愛おしい肉
作者: いちじく   2008年12月29日(月) 18時35分32秒公開   ID:7V0hqzIcwiM

「人間って身体を切ると頭の中で快楽物質分泌するんだって」
 珈琲の匂いがきつく漂う喫茶店で、空になったグラスのストローを噛みながら彼女は呟いた。
 現在の時刻十二時半。この地区では珍しい黒のブレザーと青いタイとリボン。もろに学生、と言った格好の僕達は少なくともこの時間帯での店内では浮いていた。
 セピアカラーのシックなテーブルに向かい合あう僕達。横には広げたノートと教科書、加えて参考書。“学生が勉強しに来ました”と声高に主張しているかのような状態。
 現に僕らは期末テストの勉強に来ていた。高校の期末テスト前お決まりコースだ。店側にしてみればいい迷惑なのだろうが、こんな状態も今年で二年目になる。まぁ、そのメンバーには若干の変化があったのだけれど。
 二人別々の問題集を解いていると言う状況を差し引いても――昼時の店内のざわめきに反して、僕らの間に流れる空気はなんだか妙に冷めている気がした。
 でも別に苦痛と言うわけではなく、寧ろ僕はこのカンジを好いている。
「まぁ別に正当化しようとかそーゆーわけじゃないんだけどね」
 髪を掻きあげた彼女の、ブレザーの中ベージュのセーターの袖口に、ちらりと黒い痣と傷が覗いた。
 新古複数の傷が入り混じる中、真新しい赤黒い線が数本確認出来た。白くて細い彼女の手首には、それらは異様に醜く映るけれど、不思議と僕は不快には思わなかった。
 それどころか惹きつけられているような気さえした。
 ――彼女、森田沙耶には自傷癖がある。精神ではなく、肉体的なほうの。
 彼女の手首に目盛りのように刻まれた傷は入学当時から認知していた。夏や春はリストバンドやらシュシュやらで傷を隠していたけれど、秋冬は長袖を着ているので傷自体を見かける回数は多かった。
 別にそれを咎めようとも、止めさせようとも思わなかったけど――
「なんで沙耶って手首切るの?」
 なんとなく気になって、聞いてみた。
「……ずいぶん直球だね。もうちょい遠慮しようよ」
 彼女は苦笑して問題を解く手を止めて、銀色の細身のシャープペンの柄を顎へと押し付けた。指を口元に近づけたかと思うと人差し指の腹を軽く噛む。彼女の癖だ。
「後ろ暗い気持ちでやってんの?」
 そうじゃないなら他人を気にする必要なんて無いのに。
「別に。ただ建前上気は使っているつもり」
 別に自分に酔いたいわけでもないし、と付け足して、彼女は右手を自分の左手首へとやった。トップコートでコーティングされた、形の良い爪が一瞬つるりとてかる。
 そうして彼女は再びペンを握り、学校から配布された数学の問題週を解き始めた。成績に厳しい両親を持つ彼女のことだ、テストの範囲なんてとっくの昔に網羅してるだろうに。
「勉強楽しい?」
 聞いてみた。
「高橋となら悪くないよ」
「なんだそれ」
「光栄に思ってよ。彼氏クン」
 ふふ、といたずらっぽく笑った。彼女はたまにこういう直球なことを言ってくるのだから堪らない。僕の口元も思わず緩んだ。

 沙耶とは三ヶ月ほど前から付き合っている、所謂恋人同士の関係だ。
 一年の頃から同じクラスで、もともと席も近く会話する事も多かった。
 三ヶ月前の放課後、なんとなく「好きだよ」と口走ってしまったら、彼女は拍子抜けするほどあっさりと「じゃあ付き合おっか」と僕に返してきた。
 タナボタってこう言う事を言うんじゃないだろうか。好きと想ってはいたけれど別に付き合いたいと言う願望はそれほど無かったし、好きと伝える時だってなんの覚悟も期待もしていなかった。
 成り行き任せ。そんな言葉がぴったり来る。
 とにもかくにも、予想外続きだとは言え今の僕はそれなりに幸せ者なんだと思う。
 好きな人と、好き同士でいられるのだから。

