意味の成さない願いだとしても
作者: いちじく   2008年01月23日(水) 17時29分47秒公開   ID:7V0hqzIcwiM

 神なんて、信じてはいなかった。
 いくら祈りを捧げても、いくら願ったとしても、神はそれを叶えてはくれない。
 それは何故か?――答えは簡単だ。

『神なんてモノ此の世に存在しないから』
 
 それは私にとって物心付いた時からずっと変わらない真実だった。
 いや、そう思っていたかっただけなのかも知れない。
 そう信じたいだけなのかも知れない。
 だってもし神が本当にいるとしたら。
 私はきっとその無慈悲さを許す事が、出来ないから。

 でも、でも――
 今のこの瞬間だけは。
 私は神のう存在を信じ、願いを捧げていた。
 お願いします、神様。

 どうか、どうか――……



/意味の成さない願いだとしても


 胸いっぱいに空気を吸って、空を仰ぐ。
 空は淡白に青く、そして広い。所々に薄い雲が細く伸びていた。
 ビルの屋上から見る景色は、いつもとなんら変わりなかった。
 屋上の、フェンスが一部だけ破れた箇所。そこから入ることの出来るフェンスの外側は、私のお決まりの場所だ。
 そこはコンクリートの足場が僅かに出っ張っているばかりで、一歩足を踏み外せば地上に落ちてしまうほどのスペースしかなかったが、
 何年もこの場所に通いつめた私にとって、恐怖心と言うものはまったくなかった。
 フェンスの外側と言う、一般的には馴染みの薄く、私にとっては馴染み深いその場所。
 そこから見える風景は、何の変哲も無い、ごくごくありふれた平凡な風景。
 けれどその風景とそれが見えるこのビルは、私にとって特別な場所だった。
 私が生まれるずっと前から、学校の帰り道にあったこの廃ビル。
 幼いころの私の遊び場。現在の私の逃避の場。
 ここには、『風景』がある。色の付いた景色がある。
 全てを白に塗りつぶされたような、味気無い――虚空を見つめるに等しい景色とは違う。
 親もいず、特に親しい友達もいなかった私の真っ白な人生に、色彩を与えてくれる景色。
 特に意味も無くそこにある景色は、意味が無いからこそ私に意味を与えてくれるものだった。
 だがそれも――今日で見納めだ。


 きぃぃ、と背後で老朽化し、錆付いたドアの開く音がした。
 振り向けばそこには知った顔があった。
 悪ぶって染めた茶髪が似合わない、昔から良く知った顔。
「野上」
 ほとんど意識せずに私は呟いた。
「井上、そんなところにいると落ちちまうぞー」
 私は悪戯っぽく笑って。
「はいはい。いらない心配ですよーっと。しっかし、ずいぶん来るの遅かったじゃないのさ。あんた、体力落ちたね?」
「お前が階段ダッシュで駆け上がるだろーが。ついでに言うと足場悪くて何度もコケそうになったぞ」
「普段エレベーターとかエスカレーターばっかり使ってるからじゃないのー? 文明の利器に頼りすぎなんだよ」
「利用せずに何のための利器だっての」
 幼馴染の野上との、特に内容も無い、くだらない言い合い。
 野上は昔からこんな調子だ。私が交友関係らしい関係を持っているのは、野上くらいだろう。
 毒にも薬にもならない会話が程なく続いて、
 不意に、野上が話題を移した。
「しかしさ、今日は一体どーいう風の吹き回しだよ? お前から遊びに行くの誘うなんて」
「なーに? 私からデート誘っちゃ悪いって言うワケ?」
「いや、そーいうわけじゃないけど。珍しいと言うか奇妙と言うか大災害の予兆と言うか」
「ひっどい言われようなのは気のせいかな? 野上君?」
 私はにっこりと口の両端を吊り上げた。無論、眼は笑っていないが。

 ――今日、私が野上を誘ったのには、それなりの意味があってのことだ。
 今日は朝から楽しかった。普段は騒がしく感じるだけのゲームセンターも、意味の無いショッピングも、他愛ない会話も、街をただ歩くだけでも。
 本当に、楽しかった。
 時刻はもうすぐ三時。普通なら何か甘いものでも食べに言ってる時間帯だろうか?
 けれど私はこの場所に訪れた。
 野上が付いて来るのは、ちょっと計算違いだったけれど。
 だって今日は、

