窓の月 |
作者:
柳
2007年11月25日(日) 08時21分36秒公開
ID:WQ.PhBOuFq2
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夜の気配がする。今朝の天気予報によると一日中晴れ、夜は綺麗な星空が拝めるらしい。虫達の鳴き声は、まるで星々の囁きのようだ。 俺の部屋の窓からは、月が見える。 「外で見る月はあんなにも遠くに見えるけど、こうしていると何だか捕まえられそうじゃない?」 かつて俺はこの言葉をある女性に投げかけたことがある。右手の親指と人差し指でコの字を作り、その間に月が入るようにしながら。 彼女は、俺が始めて『ちゃんと』好きになった人だった。出会いも付き合い始めたのも大学時代。 それまで異性と付き合ったことが無かったかというと、そうではない。ただ、自分から相手を好きになったことは一度も無かった。能動的ではなくて、受動的な恋。 俺がそう尋ねたのは、確か初めて彼女を部屋に呼んだ時だったはずだ。ちょうど、窓の中心に月が見える頃だった。 ――そうだねえ。 彼女はそう言って笑っていた。 ――けど、私は捕まえられなくてもいいから、広い空でいつまでも追い駆けていたいなあ。 そう、彼女は自由な人だったのだ。他の人には見えない翼を持ち、いつでも好きな場所へ飛び立っていけるような自由さと勇気を持っていたんだと思う。俺は鳥かごの中から、彼女が大空を舞う様子を必死に眺めていただけなのかもしれない。 しかし、はたから見ても自由そうで、自らもそれを強く望んでいた彼女は、もう俺の机の上にある写真立ての中にしかいない。そしてそれは、今は伏せられている。 事故だった。羽はある日突然折り取られ、羽ばたく力を失った彼女は命をも失った。 恋人が交通事故で亡くなった。 文章にしてしまえば、たったこれだけのことだ。珍しい話ではないだろう。そんな使い古された舞台の上に、ある日突然俺は立たされたのだ。 恋人が交通事故で亡くなった。 もう、この言葉を口にするのにためらいはなくなった。体の奥の方から何かがこみ上げてくることも。二年。俺がここに至るまでに要した時間。 皮肉なものだと思う。自由を望み、それを手にするのに相応しいはずの彼女は写真という小さな部屋の中に押し込められ、鳥かごから逃げ出すことすらできなかった俺はまだそれを掴む可能性を持っている。 写真の中の彼女は今でも、そしてこれから先もこちらに笑顔を向け続ける。写真立てが伏せられていなければ、溌剌とした笑顔で、瞳が愛くるしく、茶色味を帯びた長い髪が目に眩しいのがわかるはずだ。 まだ彼女を愛しているかと訊かれれば、答えはノーだ。ただ、何か大切なものをずっと憶えていたいと思う。忘れたくないと思う。たったそれだけのことだ。 ふと、薄闇の中でこちらを見つめる双眸を見て、思わずぎょっとした。写真の中の彼女ではない。当然のことだ。 今、俺の目の前にいる女性は、現在付き合っている相手だ。全体的にふわふわとした印象を受ける。写真の中の彼女とはまったく似ていない。ただ、笑った時の感じだけが少し似ている。 「ユウ、どうかしたの? ぼーっとしてるよ。ちょっと顔色も悪いかも」 彼女は語尾を跳ね上げながら言った。彼女――佐紀は俺のことをユウ、と呼ぶ。本当は優と書いてスグルと読む。 「大丈夫。きっと暗いからだよ」 すこし思索に沈んでいただけだ。ここに座って月を見ると、周りに誰がいても一人の世界に浸ってしまう。佐紀はそれをずっと黙って見ていたようだが、俺はそんなに苦しそうな顔をしていたのだろうか。 彼女が亡くなって二ヶ月後には、一人の女をこの部屋に呼んでいた。事情を知っている人間は俺に同情を向けながらも、その薄情を責めた。けれど、それは違うのだ。俺は自由を求めた。俺も、この部屋にやって来た女も彼女の代わりにはなれない。