スキよりも、キスよりももっと 1前
作者: トーラ   2007年10月12日(金) 20時19分27秒公開   ID:wCGuvHJxTyk
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 一―一



 五月初めの連休からバイトを始めて、今は五月末。近々中間試験が始まる頃だ。バイトのシフトは週に二日、六時から九時半まで。学校に通いながらでも無理なく働ける職場だった。
 仕事はファミレスで接客。愛想はよくないけれど、自分の力でお金を稼ぐことの憧れに負けて、選り好みせずに今の職場を選んだ。愛想以上に私は段取りやら手際が悪く、なかなかにお店に迷惑をかけている新人バイトだ。
 疲れを背負った身体で自転車を漕ぎ、家を目指す。バイト帰りのひんやりとした空気が、私の身体を労わってくれているみたいだった。
 家に帰る途中に公園によるのが当たり前のことになっていた。
 エリと友達になってから一ヶ月が経とうとしている。あの日から私たちは少しずつ信頼を深くしていったし、エリに会うのが楽しみになっていた。



「お疲れ様」
 エリとの会話はその一言から始まることが多い。それだけ、バイト帰りにエリに会いに来ることが多くなったということだ。エリはベンチに座りこちらを見ている。
「うん。疲れた」
 公園の真ん中にある水道で水を口に含み、吐き出した。少しだけすっきりした。
「忙しかったの?」
「忙しくはないけど、精神的に。また失敗しちゃったし。今日はグラス割っちゃったし」
 グラスを床に落とした瞬間を思い出して、仕事中に溜まった息を一気に吐き出した。
「なかなか大変そう」
「うん。これでお給料貰っていいのか不安になる」
 愚痴りながらエリの隣に腰を下ろした。エリの隣が私の指定席だ。
「何だか、怒られるのが仕事みたい」
「それはそれで面白そうなお仕事ね」
「心の強い人じゃないと続かないね。私じゃ多分無理だ」
 顔を見合って笑った。初めと比べて上手に笑えるようになった気がする。エリの笑顔と比べればまだまだだけど。
「そうかしら。恭子は真面目だから大丈夫よ」
「……そうかな」
 褒められるのは苦手だ。お世辞か本当かを判断するのが難しくて、素直に喜んでいいのかも分からないし、疑うのも失礼だと悩んだりと、正直疲れる。
 エリの言葉は私の中で、天秤を揺らすみたいに悩ませている。延々と右に左に揺れ続けている。
「真面目でも、仕事が出来ないと意味ないと思う。私、全然仕事出来ないし、使えないし」
「そうやって考えれるところが真面目だと思うの」
「うん。ありがと」
 すべては受け入れられないけれど、天秤の均衡を崩すくらいには受け入れられた。無理にでも認めておかないと、このまま愚痴を垂れ流しかねない。
「元気出して。頑張って」
 両手で私の顔を挟んだ。エリの冷えた手が心地良い。
 ――こんな小さな子に励まされちゃ駄目だよね。
 エリの気持ちは凄く嬉しい。嬉しさの他に情けなさに、恥ずかしさも混ざっていた。
「ありがと。元気出す」
 混ざり合った気持ちを整理するのをやめて、浮かんでくる表情をそのまま浮かべた。驚くほど自然な笑顔が張り付いていた。
「良い顔してる」
 純水のような透き通った笑顔で見つめられると落ち着かない。笑顔も引きつる。曇りの日に陽が刺すみたいに見せるエリの側面は、いつも私の心を乱す。
 もし、この笑顔が無意識でなかったらと思うと、ぞっとする。
 エリの視線が、私の細部を作り直しているようで、自分でなくなるみたいだった。私までも透明にされ、見透かされているように錯覚する。
「あ、と、私、そろそろ帰るね」
 エリに見つめられるのが怖くなって、逃げ出したくなった。
「そう。分かった。今日はもうさようならね。また会いましょう」
「うん。また来るね」
 エリの手は木の葉が落ちるみたいに軽々と頬から離れた。掌から開放された顔は、エリを求めるように熱を帯びていた。