「……ねぇ野上。あんたは神様って信じる?」
「なんだよ、いきなり」
 私は私自身が一番嫌うその話題を口にした。
 幼い頃から変わらない考えを口にした。
「私はね、神様なんてこの世にはいないと思うんだ。絶対に」
 野上の眼が、僅かに真剣なものへと変わる。
「あんたはさ、知ってるよね? 私の家のこと」
「……親父さんとお袋さんのことか?」
 数秒置いて、野上がそう答えた。
「あははっ大正解ー」
 ぱちぱち、と手を叩く。
「しっかしひどいよね。私の親はなーんにも悪い事してないのにさ。
もし神様なんかいたら、そんなことしないよ。
事故なんて起こさないか、どうせ起こすなら私も連れて行ってくれたらよかったのに」
 ね?と私は笑って。
 そうして地上へと眼を移す。
 自分の気持ちを、確かめる。


 ――中途半端。それこそが、物事にとってもっとも最悪な状態だ。
 有があるから何かが生まれる。
 それは喜びであったり、悲しみであったり、さまざまだとは思うけれど。
 その生まれるものは、少なくとも私にとってはマイナスでしかない。
 両親の記憶など、私を悲しみに縛り付ける枷でしかないのだ。
 だったら、無のままのほうがいい。
 無は無でしかなく、プラスも無い代わりに、マイナスもないのだから。

 私の両親は、私が物心つく少し前に、事故死した。
 小さなころだったので記憶ははっきりしないが、親族に聞いた話だと私達家族はどこかに来るまで出かける途中だったと言う。
 車には、運転席に父、助手席に母、そして後部座席に私。
 そこに対向車線から車がセンターラインを越え、突っ込んで来たのだ。
 相手の運転手、父と母は即死。後部座席にいた私だけが助かった。
 原因は、相手運転手の飲酒運転らしい。
 ……父の運転には、なんの問題も無かった。
 なのに何故、私の両親は死ななければならなかったのか?
 相手運転手は何の贖罪もせずに、死んで。私の思いは一体誰にぶつければいいのか?
 そういった記憶は、幼心には、辛過ぎた。
 物心が付き、年を重ねるごとに私は世の不平等さを呪って、世界の理不尽さを呪って、神の無慈悲さを呪った。
 神など信じないと、固く誓ったのだ。

 静寂が空間を満たす。
 十秒か、はたまた十分か。短く長い静寂を破ったのは、野上の声。
「俺は」
 そう、一度区切って野上ははっきりと言葉を続けた。
「俺は、神様はいると思う。……今までいろんな人に巡り合えたのも、神様のおかげだと思う」
 返ってきた答えは意外なもの。
「……ずいぶんロマンチストなんだね、野上? 新発見だよ」
 茶化すように私は言った。
「沙紀」
 力強く、けれど大事なものを扱うかのように――野上は私の名前を呼んだ。
「沙紀に、会えたのも」
 ときん、と胸が鳴った。
 その眼は真剣そのもので、いつもはおちゃらけている野上の、今までに見たこともないような表情だった。
 そして。
 野上に名前で呼ばれたのは、とてもとても、久しぶりの事だった。
 小さなころ、両親がまだ生きていて――幸せで大切な人がいるこの世界が大好きだったころ。
 野上と一緒に近所の公園で遊んだ思い出が甦った気がした。

 ――あの事故から年を経て、私の心が大人になっていって、思った。
 世界にいる限り私の心は晴れない。
 だったら、消えてしまおうって。
 ――そう、思った。

 けど。
 何の悔いも無いはずなのに。
 後悔するようなものは作って来なかったはずなのに。
 世界に意味など、見出してなかったはずなのに。
 最後の一歩が、どうしても踏み出せなかった。

 それで、しばらくして気づいた。
 原因は、あいつなんだって。
 今まで意味の見出せない日々を過ごしてこれたのは、野上と言う存在が、
 私の世界に色を添えてくれていたからなんだって。

 でも、私はやっぱり世界が嫌いで。
 憎くて、恨めしくて、呪わしくて。
 色んなことに気づくのが遅すぎて。
 気づいたころには天秤にかけて計れるようなものじゃない、
 どうしようもないものになっていて。
 消えたいと言う私の思いは、変わらなくて、変われなくて。