 例え恋人に対する感情が日に日に異質なものへと変わっていったとしても。

「そう言えばさ。高橋クリスマスって予定あるの?」
「勿論でゴザイマスよ、愛する沙耶サマのために」
「もう、なに言ってんだか」
 彼女はくすりと笑うと少しうつむき加減に、氷が解けた水をず、と啜った。
 長い睫が彼女の頬に影を落としていて、その姿がどうしようもなく愛おしい。
「プレゼント期待してもいー?」
 水の珠が浮いたグラスを、指でなぞりながら彼女は微笑んだ。
「まぁ、ほどほどにお楽しみに」
 ふ、と窓の外を見ると――いつの間にやらちらちらと細かい雪が風に吹かれていた。十一月以来久々の雪だ。
「雪だ」
「雪だね」
「積もりそうにない、ね」
「うん」
 雪は地熱に負けているかのように黒いアスファルトを覆うには至らず、ただ地面に落ちていく。
 地球温暖化の影響なのかねぇ、などと呟くと彼女はそうかもね、と相槌を打った。
 積もらない雪はなんとなく寂しいと思う。そう言えば雪は鉱物の一種だったけ、なんて理系の教師の小話を思い出した。
 しばらくぼっと外を眺める。雪の奇跡を眼で追って行く。風が強そうだった。
「高橋」
「ん?」
「ジュースが大分悲惨なことになってるけど」
 言われて僕は自分の手元に置いてある殆ど手付かずのオレンジジュースの存在を思い出した。
 長い間放置されていたオレンジジュースは水の部分とジュースの部分が分離してしまっている
「果汁100%の意味は?」
 彼女が茶化す。
「うっせ。100%が美味しいなんて幻想だから。ある程度薄めたほうがのど越し良くて美味しいんですから」
 僕はストローでジュースをかき混ぜてながら言う。
「なにその知識?」
「本に書いてあったんです」
「ならちょっと飲ませてよ」
「丁重にお断りします」
 ちぇ、と彼女は伸ばした手を引っ込めた。その時また彼女の手首の傷が眼に入ってどきりとした。
 ジュースを啜る。解けた氷で明らかに薄まりすぎたオレンジジュースはあまり美味しいとは思えなかったけれど、どことなく懐かしい味がした。
 僕の視線は、彼女の左手首から離せない。

「高橋ー美術って楽しい?」
 喫茶店からの帰り道、彼女は不意に僕に訪ねた。
 まだ五時だと言うのに日はすっかり落ちてしまっていて、空は暗色に染まっている。
「そりゃあねぇ」
 車道の角を曲がり、彼女のマンションがある団地内に入る。
 人通りも少なく、灯りと言えばぼんやりと石畳を照らすオレンジ色外灯が等間隔にぽつりぽつりとあるばかりでなんだか頼りない。
 直線の道の先には塗りつぶしたような暗闇が見え隠れしている。
 吐く息が白く濁る。雪は降り止んだものの、その名残のようにぴんと張った冷たい空気が夜闇を一層暗く感じさせた。
「楽しいっていうか好き、かな。」
「そか。美大目指してるんだっけ?」
 一応、と頷く。
 美大。中学の頃からぼんやりとは考えていた道だった。
 受験を見据えて一年の頃から相応の努力はしているつもりだけれどやはりまだ自信は持てなかった。
「てか高橋って部活行ってる?」
「いや。最近は行ってないかなー……ほら、あそこ結構自由だし」
 行っても行かなくても大して変わらない。
 もともと僕らの高校の美術部は“美術部兼帰宅部”として扱われているような部だ。
 静かな空間が確保できる分、作品制作にしてもデッサンにしても家でやったほうが効率がいい。
「なるへ。まぁあたしも行ってないしね」
「二人そろって幽霊部員ってどうなんだろうね」
「んー……まぁ、あたしはともかく高橋はいいんじゃない?」
 それから話題は受験のことから期末テストのことへ。数学の田代のテストがどうだとか、生物の範囲は広すぎるだとか、毒にも薬にもならないような話が続く。
 十分ほど歩くと、彼女が住むマンションが見えてきた。
 この常に管理人がいるわけでもなく、各号室の前まで巣同士になっている開放式マンションは、どちらかと言うと団地と言ったほうがしっくり来る気がした。
「そんじゃ、ありがと。また明日ね。もしくはメールする」
「うん。そんじゃ」
 彼女がエレベーターに入り、そのエレベーターが上に上がるのを確認して、僕は自らの家路についた。
■作者からのメッセージ
えと、ヤンデレ恋愛小説の実験みたいなカンジで。
続きます。

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