 一―二

 今日の校内では、色々な感情が溢れる。安堵感や幸福感、絶望感に焦燥感、危機感もあるか。
 今日は中間試験の成績が返ってくる。普通に勉強していれば単位を落とすことなんてまずないのだけれど、勉強していない学生もやはりいて、担任に面談に誘われる学生も何人かいる。思ったより点数が低くて落ち込む人や、その逆で安心する人。点数を競い合う相手に点数が劣り、悔しがる人。色んな感情に併せて色んな表情も溢れる。その中に混じる私の感情と表情はなんだろう。あえて表すなら、孤独感に劣等感か。表情までは分からないけど、嬉しそうな表情でないのは明らかだ。
 私にそんな負の感情を持たせるのは。自分の成績の悪さと、恵梨の成績の良さが原因だ。恵梨を尊敬しているけど、恵梨に抱く想いは尊敬だけではない。劣等感だって当たり前にある。恵梨と比べて私は劣っている。今回も試験の成績は、恵梨の方が圧倒的に良い。
 ちゃんと努力している恵梨が私の成績に負けることなんて有得ない、仕方の無いことなのは分かっているのだけど、それでもやはり、寂しい。恵梨と私はかけ離れている。恵梨に成績では近づけない。
 試験の成績のように、具体的に数字で恵梨との距離を表されると悲しくなる。
 成績表を鞄の中に押し込み、帰り支度を済ませる。テスト明けの最初の授業は特別時間割で、四限までしか授業がない。授業と言ってもテストの答案と成績表を返すだけなので、勉強はしない。
「恭子。帰ろー」
 先に帰り支度を済ませた恵梨が声をかけてくれた。有難いことなのに、今日だけはそっとしてほしいと思ってしまう。劣等感を抱えたまま、恵梨といつもどおりに接せられる程器用ではない。
「うん……」
 恵梨の誘いは断れない。なるべく明るく振舞わなければ。恵梨に嫌な思いなんてさせてはいけない。
 鞄を手に持ち、校舎の出口までゆっくりと向かう。私たちがいる階層は三階。意外と距離がある。
「これでやっと試験も終わりだね。やっとゆっくりできるー」
「だね。恵梨、頑張ってたもんね」
「えへへ。ありがと」
 試験の事が話題にあがるが、成績の事には触れない。触れて欲しくないし、恵梨だって賢い人間だから私の気持ちくらい分かるだろう。
「なんだか開放感で信号無視とかしちゃいそう。赤信号で飛び出しそうになったら、その時はよろしく」
「責任重大だ。恵梨の命は私が握っているのね」
「そのとおり。頑張ってくれたまえ」
「威張らないでよ」
「そんなこと言っても恭子は頑張ってくれるって分かっているのだよ」
「頑張らないかも知れないよ」
「頑張らないって断言できないのねー」
「それは……」
 からかうように恵梨が続けた。活き活きとした表情で私を照らす。私をからかう事で楽しい気分になれるのなら、欠片も嫌な気はしない。
 口が動かなかった。反論の言葉がすぐには思いつかなかった。恵梨の指摘が的確過ぎるから。
「ほら言い返せない」
「……意地悪」
 こうして言い包められるのは何回目か。私が逆の立場になったことは、数える程もないと思う。
 階段を並んで降りる。踊り場で方向転換。次は二階。
「でもちゃんと歩いてね。本当に信号無視なんてされたらって思ってたら、心労で倒れちゃいそうだから」
「分かってる。本気だと思った?」
 まさかそれはないだろう、と言わんばかりに私に問いかける。
「だって、恵梨はやると言ったらやる人間だから……」
 そのまさかで、半分は信じていた訳である。たまに、恵梨という人間が分からないことがある。
「もう。そんな訳ないじゃん。恭子に危ない目に遭わせたら大変よ」
「本当にそう思ってる?」
「本当だよー。疑ってるの?」
 私より数歩先に二階まで恵梨が降り、私を軽く見上げる姿勢で言った。
 冗談かどうか判断の付きづらい表情だ。ニコニコ笑い軽い調子で、これが噂のポーカーフェイスというものなのか、と足を止め整った恵梨の顔を観察してみた。
「何? どしたの?」
 恵梨が私の目を見つめ返す。今度は単純な表情で、さっきの言葉がそのまま顔に書かれているようだ。声と表情で私に訴える。
「なんでもないよ。信じるね」
 恵梨に離された距離を縮ませ、再度肩を並べる。
 もしかして私に気を遣っているのだろうか。恵梨の気持ちは分からないけれど仮にそうだとしたら、気がつかなかったことにしておこう。私の邪推の可能性が高いし、自惚れにも程がある。勘違いしただけだ。勘違いでなかったら、惨めな思いになるだけだ。恵梨に気を遣わせるお荷物だ。お荷物になんてなりたくない。そんな私の気持ちは、きっと恵梨は知らない。
「ねぇねぇ、昼からどうしよっかー」
「とりあえずご飯かな。私は特に予定もないけど」
「だったら一緒に食べに行かない? 今日はお昼ご飯代貰っててね。贅沢できるの」
「いいよ。付き合うよ。どこにするの?」
 財布の中には確か二〇〇〇円は入っていた筈。昼食代には十分だ。
「そうだなぁ。ラーメンが食べたいかも。美味しいお店知ってる?」
「難題だね……」
 私は味に好みとか、拘りとかがない。美味しいと感じる条件は、値段が高いか高くないかくらいしか思いつかない。本当に美味しい料理も、不味い料理も食べたことがない私に、美味しいお店を紹介するなんて無理だ。
「そうだ。駅前に新しいラーメン屋さんが出来たよね。そこ行ってみようよ」
「あぁ、そういえば。あそこラーメン屋さんだったんだね」
「どうみてもラーメン屋だと思うんだけど」
「私一人じゃああいう所って入りづらかったんだー。今日は恭子がいるから安心安心」



