クロス 0 |
作者:
トーラ
2007年12月20日(木) 01時05分07秒公開
ID:KvBgjdlPPKE
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0―1 バス停のベンチに座って文庫本を開く。バス停の前に見える四車線ある広めの道路を、鎖に繋がれたみたいに並んで車が走っている。信号待ちで何十台もの車の尾灯が王蟲の目さながらに赤く光るのは不思議な光景に見える。 車が再び走り出したのを確認し、文庫本に視線を落とす。好きな作家の小説の最新刊だ。もう三ヵ月前に発売された本なのだけど、なかなか読む時間が作れずにいた。 今日は時間が余っている。バスが迎えに来るまで三十分程度ある。今日は予定よりも早く授業が終わったのだ。今月は金欠で気軽に友人と遊びにもいけず、することのない私は真っ直ぐ家に帰ることにした。 三十分もあればこの本も読破できるだろうか、と文字を辿ることに集中する。その前に、貰い物のデジタルオーディオプレイヤーに電源を入れ、イヤホンを付ける。耳障りなエンジン音を遮断する。メーカーはリオ。骨董品だなぁと思う。まさかの要領百二十メガバイト。買い換えずこれを使い続けるのは愛着が沸いてしまったから。 大体五曲くらい聴けばバスが来る筈だ。 独りでいると時間の流れが曖昧になる。正直、今流れている曲が何曲目かなんて分かっていない。 ページを捲る。新しい文字列が現れる。端から読み始める。ページを捲る作業を繰り返す。何ページ捲ったかも分からなくなる。 ――あれ? 同じページをずっと読んでいたかも知れない。既読感がある。栞を挟むページを間違えたのか。 文庫本に半分以上遮られている視界が更に遮られる。大型車特有の騒音を撒き散らして、バスが迎えに来た。機械の声が「ドアが開きます」と私を招く。 顔を上げると、バスが排気ガスを吐きながら私が乗るのを待っているように見えた。ついさっきまで車で溢れかえっていた道路にはバスしかない。珍しいこともあるものだ。 乗用車の見えない道路は面白みのない川のようにも見える。河川敷の傍らの水の干上がった川と変わらない。 鞄の中からバスの定期を取り出しながら、バスのステップに足をかける。 運転手がこちらを見た。若い青年だ。二十歳過ぎくらいだろうか。というか、こんな若い運転手を見たのは初めてかも知れない。 バスの中に乗客は一人もいなかった。たまにこんな時もあるのであまり気にはしない。静か過ぎるのは少し苦手だけれど。 出口の近くの席に腰を下ろし目的地に着くまで待つ。自宅に一番近いバス停まで十分かかる。歩くと三倍は時間がかかるだろう。 何気なく窓の外を見た。バスと一緒に走っている車が一台もいない。自転車も、歩く人もいない。 今日の町の色彩が薄く、単調だ。そういえば今日は朝から空は曇っていたな、とバスの中から空を見た。 光が漏れる隙間もなく雲が敷き詰められている。車のない道路同様、面白みのない空だと思った。 窓を覗いても退屈な風景しか見えないけれど、車内で揺られながら文庫本を読む気にもなれず、見慣れた景色を見続けた。同じ色が流れる。本当に退屈。 目的地のバス停で降りて、そこからは徒歩で家に向かう。そこからも大体十分は歩く。私が降りた場所はもう住宅地で、車通りも少なく外を出歩く人も少ない。近所の小、中学校の下校時間と重なれば児童たちで賑やかになるのだけど、今日は普段と変わらず人は見えない。 ガードレールもない、凸凹だらけのアスファルトの隅を歩く。すぐ隣には一軒家が並んでいる。人が住んでいるのか疑わしいくらいにひっそりと家が並んでいる。私は、家のドアから人が現れるまで人が住んでいると信じるつもりはない。庭先に洗濯物を干しているけれど、それが本当に住人の物なのかも怪しい。 何件の家を通り過ぎたかも分からなくなって、やっと自宅が見えてきた。築四十年以上という古めかしい家。昔の家なので二階だなんて洒落たものはない。それでも、住めば都だ。隙間風とも十年以上の付き合いで、すっかり仲良しになっていた。 玄関のドアを開く。家の中が薄暗い。明かりは付いているのだけど、なんとなくそう感じた。 「ただいま」 玄関から伸びる廊下に向かって挨拶をした。返事は返ってこない。返事を返す人間がいないのだろう。 うちは、父、母、私の三人家族で、この時間父は仕事。専業主婦の母はたまに出かけている時もある。家に帰っても誰もいないのも当たり前といえば当たり前なのである。 「……おかえりぃ」 靴を脱ぎながら呟いた。独りの時にこそ独り言を楽しむべきだと思う。誰にも聞かれないと思うと気兼ねなく独り言を零せる。 靴下を脱ぎながら脱衣所に向かい、洗濯機に靴下を投げ込む。次に台所で麦茶を飲み、自分の部屋に入る。 教科書の入った鞄を放り出し、ベッドに身体を預け横になる。嗅ぎ慣れた自分の匂いがしなかった。代わりに、コマーシャルでよく耳にするお日様の匂いらしきものがした。 母が布団を干したのだろうか。 ――今日は曇りなのに。変なの。ちゃんと干せてるし……。 色々と疑問や不思議に思う箇所が多い。 私は今何処にいるのだろう。昨日見た世界と妙にずれている今の世界。昨日の延長線上に私はいるのだろうか。 独りでいると何処かに迷い込んだ気分になる。私を確認してくれる人がいなければ、私がここに存在しているかどうかも分からなくなる。 