になっている。使った分の光熱費さえ払ってもらえれば結構だ。……どうかな?」
 私の是非を問う声に、一拍の間が降りる。だが、それは躊躇逡巡したものではあるまい。
 やがて興奮に紅潮した顔で、客は唇を震わせた。
「あ、あの、……あのあのっ」
 喉を痙攣させるようにして絞り出された声は、なんら意味を成すものではない。しかし、その後に続く答えなど、聞くまでもなく明瞭だ。
 やがて客は、荒立つ情の波を静めるようにふと、顔を俯かせる。そして再び顔を上げると、感涙に潤む瞳で私を見つめた。
 ――瞬間、明滅を繰り返すばかりであった映写機は、軽やかな音と共に回り始める。刹那に止まってしまうであろう脆いそれと同じくして、映し出される朧な過去は、破滅への道をただひたすらに生き急いだ男を、奈落の淵で引きとめた女の面影であった。――それを、この目で直に捉える事は叶うまい。虚像は何かに映し出されることで姿を成す。源にある眩しさをこの目にしたならば、この双眸はことごとく潰され、世の道理すら見失う。私に許されうることがあるとすれば、それは光の生む逆光の中で佇むことだけだ。故に――私はそれを恐れ、この目を庇うように、その願いのカタチを、その想いを、自らの闇に埋もれさせ続けてきた。
だが、その闇は取り払われた。幻想に面影を重ねた脆い虚像の源ではあるが、私は今確かな光をこの背にしている。
 さあ、影とは有と無の双方から成り、光はその相克を映し出す。……光を前に、有も無も無く影のみである私は、果たして何者かで居られるのだろうか。
 振り返る。途端、柔らかな白に包まれた。双眸が潰されることはない。ただ、あまりの白さに目が眩む。……無理もない。久方振りに目を開けたのだ。幸福すら噛みしめるのには時間を要する。

⇒To Be Continued...

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