羽のある生活 4 | |
作者:
トーラ
2008年12月05日(金) 16時52分37秒公開
ID:Ar11ir4Sh.c
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久方ぶりに笑顔を張りつけた気がした。 「それじゃあ、行ってくるわ」 詩縫は、彼女の返事を待たずして飛び立った。 夜乃の叫びを聞く。幸人が聞き慣れた物とは程遠い雄叫びだった。手負いの獣のように夜乃が吠え、もがくように翼を動かし、空をのたうちまわる。 暴れる夜乃に近づけなかった。危害の及ばない距離を保ちつつ夜乃を視界に収めることしかできていない。 何のために夜乃を追いかけたのかを思い出す。確実なのは、こうして見つめるためではない。 夜乃を苦しめているのは背から生えた幾つもの翼だろう。翼は天使の力の源である。それを今までヒトとして生活していた夜乃が得れば、身体への負担は余程の物に違いない。 とにかく、翼を休ませることが先決か。そのための最も単純な方法は、幸人が夜乃の身体を抱き支えることだ。夜乃の翼で空を飛ばせなければいい。上手くいくかは分からないが、それ以外の方法は思いつかなかった。 欠片でも夜乃が敵意を持って翼を動かせば幸人は五体満足ではいられないだろう。 自身を案じているだけでは、何かを成すことなどできる訳がない。怯えているだけでは、何もできない。 「夜乃様! 落ち着いて!」 夜乃に向かって幸人が声を上げる。声に反応したのか動きが一瞬だけ止まった。 「翼を動かさないで! 俺が受け止めるから!」 声は確かに届いている。伝わっているかは別にして、だ。 夜乃が幸人の存在を認識した。幸人と夜乃が向き合ったが、すぐに無秩序に空を動きまわる。幸人の言葉を聞きいれ、翼を休めることはしなかった。 休めないのではなく、休められないのだろう。翼を自在に操れるのなら、こんな不規則な動きなどしない。 幸人が歯を食い縛る。危険を恐れる心を噛み砕くように。 夜乃に向かって幸人が飛び込んだ。両腕を広げ、夜乃を真っ直ぐに捉えて一直線に突進をかける。 「……くっ! 飛ぶな! 俺に捕まっていればいい!」 夜乃を抱きとめた腕に焼けるような熱量が伝わる。夜乃が発散させている力の一部か。 激痛に耐え幸人は全力で夜乃を抱き締める。 幸人の腕から逃れようとする夜乃を抑え込むのにも、渾身の力が必要だった。少しでも力を緩めれば夜乃の束縛が解かれる。腕が引きちぎられそうだ。 叫び声を上げる夜乃を苦痛に顔を歪ませながら必死に抑えつける。 「夜乃! 動かないで!」 声を出すのもつらかったが、声が伝わる可能性があるのなら、自分の声が夜乃に届くのなら身体の負担など深くは考えない。 夜乃の抵抗が微かに和らいできた。夜乃が叫ぶのを止め、大口を開き涎を垂れ流しながら荒い呼吸を繰り返す。 「――……ゆき、ひと……くん?」 酷く掠れた、枯葉を擦り合わせたような声で名前を呼んだ。初めて聞く声だが、この場所で幸人の名を言える者は一人しかいない。 「夜乃……? 俺の事が分かるのか?」 「――痛いよ……苦しい……、助けて……!」 夜乃の腕が幸人の背に回る。その手に宿る熱は紛れもなく夜乃の物だった。サンダルフォンではなく、夜乃の物だ。 「大丈夫だから落ち着いて。俺が、何とかするから」 これからどうするかなど考えはない。ただの気休めだ。夜乃と一言だけでも会話が成立したことで根拠のない自信が生まれていた。夜乃を安心させるつもりが、結果としては幸人自身を安心させることになった。 夜乃の腕に応えるように、幸人も夜乃の身体を抱きよせる。 誰かが身体に触れた。 夜乃が最初に感じた物は恐怖だった。激痛によって五感が麻痺し上手く身動きもできず、暗い海に溺れているような状態で、正体の分からない物が身体に触れる。 反射的に逃れようとしていた。夜乃を支配しているのは本能だけだった。 すでに束縛された身体をがむしゃらに動かす。それでも貼りついた何かは離れない。 声が聞こえた。声を荒げている。だが彼方からの声のように上手く耳に届かない。 本能に支配される理性が僅かだが震えた。 聞きとれず意味も理解できない声でも確かに夜乃の中に入り込んでいく。 何故だが分からない。分からないが、声が響く。 「――夜乃!」 誰かが自分の名前を叫んだ。そう聞こえた気がした。 ――私は、この声を知ってる……。……誰? 身体の傍から何者かの気配を感じる。掠れる目を凝らした。記憶を揺さ振る誰かを確認したかった。一体誰が名前を呼んでいるのか。 不鮮明な視界の半分を埋めたのは、白い二つの光だった。 ――これは、翼? 朦朧とし深く沈もうとする意識を支え、少しでも視界が晴れればと限界まで目を見開く。 まだ、分からない。もう少しで分かる。 誰かが自分を抱き締めている。声はきっと、男の物だ。目の前にいる筈なのに、はっきりと顔が見えない。 一人の男の顔がふと思い浮かぶ。確信はないが、もしかしたら。 「――……ゆき、ひと……くん?」 彼がここにいる理由など思いつかない。そもそもそこまで思考するだけの余裕がない。 これは願望なのかも知れない。幸人が傍にいて、抱き締めてくれていると思いたいだけか。 「夜乃……? 俺の事が分かるのか?」 もう一度自分の名前を聞いた。もう、幸人の声にしか聞こえなかった。 願望でも、幻でも構わない。夜乃は幸人に縋りついた。この苦しみを少しでも和らげたかった。幸人が傍にいてくれるのなら、恐怖も薄れる。 「――痛いよ……苦しい……、助けて……!」 背に回した腕に力を込める。力の加減ができず、出せる限りの力で幸人に抱きついた。 「大丈夫だから落ち着いて。俺が、何とかするから」 幸人が夜乃を抱き締め返した。一つになるかのように、お互いに身を寄せ合う。そうすることで不思議と苦痛が解放されていくような気にさえなった。 幸人の温かな言葉を聞きながら、夜乃は意識を失った。 桜の花弁を散らしたように、夜空に白と黒の羽が舞い、それが月明かりに照らされる。 詩縫が駆け付けた時には既に事は終わろうとしていた。 抱き締めあう夜乃と幸人が、羽の吹雪の中心にいた。夜乃の翼は夜風に吹かれ先から徐々に散っていく。 翼の力が失われたのだ。 詩縫が夜乃の力をすべて受けきることで力を枯渇させ夜乃を鎮める予定だったが、どういう訳か幸人が夜乃を落ち着かせていた。 下級天使がサンダルフォンの力を暴走させた夜乃を取り押さえるなど奇跡に近い。 「これが若さかしら」 舞い続ける羽の群れをぼんやりと眺めながら詩縫が呟く。 二人に背を向け詩縫が羽ばたく。もう自分はお呼びではないようだから。 |
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