人を待つ
作者: 柳   2007年12月02日(日) 18時42分47秒公開   ID:WQ.PhBOuFq2
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 電車からホームに降り立つと真夏の太陽が容赦なく照り付け、何だか拒絶されているような気分になった。久しぶりの故郷だ。目に映るものだけでなく、五感を刺激するすべてが懐かしく感じられる。
 私は二年前までここに住んでいた。この東北地方の街を出たのは、東京の大学を進学先に選んだからだ。今でもその選択をしたことに少なからずの後ろめたさを感じているし、心の奥では常に鈍痛がしていて、時折発作を起こしたように悲しくなることがある。
 自動改札機が置かれておらず、駅員の持つ箱に切符を入れて駅を出るのも懐かしい。直前まで冷房の効いた車内にいて、突然三十度を超える気温の中に放り出されたからか、抗議するように額がしっとりと濡れる。
 でも、猛暑だと騒がれる世の中で、私の心はすっかりと冷え切っている。

 私が酒井圭吾と出会ったのは中学校の頃だった。一年生で同じクラスになったけれど、そのころは挨拶を交わすくらいの関係でしかなかった。二年、三年と別のクラスになってしまったから、それきりかと思っていた。
 圭吾は皆の中心になって騒ぐタイプではなかったけれど、協調性が無いわけでもなく、いわゆる優等生タイプでもなかった。外には出さない優しさを内に秘めているのに、表面上は冷めたような態度をとっていた。
 中学生といえば、男の子というのはまだまだ幼い。一方で女の子達は一足早く成熟し始めていて、いつまでも子供っぽい男の子をちょっと見下したようにするけど、大人びて見える圭吾はなかなか人気があったんじゃないだろうか。
 同性からも信頼があったようで、自分から輪に入っていくわけでもないのに、いつも誰かと一緒にいたと思う。普段は最前列に立って皆をリードしていくような子が最終的に頼るのは圭吾だったのだ。
 彼は友人といれば冗談も言うし、馬鹿なこともやっていたけれど、超えてはいけない一線の見極めが非常に上手く、その直前でブレーキをかけることが出来るバランス感覚を持っていたから、私にもその気持ちが分かるような気がする。
 高校時代、女の子同士の気を遣っていないようで細心の注意を払わなければならない人間関係に疲れたときに、圭吾が隣にいてくれると安心したものだ。
 彼の告白は突然だった。それは今日みたいな暑い日とは対照的な、その年一番の寒さを記録した日で、雪が舞っていた。雪との付き合いが長いこの街では、休みになることなんてほとんどない。
 朝学校に着いても教室には誰もおらず(その頃の私は一番早くに教室に行って受験勉強をしていたのだ)、荷物を自分の机に置いて、マフラーと手袋、上着を羽織ったままでストーブのスイッチを入れる。どこの学校にもある、上に水を張ったたらいが乗っている燃費が悪そうなやつだ。
 ストーブがつくまではあまりに寒くて、勉強を始める気にはなれなかった。震えながら、石油の臭いとともに点火するのを待つのもいつものことだった。
 ただ、いつもとは違うことがその日は起こった。教室の扉が開いたのだ。私の次に生徒がやってくるのは、教室が暖まり始めたころのはずだったのに。
 そこには圭吾が立っていた。
「おはよう」
「おはよう」
 彼がいつものこととでもいうように挨拶をしてきたので、ついつい返事をしてしまった。よく思い出してみると、ちゃんと『おはよう』と言えていたかどうかも怪しい。それほど、圭吾の来訪は突然だった。
「ずっと好きだった。付き合ってください」
 ちっちっちっ、とためらうような音を出してから、ストーブに火がつく。音につられて、オレンジと青が混ざった炎に目がいった。私はぼんやりとそれから目を離せずにいた。
 どのくらいそうしていたのかは分からない。一瞬だったかもしれないし、十秒以上経っていたかもしれない。次に思い出せるのは、体の内側で何かが爆発したような感覚だ。圭吾の言葉がどういう意味であるか(言葉通りの意味だったのだけれど)を悟ったのだ。
 かなり寒かったはずなのに、全身の毛が逆立ったと思うほど熱くなった。
 熱が全身を駆け巡ると、次に襲ってきたのは虚脱感だった。
「え?」
「まあ、考えといてよ」
 混乱する私をよそに、彼はふらりと廊下に姿を消してしまった。そのときの気持ちと混乱を、私は未だに上手く説明できない。真っ白な紙の上にペンキを撒き散らしたように、確かに色は存在するのに明確な形を持って現われないのだ。
 もちろんシャーペンを握って数学の問題集を解く気にはなれなくて、椅子をストーブの近くに持っていって座った。
 しばらくそうしていると、私のクラスで二番目に登校してくる女の子が教室に入ってきた。
「あんたのお陰で教室に着いた瞬間に救われるよ」
 その子はストーブのそばにしゃがみこみながら言った。私が気の無い返事しかしなかったからか、
「ストーブつけるためにこんな朝早くから学校に来てんの?」
 ひどく呆れた調子で続けた。
 その日の私は、もう思い出すだけでも恥ずかしい。先生に問題を解くように指名されるたびにトンチンカンでちぐはぐな答えばかりしていた。何をやっても上の空で、中学校生活三年分の失敗をその一日で使い果たしてしまったみたいだった。
 午後になって、少し落ち着いて考えられるようになると、圭吾の言葉が冗談だったんじゃないかと思い始めた。今の私なら、圭吾はそういう類の冗談は言わないことを知っているけど、当時の私は圭吾のことをそんなには理解していなかったのだ。
 授業が終わると、私は逃げるように昇降口へと向う。早く家に帰ってしまいたかった。その日は何をしても上手くいかないと思っていたし、何よりも圭吾に会いたくなかったから。返事を決めていなかった私は、誰も乗っていないのに揺れているブランコみたいに宙ぶらりんだった。
 そんな考えを見越したのかどうかは分からないけれど、いそいそと上履きから靴に履き替える私の背中に、圭吾の声が投げかけられた。
「もう帰るの?」
 全身が硬直してしまったのを無理やり動かして振り向き、首を振って答える。
「図書館に行って勉強する」
「一緒に行っても良い?」
「……うん」
 今でも不思議に思うのだけれど、どうして私はそのとき家に帰る、と言わなかったのか。その直前までは早く家に帰りたいと思っていたのに。
 そのときの私は普通じゃなかったから想像でしかないけれど、家に帰ると答えたとしても圭吾に一緒に帰ってもいいか、と訊かれることは分かっていただろう。ならば、家に帰ってしまった方が圭吾と過ごす時間は短かったはずなのだ。それまでの考えを翻してまで図書館に行くことを選んだ時点で、私の返事は決まっていたのかもしれない。
 彼の告白に対して明確な返事をしたことはなかったのだけれど、それ以来圭吾は何となく私の恋人だという意識が生まれたし、周囲もそう思っていたようだ。