私が見ている筈の光景も、何だかモニターに映し出されているものを眺めているように感じる。 私は道を間違えたのだろうか。何気なく考える。 窓を見た。外はまだ明るい。だけど日は差していない。 「変なの」 独り言を呟く。私の声は誰にも聞こえない。 布団の温度が私の体温に近づいてくる。心地よさが染み込んでくる。することもないのでこのまま暫く眠ることにした。 ――起きた時に、夕ご飯が出来たらいいな。 私は瞳を閉じた。 眠りは深かった。夢も見なかった。見たけれど忘れたとかでもなく、ただ意識を失っていたように思う。 重たい瞼を擦りながら、ベッドの傍に置いてある筈の時計を探す。高校の入学祝に貰った腕時計が、部屋の主時計になっている。 横になったまま時計を見た。 文字盤に、針がなかった。秒針も、分針も、時針も。 「んあぁ……?」 見間違いだろうか。とりあえず身体を起こした。強く目を擦る。もう一度文字盤を見る。 「なんだこれ」 確かに、針が一本もない。時計が、時を計っていない。 窓を見た。外はまだ明るい。だけど日は差していない。 「なんだこれ」 もう一度言った。言わずにはいられなかった。 ――何で暗くなってないの? 確実に一時間以上は眠った筈だ。感覚的にそれは分かる。 なのに、何故日が傾かないのだ。 眠気が引いていく。頭が覚醒し始める。車のキーを捻ったみたいに。 放り出していた鞄の中から携帯を取り出し時間を確認する。 デジタル表記が崩れて何を示しているのかさっぱり分からない。本格的におかしい。 不安になって廊下に出た。もしかしたら誰かいるかも知れない。母が帰っているかも知れない。 「母さーん」 返事はない。家の中に気配も感じない。 「おーい」 もちろん、返事はない。家の中も、帰ってきた時の状態のままだった。 壁にもたれて呆然とする。一体何が起こったのか。頭は理解しようとしている。答えは出ない。空回り。ハムスターの滑車のようにぐるぐると回っている。不毛だ。 「……うぇぇ……。何が何だか」 携帯で母に電話をかけてみた。呼び出し音だけが流れる。電子音は静かな独りぼっちの空間には似合わなかった。電話を諦める。無言の圧力が音を鳴らすなと言っているような気がした。 「私しかいないってことは……ないよねぇ」 確かめてみることにした。家の外、ご近所さんの家のインターフォンを鳴らして回る。 小学校の頃男子の間で流行っていたピンポンダッシュのことを想像しながら、何度も押した。だが、ドアを開いた者は誰もいなかった。 これまた奇妙なことに、どの家にも鍵がかかっていなかった。試しにある家の玄関を開いてみたのだが、やはり気配はない。誰もいない。 「何で誰もいないのよ」 理解し難いこの状況に苛立ってくる。顔も知らないご近所さんの家の玄関の前に立ったまま零す。 「何で誰もいないのよ!」 怒りに任せて玄関のドアを思いっきり蹴りつけた。 鉄が擦れ玄関の枠が揺れ内側からベルが鳴る。それらの音が同時に響いて、がん、と鈍い音が聞こえた。 もう一度蹴る。そしてまた蹴る。ドアに恨みはないけれど蹴ることでしか内に溜まったものを吐き出せない。 がん、がん、がん。ぎぃ……。 仕返しのようにドアが開き私の足を避けた。 「ちょっ……!」 そのままバランスを崩して前のめりに倒れこむ。手を前に出す余裕もなかった。 誰かが耳元で歌っている。何十回も聞いたことのある歌。それはイヤホンから流れているのだと気がついた。 車が信号機に塞き止められている車の群れが見えた。手には文庫本を握っていた。イヤホンを外し首を左右させる。自転車に乗る学生、横断歩道を渡るお年寄り。車のエンジン音。 「寝てた……?」 鞄の中から携帯を取り出す。デジタル表記で、私が乗る筈だったバスがもう発車したことを示していた。 「ていうか寝過ごしてんじゃん」 次のバスの時間を確かめる。一時間後、とのことだった。 全身の力をため息に変えて吐き出した。脱力してベンチにへばりつく。そのまますべり落ちて地面に座り込みそうだ。 夢の中でも寝るなんて私らしい。 面白いくらいに鮮明に記憶している夢の内容を思い出し、独りで笑いを殺す。大きな声で笑うと誰かに聞こえてしまう。 「変な夢だった」 額を摩ってみる。顔から転ぶ寸前で目が覚めたようだ。痛みの記憶はない。それでも、夢の続きを想像すると悶えそうだった。 電話で母に迎えを頼むことにした。一時間もバスを待っていられない。 呼び出し音が鳴る。数回鳴った所で音が途切れた。 「もしもーし。私だけど。申し訳ないんだけど迎えに来て欲しいんだー」 「何で?」 「バスに乗り遅れた。次のバスまで待つの面倒くさい。早くお家へ帰りたい」 「車出す私だって面倒臭いよ」 「お願いママ」 子供のように甘えてみる。普段は母さんと呼ぶのだけど、甘える時はふざけて色んな呼び方を試す。今回はママ。前回はママン。 「仕方ないわねー。何処にいるの?」 「いつものバス停にいるよー。それじゃあ待ってるねぇ」 一方的に喋って電話を切った。後は迎えが来るまで時間を潰すだけ。 空を仰いだ。曇り空から光が差し込んでいる。白いような透明のような、よく分からない光だった。雲の内側にはポリバケツみたいな水色の空があるのだろう。 明日晴れたらいいな、と願いながら、文庫本を開いた。 |
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