アナグラム | |
作者:
柳
2007年11月17日(土) 09時36分56秒公開
ID:WQ.PhBOuFq2
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あの空に浮かんでいる星は、どうしたって出来損ないとしか思えない。俺とあの星の間には、二者を隔てる絶対的なものがもやのように漂っているに違いない。ただ、この空をそれほど嫌ってはいない自分がいることも自覚している。 いつまでも鈍く光る淀んだ夜空の下で一軒のカクテルバーの扉で立ち止まり、すこしの間躊躇した。俺という人間は、基本的には店で酒を飲むということをしない。酒は家で独りか、もしくは仲のいい奴と少人数で飲むに限る。 そんな俺が、こんなバーの前に立っているのは、大学院の友人から気になる噂を聞いたからだ。 曰く、そのバーには俺達と同じくらいの女がいつも独りでカクテル飲んでいて、男に声をかけられると、そいつとすぐに寝るという話だ。しかも、その女はとびきりの美人だという。さらに続きがあって、一度会った男とは、どんなに誘われても寝ないとか。 いいね。かぐわしい謎の香りがする。俺は、ちょっとしたミステリー・ファンで、こういうささやかな謎があると思うと、その真相を知りたくなる。 ともかく、俺は下心と好奇心を半分ずつ抱きながら、その扉を開いた。 これといって変わった店ではない。その謎の女に声をかけた途端に、恐い兄ちゃんたちがでてきて、路地裏に連れ込まれるようなことはなさそうだ。カウンターの奥では店主らしき男がこちらをちらりとみると、いらっしゃい、と挨拶をしてきた。 店内には低い音でジャズが流れている。俺は音楽にはこれといって興味はないので、細かいところはわからない。 目的の女らしき人物はすぐに見つかった。後姿しか見えないが、肩より下まで伸びた艶やかな漆黒の髪が目を引く。カウンター席に座り、独りで飲んでいる。ここまでは噂通りだ。 俺は、店の前でそうしたように少しためらうと、彼女に近づいた。隣の席の椅子を引き、 「ここ、いいですか?」 と訊いてみると、どうぞ、こちらを見もせずに短く返事をくれた。マスターは事情を知ってか知らずか、注文をとりにきた。カクテルは詳しくないので、お勧めで、と答えると、少々お待ちを、と離れていった。 彼女はといえば、こちらのことには全く興味がなさそうだ。これでは話しかけられるのを待っていては日が暮れて(もうとっくに暮れているが)しまうだろう。どうやら、ここが勝負どころのようだ。 「あのう、独りで飲んでいるんですか」 かなり恥ずかしい。バーで、見知らぬ女にこんなふうに話しかけるのは、ドラマか、映画か、そうでなければ小説の中だけの話だと思っていた。それも大昔の。まさか、自分がこんな言葉を吐き出すことになろうとは。 彼女はようやくこちらを見た。確かに、かなりの美人だ。年齢も噂通りで、二十四、五くらいか。日焼けなどしたこともないような真っ白できめの細かい肌。すらりとした鼻と、桃色の唇。何よりも、深みのある、吸い込まれそうな瞳が印象的だ。けれど、その目は力強さに欠け、どこか諦めに似た空虚さを含んでいる。 その両の目で真っ直ぐに見返され、どぎまぎした。自分じゃわからないが、顔が赤くなっていないことを祈ろう。 「ええ」 ようやく返事があった。話の糸口を探しているときに、どうぞ、とマスターが差し出したカクテルは、どうやらオレンジが主役らしい。その判断材料は色と、グラスの先に刺さったオレンジだけだが。一口飲んでみた。中々美味い。 それにしても、魅力的だ。彼女の美しさもこの謎を引き立てるのに貢献している。もちろん、彼女自身が放つミステリアスな雰囲気も。 「お名前はなんていうんですか?」 無口な人だ。俺も話すよりは聞く側にいる人間だから、静か過ぎる奴は同姓でも異性でも少し苦手だ。先ほどから僅かな変化もない目で見つめられ、どきりとする。 「別に怪しい者じゃないですよ。俺は、諭。木下諭っていいます」 別に怪しい物じゃないですよ、か。こんな言葉を使うんだったら、車に轢かれる可能性のほうが高いと思っていたのに。内心で思い切り苦笑する。 「アオキニンナ。変な名前でしょう? 青い木に、仁和寺のニンナ」 彼女がようやく話といえるくらいの長さの言葉を並べた。