 それにしても暑い。冷たいお茶でも買おうか。財布の中から百円玉一枚と十円玉一枚を取り出して駅前の自動販売機に投入する。十円玉をもう一枚探してみても見つからず、仕方なく五十円玉を入れた。ガランと音を立てて落ちてきた缶とおつりを取り出し、近くのベンチに腰をおろす。そのすぐ後ろには木が植えられていて、木陰を提供してくれている。
 当然のことだけれど、自動販売機で売っている飲み物の見本の下には、青い背景に白い文字で『つめたい』と書かれている。冬が近づくにつれて、赤い背景に『あったかい』という白い文字のものが徐々に増えていく。

 高校時代、私はこの駅で圭吾の帰りを待つことが多かった。私はこの街の高校、圭吾は電車で少し行ったところにある高校に進学し、学校は別々になってしまったけど、引越しをして遠くに言ってしまうわけでもなかったから、少しも寂しくなかった。
 いつも一緒ではなく、すこし距離があったぶん、かえって互いの信頼が深まったとも思う。
 この駅は私の家と高校とを結ぶ線の、ちょうど真ん中辺りにあったから、私は学校帰りに駅にいるだけでよかった。夏は今のようにこのベンチで待ち、冬は駅の中で待つ。どうしても寒さに耐えられない時は、自動販売機であったかいコーヒーを買って頑張った。
 圭吾が定期を駅員に示して出てくるのを見て、彼が私を見つけるのを待つ。圭吾は、寒いから待ってくれてなくてもいいのにと言うけれど、そのときの彼の困ったようで嬉しそうな表情が好きで、やっぱり私は待つ方を選んだ。何となく恋人になってしまった圭吾は、この頃にはすでに私の中で大きな部分を占めていたのだ。
 圭吾と初めて夜を過ごしたのは、高校一年の夏のこと。本当にいいの、と彼にぶっきらぼうに訊かれて、私は小さく頷いた。圭吾は緊張すると無愛想になる癖があったらしい。圭吾は実はすごく奥手だったのだ。それは圭吾に限った話ではなかったのだけれど。彼の問いに頷くのが、どんなに恥ずかしかったか。
 そのあとに感じた、何とも言えない感動とほんの僅かな罪悪感を、今でもよく憶えている。
 もちろん、高校三年間ずっと恋人同士だったのだから、その一回きりではないけれど、私が知っている男の人はまだ圭吾ただ一人だ。