 だから。
 例え一方的な思いだったとしても
 最後くらい良い思い出を残したくて。
 思いを伝えて、悔いを残したくなくて。
 だから今日、野上をわざわざ呼びつけた。


 なのに。野上、それは反則だよ。


「野上の、ばーか」
 それ以上言われたら、悔いを残さないどころか、逆に悔いが残っちゃうじゃんか。
 私は微笑んで、手を伸ばした。
 私が何をしようとしているのか察したようで、野上は走り出した。
 ありがとう。その言葉のカタチに私はもう一度口を動かして。
 虚空に体重を預けると、私の体はゆっくりと地上へ傾いでいった。
 野上が何かを叫ぶ声がしたような気がした。
 空が、青い。


 『死』とはどういうものかをよく考えていた。

 天国や地獄はあるのか。

 自殺をすれば地獄に行って、寿命を全うすれば天国に行く?

 死ねば、親に会えるのだろうか?

 神を信じない私がそんな事を考えるなんて、滑稽な話だ。


 ――身に感じた衝撃は、それほど大きいものではなかった。
 全身は痛んだが、それも耐え切れないというほどのものではない。
 不思議に思ってゆっくりを瞼を開く。
 暗闇に光が戻った瞬間、私は自分が死に損なったらしいことを認識した。
 それにしても、どうして?
 ビルは高くは無かったが、決して低いわけでもなかったと言うのに――。
 その瞬間、私は気づいた。
 私が――野上に抱きかかえられるようにして地面に倒れていることを。
「なんッ……で……?」
 訳がわからなかった。なんで、なんで、なんで――?
 答えは明白。
 私が飛び降りたとき、野上も飛び降りた。私をかばうように、落ちた。
 私を守るために、だ。
 馬鹿だ。とんでもなく、馬鹿だ。
 そんな今時のドラマでもやらないことを、やるなんて。
 私ごときのために、命を棄てに行くなんて。

 野上は動かない。所々に傷が出来て、出血していた。
 ……神はいつだって無慈悲だ。
 もし神がいて、野上が言うように神が私たちを引き合わせたというのなら。
 何故、野上に私をかばわせるの――?
 何故、私ではなく野上が死ななければならないの――?
 堰を切ったようにぼろぼろと涙が溢れ出した。
「やだ……」
 嗚咽交じりのかすれた声しかでなかったけれど。
 それでも私は叫んだ。
「死なないでよぉっ……!」
 世界はまた、私の大切な人を奪うと言うのか。
 神様。私は、私は――
 止まらない嗚咽と涙を隠すように、私は顔を覆った。
 と。
「……勝手に、殺すなよ」
 聞きなれた――聞き間違えようの無い声が耳に届く。
 その声は苦しそうだったけれど、確かに、そう確かに――。
「死んで欲しくないんだったら、お前も死のうとなんてするんじゃないっつーの……」
私は謝ろうとしたけれど。
私の口からはしゃくりが混じった嗚咽しか出て来なくて。
「泣くなよ……俺が泣かせたみたいじゃねぇか」
 私は次々と零れ落ちる涙も気にせず、野上の手を握った。野上の暖かさを、感じた。
「そんな簡単にくたばんねぇよ……泣いてないで救急車呼んでくれ。本当に死んじまうぞ」
 いつもの野上の軽口。
 よりいっそう滲み、ぼやけた世界の中で。
 私は一生懸命、笑みのカタチを作った。

 神様――。
 いてもいなくても、どちらでもいい。
 でも、もしいるなら私の願いを聞いてください。
 どうか、どうか。
 あとほんの少しだけ。
 できれば永く、永く。
 この幸せな時を私に下さい――。

 例え意味の成さない願いだとしても、
 その瞬間だけは、私は紛れも無く……幸せだった。
■作者からのメッセージ
前書きの通り、以前書いた同名の小説を修正したものです。
パスワードが合わなく、新規投稿、と言うカタチをとらせていただきました。
恋愛色を強くしたつもりなのですが
そのせいでバランスが崩れてしまったような気がします。
一応野上は死ななかった、と言う設定なのですが
雰囲気的に伝えることがうまく出来ませんでした。

アドバイス等していただければ幸いです。

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