少し高くて、憂いを帯びたような声だ。それが見た目にも良く似合う。もし自分の容姿に合わせて声を選べるとしたら、彼女は最良の選択をしたことになる。自分で言うとおり、珍しい名前だが、それが彼女にはぴったりだと思った。 「いつもここにいるんだ?」 彼女はとろんとした、それでいて何かを探るような目で俺を見た。やっぱり、こんな美人に正面から見つめられるのと、どぎまぎしてしまう。 「まあね」 彼女が無口なせいか、俺が話下手なせいか、どうも上手く間が持たない。取り敢えずは目の前のカクテルをちびりちびりとやって、なんとか誤魔化す。 彼女も気まずそう(表情は変えないけれど、すこし居心地が悪そうだ)にグラスを手で繰っている。 突然、彼女はグラスをカウンターに降ろすと、すぐに立ち上がった。 「お会計」 もちろん、その言葉は俺に向けられたものではない。マスターがすぐにやってきて、彼女はさっさと会計を済ませてしまう。 俺は一人でぽかんとしていたが、彼女に店を出ていく様子は無く、ただ黙って立っている。これはどういうことだろう。 「早く行きましょうよ。どうせ、あなたも私の噂を誰かから聞いて来たんでしょう?」 俺は慌てて会計を済ませながら、この青木仁和という妖しく美しい女は何者なんだろうという疑問の答えを探していた。本当に、ただ好色なだけなのだろうか? それは違う、と俺の中の何かが叫んだ。根拠はないが、それは間違っていると思われてならない。俺が認めたくないだけだろうか。 扉を開け、二人で外に出る。ありがとうございました、という声が後ろから追い駆けてきた。 「何処がいい? 貴方の家でもいいけど」 俺の家に行くことにした。ここからなら近いし、いまから別の場所を探すのも面倒だし、一番安上がりだ。 気がつけば、もう俺の部屋に着いていた。一人暮らしの、学生の部屋にしてはそれなりに片付いているとは思う。 ――ねえ、アナグラムって知ってる? 家へ向う途中、彼女がまともに喋ったのはそれだけで、俺は、知ってるよ、と答えた。彼女は興味なさそうに、ふうん、と言っただけだった。 その他に俺は何を話したんだろう。全く憶えていない。その、彼女が短く気だるげに言った言葉だけが妙に強く残っている。 部屋の明かりを点け、彼女を招き入れた。彼女は部屋を見回すと、その隅に目を留めた。狭い部屋だから、一目見ただけで何が何処にあるかが分かる。 彼女が見ていたのは本棚だった。それはこの部屋で俺が一番気に入っている物でもあった。ミステリーが好きで、せっかくだからと、なけなしのバイト代をつぎ込んでちょっと贅沢したものだ。 「本、好きなの?」 そう訊いてみた。 「うん。特にミステリーが」 「へえ。俺も好きなんだ。あの本棚、ミステリーだらけだよ」 こりゃあいい。これで話題にはこと欠かない。 「見てもいい?」 彼女の瞳が、一瞬だけ少女のように輝いた。すぐに疲れたような目に戻ってしまったけど、それはわざとそうしているのかなとふと思った。 演じている。その可能性もあったか。もしかしたら、あの一瞬の輝きこそが彼女の本来の姿なのかもしれない。 「知らない名前がいっぱいある」 彼女は長い髪を面倒臭そうに払いながら呟いた。 あれ、何かが引っかかる。でも、何が? 「俺は、あんまり有名じゃない作家の、埋もれた名作を探すのが好きなんだ」 もちろん、「はずれ」のほうが圧倒的に多い。でも、「あたり」を見つけ出した時の喜びを思うと止められない。有名な作品イコール名作という図式は成り立つとは限らない。 「でも、有名所もおさえてるじゃない。エラリー・クイーン、ジョン・ディクスン・カー……あ、アガサ・クリスティーも。江戸川乱歩まで」 「中井英夫なんかもかなり良いね。『虚無への供物』とか」 「アンチ・ミステリね」 どうやら、好きだというのは嘘ではないようだ。皆有名な作家ばかりだけど、知らない奴は全く知らないし、活字離れ(俺には全然関係ない)が進んでいると言われる今日ではなおさらだ。 「作家って、何で本名を使わないんだろう」 彼女が呟いた。また、何かが引っかかる。どうしてだろう。 「しかも、作家としての名前も別に変わった名前をつけるわけでもない。一見して、本名だとしても不思議じゃないものばかりでしょう。『名は体を表す』なんて言うけど、そんなに深い意味があるのかな」 電撃が走った気がした。