ただ、すべての束縛から逃れようと俺は戦っているつもりだった。 佐紀は何人目だろう。十人は超えていないはずだが、そのほとんどは顔も覚えていない。俺はどちらかといえば異性に好かれる容姿をしているようだし、それを謙遜するつもりも誇示するつもりも無い。 彼女が亡くなってから出来た恋人は、すべて向こうから言い寄ってきた。また、受動的な恋しか出来なくなった。俺は好きになろうとしないのだから、恋と呼べるものですらないのかもしれない。 大抵、この部屋を訪ねてきた恋人は俺のもとを去って行った。伏せられた写真立てを見て。 ――この人は誰? ――昔の彼女の写真なんて捨てちゃいなさいよ。 ――今の貴方の彼女は私でしょう? そうやって詰め寄ってくる女達は、俺が素っ気無い返事をすると帰っていった。 その写真を見ながらも、何も問わずにそっと伏せた人もいた。結局は相手が気まずそうにして、そのまま消滅してしまった。 佐紀はどうするだろう。怒るだろうか。慰めるだろうか。見て見ぬふりをするのだろうか。どれであっても、結果にはそれほどの差は無いように思う。 それきり俺が何も言わないからか、佐紀はそっと立ち上がると狭い部屋の中を見て回った。読みかけの雑誌や文庫本がところどころに散らばっていているが、それさえ片付けてしまえば雑然とした印象は無くなるはずだ。 机の上の写真立てに気付いたようだ。躊躇するふうにして、俺をちらと見た。俺は何も言わない。ためらいがちに手を伸ばして、写真を見る。佐紀はその笑顔を見た。表情は変えない。 佐紀はそれを手に取った時と同じようにゆっくりと戻した。 「恋人?」 「昔のね」 佐紀には見たことを後悔している様子は無く、なぜだかそれに安心している自分に気付く。佐紀はベットでも椅子にでもなく、わざわざ俺の隣に腰を下ろした。その足取りがあまりにゆったりしているから、マイペースな娘だなと思ったけれど、もう暗くなっているのに電気をつけていないからかもしれないと思い直す。 「初恋?」 隣に座る佐紀の表情さえはっきりしないほどに暗い。 「いや。でも、ある意味そうかも」 ふと、今の状況が彼女にあの問いを投げかけた時と同じだということに気付いた。佐紀に同じ質問をしてみようか。でも、それに一体どんな意味があるのだろう。そう思ってやっぱりやめた。つまらない期待だ。 期待。そうか、俺はずっと期待していていた。この部屋を訪れる女達に。思えば、勝手に期待して、勝手に失望していたんだ。 人でなし。そんな言葉が浮かぶ。彼女のことを知る人間は俺をそう評価しているだろうと、自嘲的な気分になった。 「大変だよね」 「何が?」 「忘れないようにすること」 それは、今までに俺が聞いたことがある、彼女の写真をみた人間が漏らすどの感想とも違っていた。 「忘れよう、忘れようとすると忘れない。憶えていようとすると、忘れちゃう。でも、そうやって色々なことを憶えていくんだなあ、って思う。大切なことも、どうでもいいことも。嬉しいことも……」 「悲しいことも?」 気が付けば、少し震えた声でそう訊いていた。 闇の少し先、佐紀が頷く気配がした。 俺は今まで、何をしていたのだろう? 俺を一番薄情だと思っていたのは、俺じゃないか。今より、ほんの少しだけ大きい鳥かごに移してもらおうとしていただけだ。 「暗くなってきちゃったね。電気点けてもいい?」 「ごめん。もう少しだけ待って」 今明かりを点けられると、格好悪いところを見られてしまう。俺にも男の意地のようなものが残っていたのか。 窓の真ん中には、月が浮かんでいる。三日月と呼ぶには丸みがあり、半月としては欠けている部分が多い。 「ねえ、あれ」 思わず口に出していた。 「窮屈そうな月だねえ」 彼女はそう言って笑った。 夜はこれからますます深くなって行く。 |
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