 こうして女二人でラーメンを啜ることになった。食べに行ったラーメン屋で食べたラーメンは、美味しいかも不味いかも分からなかった。恵梨は美味しいと言いながらラーメンを啜っていたので、きっと美味しい部類に入る味なのだろう。
 昼食を食べ終わった後は、恵梨の提案で恵梨宅で映画鑑賞をすることになった。
 結局借りたのは有名な映画のタイトルをインスパイヤしたようなタイトルの映画を三本。
 レンタル料は割り勘で払い、現在進行形で映画鑑賞中。
 恵梨の部屋にはテレビとDVDプレイヤーが完備されていて、二人で部屋にこもってよく映画を見たりしている。
 恵梨は部屋の半分を占めるベッドに腰を下ろし、私は用意してくれた座布団の上に座っている。いつも外から覗き込もうとしていた窓はカーテンが今も閉められている。部屋の隅には綺麗に整頓された勉強机が見える。
 モニターに映る映像はさっきまで記憶していた場面とはまったく違っていた。
 恵梨の態度が気になって、映画に集中できなかった。
「今回のは外れだね」退屈そうに恵梨が言った。
「うん」
「もう少し考えて借りるべきだったかなー。借りるまでは楽しかったのに。ていうか、今考えるとアニメという選択肢もあったよね。昔見たお子様向けの奴とか、絶対面白い」
 場を和ませようとしているのか、恵梨が独りで話す。無理しているように見えた。
「何だか、今日はよく喋るね」
「そうかな?」
「何となく。そんな気がする」
 私が言いたいのはこんなことでなくて、恵梨に聞きたいことがあるのに、なかなか声に出せない。
「あのさ、私に気遣ってなんか、ないよね?」
 恵梨を疑っていた。恵梨を信じられない自分に少し苛立っているのが分かった。
「何となくなんだけど……いつもと違う気がするっていうか……。成績のことだったらさ、恵梨は何も気にしなくていいから」
 俯くのが卑怯だと思いながらも、恵梨の顔を見ないで言う。
「今回はいつもより成績悪かったけどさ。恵梨の成績が良いのと私の成績は関係ないんだから」
 恵梨は答えない。反論もしない。黙って私の声を聞いているようだった。テレビから空しく映画の音が聞こえる。
「そういうことされると、その、なんかさ、恵梨のお荷物みたいだから……嫌なの。分かってるんだよ。私は恵梨に敵わないって。だから私の事なんか気にしなくていいから。そんなことしてほしくないし……、惨めになるだけだし……」
 久しぶりに告げた本当の気持ち。出来ればこんなことは言いたくなかった。我慢が出来なかった。惨めな自分に耐え切れなかった。劣等感に耐え切れなかった。本音を吐き出すのは、無理やりに胃液を吐き出すくらいに辛いものだった。
「恵梨に気遣わせないように頑張るから。頭悪くてごめんね」
 腹の中に残っていた負の感情まで、飲み込みきれずに吐き出した。
「ごめん」
 否定も何もなく、一言だけはっきりと聞こえた謝罪の言葉は、粘着力を持って私の心に貼りつき、絡みついた。空気も粘つき始めて、息が苦しかった。
 恵梨の顔が曇り始めて、泣きそうに見えた。恵梨が目の前で悲しげな顔をしているのに、普段どおりに空気を吸い込んで生きている自分がひどく薄情な人間に思えた。それでも呼吸を止められずにいることに後ろめたさを感じながら、恵梨の謝罪の言葉を噛み締めた。
「そんなに気にしないで。私の、勘違いだし……」

⇒To Be Continued...

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