なるほど、そういうことだったのか。気がついてしまった。 耐え切れずに笑い出してしまった。彼女が訝しげに見ているが、そんなことは気にしていられない。だって、気付いてしまったんだから。すごく爽快な気分だ。俺は自分のベッドに腰を落ち着かせる。 「どうしたの」 彼女はとても無口だ。自分のことはほとんど話さないし、質問をしてくることも無い。こちらの話に適当な相槌を打つだけだった。 「いや、面白いことに気がついたから。君は、どうしてこんなことをしているのかな」 彼女が話しを振ってくるのは、あることが絡んでいる時だけだ――彼女は自分の名前が変な名前だと言ったし、作家の名前にも随分こだわっていた。彼女は“名前”に関することには他のことよりも興味を示した。 ミステリーにも彼女にしては強い反応をしたけど、それは本当に好きそうだから、これは例外。 「青木仁和さん。いや、オニキアンナさん、かな?」 一瞬だけ体を硬直させてから、彼女はゆっくりと言った。 「どうして」 分かったのか、か。 「君は名前に関することには関心があったみたいだった」 そして、ヒントはあと二つ。ついさっき彼女が言った、『名は体を表す』という言葉。最後の一つは、 「アナグラム。話題の振り方が不自然だったし、その三つの鍵から考えてそうじゃないかと思った。で、アオキニンナ、って名乗ったよね。オニキアンナはそのアナグラム。それ以外に自然な並べ替えも無いと思うな。以上、Q.E.D.(証明終わり)、なんてね」 彼女は笑った。花が咲くように、という比喩をそのまま形にしたみたいに綺麗な笑顔だ。 「また、エラリー・クイーンね」 Q.E.D.というのは、もともと数学や哲学で証明終わりの意味で使われていた。文学では、それをエラリー・クイーンが作中の終盤で使ったのがはじめらしい。 「どう?」 小説の中の探偵が事件の真相に至る瞬間も、こんな感じがするのだろうか。もちろん、俺が解いた謎は小説の事件に比べればずっと小さくて単純なものだけれど。 彼女は笑いを引っ込めて無表情になり、答えてはくれない。ただ、黙ったまま俺の隣に腰掛けると、どうしてそんなに、と思うほど真っ直ぐにこちらを見つめてきた。 ここで目を逸らしてはいけない。そうしてしまえば何かが崩れてしまう気がした。それは俺のものか、彼女のものなのか、そのどちらでもないのかはわからないが。とにかく目を逸らすな、というのが俺の至上命令で、それに強く固執していた。 何かが俺の手に触れた。おそらく、彼女の手だ。女の子というのはどうしてこんなに柔らかいのだろう。痛いほどの鼓動が心臓から耳へと伝わり、音として聞こえるようだ。 彼女はふっと目を逸らし、俺は深い安堵を覚える。次の瞬間には彼女の顔がさっきよりも近いところにあった。しかも、そこでは止まらずに更に近づいてくる。ゆっくりと瞼を下ろしながら。長い髪の、何とも言えない芳香が俺の鼻をくすぐった。 俺はその両肩を掴んで押し戻した。勢い余って、すこし力が入りすぎた。しかし、彼女が軽く目を見開いたのはそのせいではないだろう。彼女がどういうつもりだったかくらいは俺にも分かる。 「ごめん。悪いけど、今日のところは帰ってくれないかな。同時にいいことが二つ起こると損をした気になる」 彼女はちょっと小首をかしげた。こういう仕草を見ると、やっぱり女の子だなと思う。 もちろん、一つはヒントから謎を解けたこと。もう一つは、彼女と寝ることだ。 説明すると、彼女は小さく笑っただけだった。 「ねえ、本を借りていってもいい?」 いいよ、と答えそうになってふと思う。 「それは返ってくるの」 一度会った男とはもう会わないんじゃなかったっけ。 「一度寝たらもう寝ないだけ。それに、逆に質問をするけど、小説家がミステリーを書く上で、一番してはいけないことは何?」 「なるほど。好きなのを選んで行っていいよ」 小説家がミステリーを書く上で一番やってはいけないこと。それは既に使われているトリックをもう一度使うことだ。常に新しいものを見つけ出さなければならない。つまり、今までの習慣に拘ってはいられないということか。 ⇒To Be Continued... |
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