 お茶を一口含み、救われたような気分になる。喉を通り、胸の辺りを通過していくのがはっきりと分かり気持ちいい。時折、木漏れ日が手足の肌を明るく照らし出すのを眺めながら、缶を傾ける。そうやって少しずつ飲むうちに、中身は半分になっていた。
 風が吹き抜けると木の葉がざわつき、耳にも体にも心地良い。気がつけばまぶたを閉じて、風の音が消えるまでじっとしていた。ゆっくりと目を開き、立ち上がって足を動かす。連絡をしておいたから、母親が帰りを待っているはずだ。

 けれど、すべてが順調のままではなかった。私と圭吾の間には、もっと現実的な問題があった。私は、圭吾よりも概ね成績が良かった。担任にも親戚にも東京の大学を受験することを勧められた。
 圭吾も頑張っていたのだけれど、地元の大学へ進学することを選んだ。私は酷く悩んだ。高校を卒業した先輩で、大学で離れ離れになってもずっと続いているカップルの話はほとんど聞かなかったから。
 私はそのことを圭吾に相談したけれど、彼は私が圭吾に合わせることを決して許さなかった。お前の重荷になるくらいだったら別れた方がましだ。そんなことまで言われた。やっぱり無愛想に口にした圭吾は、苦しそうだったし辛そうだった。私も切なくてやりきれない自分の感情を持て余していた。
 結局、教師や両親、親戚、誰よりも圭吾の勧めで私は決断した。
 私も圭吾も無事に大学に合格したけれど、素直には喜べなかった。これから圭吾とどうなっていくのだろう、上手くやっていけるだろうかと心配になっていた時だ。
 突然、別れて欲しいという意味のことを言われた。
 青ざめた顔で、無愛想に、それでもきっぱりとした口調で。

 家の玄関を開くと、母親が迎えてくれた。本当に嬉しそうにしているものだから、去年の夏休みも今年の正月も帰ってこなかったことが申し訳なくなった。圭吾に会うのが恐くて、どうしても帰ろうという気にはなれなかったのだ。
 とりあえず荷物を置いてくるからと告げて、自分の部屋に入る。どうやら掃除はしてくれているらしく、それなりに綺麗なままだった。
 あの日、私の涙で濡れた枕は、すっかり乾いている。私は彼の言葉を受け入れることしか出来なかった。
 大学に入学した私と、高校にいた私はどこがどう違うのだろう。小学生の時は中学生が、中学生では高校生が、高校生では大学生が、すごく大人に見えていた。でも実際はそんなことはなく、進学した自分も周囲もそれほど変わっていないことに気付く。
 じゃあ、小学生だった私と今の私では何が違うというのだろう。体が大きくなったこと。自分の感情を言葉にするのが少しだけ上手くなったこと。多分あとは失った物、諦めた物の数だ。大学での生活は、それはそれで楽しいけれど、何かを犠牲にした代償でしかない。
 待ってみようか。
 ふとそんな考えが浮かぶ。駅で待っていれば彼に会えるかもしれない。そう思い始めたらいても立ってもいられなくなった。手に持ったままのお茶を一気に飲み干して、机の上に置く。
「ちょっと出かけてくるから。遅くなるかもしれない」
 せっかく帰ってきたのにろくに話もせずに出て行ってしまうのは悪いと思いながら、返事も待たずに玄関を飛び出して駅へと走る。物凄く暑いし汗が噴出してきたけれど、気にならない。圭吾に会わなければ。その考えに夢中になった。
 一方で、頭の中の醒めた部分で考えている。私は夏休みだから帰ってきたんだ。圭吾だって大学に行っているはずが無い。それじゃあ会えるはずがない。

⇒To Be Continued...

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